第六章 第41話


 美颯が目を覚ましたのは早朝のことだった。

 いつもより少しだけ早く目が覚めたのだが、ここ最近では一番深い眠りについていたように感じる。


 そう思えるのも全てはこの家――草摩家に居候することになったからだろう。心の拠り所が見つかったことが大きかったのかもしれない。


 久方ぶりによく眠れたこともあって意識はまだ微睡みの中にある。

 もう一眠りしようかと考えていた時、隣でいつも一緒に寝ているはずの伊吹の姿がないことに気づいて美颯は飛び起きた。


「イブ?」


 呼んでも返事はない。

 見回して目につくのは、棚いっぱいに並べられた植物に関する本だけだ。ここは昨日まで煌輝の部屋だった場所である。


 部屋着が綺麗に畳まれていることから、どうやら既に起床した後らしい。

 ベッドから抜け出した美颯は、扉を開けて廊下に出るなり耳を澄ます。


 早朝でまだ誰も起きていないのか家の中から一切の物音がしない。だが耳を澄ましているうちに誰かの話し声が庭の方から聞こえてくる。


 煌輝の部屋に戻って窓から外を見やると、伊吹の後ろ姿がちょうど建物の陰に消えていくのが見えた。


 ――こんな時間にどこへ?


 美颯はそんな疑問を頭に浮かべながら、急いで制服に着替えて庭へと向かうのだった――。


***


 庭へと向かい伊吹の後ろ姿を見つけたまでは良かったが、途端になぜか隠密な行動を取ってしまい建物の陰から出るに出られなくなっていた。


 ――どうしてこんなことをしているのだろう?


 そんなことを考えながら愛しき妹の背を遠くから見守っていると、


「これで、いいですか?」

「ああ。助かったよ。ありがとう」

「いえ……」


 その声は伊吹と煌輝の声だった。

 いつになく彼の声が優しく聞こえたような――そんな彼を見る我が妹の周囲には、漫画のようにハートマークが散らばっているように見えるのは気のせいだろうか。


 目をこすってそれが幻覚だったことはわかったが、二人の姿を傍から見ていると今度はなんだか無性に妬けてくる。


 普段の煌輝からは想像もつかないような穏やかな表情。さらに自分以外に向ける妹の笑顔を見たのは初めてのことだった。


 なんだか複雑な親心が渦巻く中で、ふと美颯の目に黒色の薔薇が目についた。

 シルクのように滑らかで深い光沢感のある黒色は妖艶な美しさを放っている。


 吸い込まれそうな魅力を秘めた、美しくも妖しい薔薇に見惚れ思わず手を差し伸べそうになったとき、


「その花に触れてはいけませんよ」


 背後から掛かった声にビクリと反応して手が止まる。


「……絢芽さん?」


 いつからそこに居たのか、美颯の背後に立っていたのは草摩絢芽だった。


「綺麗な花には刺があるものです。その薔薇の刺には神経毒が含まれているので迂闊に触ると動けなくなりますよ」


 話を聞いて、美颯は思わず薔薇から離れる。


「そ、そんな物騒なもの外で育てないでくださいっ! イブが触って怪我でもしたらどうするんですか!?」

「伊吹さんなら花の知識を熟知していますし、得体の知れない花に迂闊に触れたりしません」

「私が触っちゃうところだったんですけど!?」

「だからこうして触らないようにと警告しに来たんですよ」

「うっ……でも、どうしてこんな花を育ててるんですか……?」

「草摩は多くを失いすぎました。だからこれ以上何も失わないために、わたしたちはわたしたちを守るための手段を確立しているんです」


 寂しげに敷地を見回す絢芽の姿に、美颯も察するところがあった。

 これだけの広大な土地に二人だけしか住んでいないのは不自然である。夕飯時だったこともあって詳しくは聞かなかったが、二人は幼い頃からこうして暮らしてきたという。


 花やエッセンシャルオイル等を売って家計の足しにしているらしいが、もちろんそれだけで生活できるほど現実は甘くない。

 煌輝は国家魔導師として、絢芽は国内の吸血鬼――西蓮寺を保護する特殊機関“八乙女”に所属することでギリギリの生計を立てているのだ。


「そ、そうだ……! あの、先日はありがとうございました」


 二人の生い立ちを考えていたらなんだか泣きそうになってしまったのもあって、美颯は顔を伏せるように頭を勢い良く下げた。


「もしかして“狼憑き”の件についてのことでしょうか?」

「はい。私のことまで気遣ってくださってありがとうございました」


 二人の話は、先日のテロリストと合成魔獣による成守学園襲撃のことである。

 襲撃の件もそうだが、吸血鬼である西蓮寺茉莉や“狼憑き”状態の美颯の姿が多くの生徒の目についたこともあり、中等部は一時騒然となった。


 その騒ぎを一瞬にして鎮静させたのが絢芽だったのだ。

 絢芽には花の香りを操ることで相手の精神と記憶に干渉する力があり、リミナスを込めた香り風に乗せて生徒達に嗅がせることで二人に関する全ての記憶を学園単位で改竄したのだ。


 だから爆発によって校庭に空いた大きな穴も、合成魔獣が一瞬にして殲滅されたことも、全ては高等部の教師である上杉紫の仕業ということになっている。

 香りの調合次第では自白剤を作ることもできるらしく、尋問にも長けた能力者であると事件後に紫から聞かされた。


「あれから何かお変わりはありませんか?」

「はい。おかげさまで耳のことは大事になりませんでした。というよりも、本当に誰も覚えてなくて、むしろびっくりしているというか……」


 あれだけのことが起きたにもかかわらず、学園はあの後いつも通り授業に戻ったというのだから驚きである。


「それなら良かったです。わたしとしましても、茉莉さんが人目につくのは避けたかったものですから」


 亜人種――それも“吸血鬼”が人混みに紛れて学園に遊びに来ていた、なんてことが知られれば一大事である。


 記憶改竄が一般的な能力者によるものならば、さらに大事になっていただろうが、西蓮寺を保護する“八乙女”ならば大抵のことが超法的措置として認められているので、向こうとしてもこちらの方が都合が良かったのだろう。


 しかし少し影を落とす絢芽を見て、美颯が覗き込むようにして見る。


「絢芽さん?」

「あ、いえ……。いつか皆さんから受け入れられるような時代になるといいなと。吸血鬼も含めて、世界中が“亜人種”に対して寛大であればと切に願っています」


 今はそこにないが、美颯の狼耳が出る部分を見ながら絢芽は優しげにそう言った。


「そうですね。でも今はこうやって言ってもらえるだけで充分です」


 健気な美颯を見て絢芽は上品に、ふふと笑った。


「え、何かおかしなこと言いました?」

「いえ。美颯さん達の耳と尻尾に関してはそこまで気にする必要もないと思いますよ。とても愛らしくてわたしは好きです。当事者ではないからそう言えるのかもしれませんが」


 それに、と絢芽は付け加える。


「――何を不安に思う必要があるというのか。彼女達はこんなにも美しいというのに、って煌輝さん言ってたんですよ」

「こ、煌輝くんが!?」

「はい。ですから、少なくとも我が家では何の心配もいりませんよ」


 慈愛に満ちた表情に美颯は心が救われるような思いだった。それは母親のような温かさで、姉のような頼もしさもあり、友達のような気楽さもあった。


「さて、煌輝さん達も待っていますし、わたし達も向かいましょう」


 着物を正して煌輝たちのいる庭へと向かう絢芽の背を、美颯はぼーっと眺めながらしばらくして後を追いかけるのだった。

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