第28話
「まず、日本に潜伏しているとされるパラトスの幹部、そのうちの一人の身元が割れたわ。名前は――
一気に緊張感が高まる二人だが、話はそれだけではなかった。
紫はしばしの間思い詰めたように固まり、今度は何か言い淀むような様子を見せる。
「犯人の身体的特徴なんだけど……その、日比野泰明の頬には、大きな火傷痕があるそうよ」
口から言葉が出るよりも先に、煌輝は驚愕を通り越して紫の両肩を掴んでいた。
「本当ですか!? 奴は今、一体どこに居るんですか!? もっと……もっと情報をッ――」
目を見開く煌輝の瞳の色は怒りに燃えていた。もちろんそれは紫に向けてのことではない。
国家魔導師となった理由――その根源となる仇敵とも言える存在がこの街にいる。
それも今は美颯を狙ってこの街にやってきている可能性が高い。それだけで煌輝は居ても立ってもいられなくなっていた。
激しい怒りの波が、体の芯から一気に広がっていく。
「お、落ち着いて煌輝……まだこれだけの情報でそいつだと決めつけるには早いわ」
殺気立つ煌輝を前に少しばかり表情を強張らせる紫だが、その声は彼に届いていない。
話を聞かされてからというもの、煌輝の脳裏には当時の忌まわしい記憶がフラッシュバックしていた。
家が焼け焦げる臭い。肌に伝わる熱波。耳を塞ぎたくなるような母親の悲痛なうめき声。それらは何年経っても色褪せずハッキリと焼き付いている。
一言で片付けてしまうならそれは復讐心だった。国家魔導師になった理由も、その人物――日比野泰明との接触機会を少しでも多く得るためであった。
「教えてください先生! アイツは俺の――ッ!」
紫の肩を掴む両手に、さらなる力を込めようとした時だった。
突然――室内の温度が急激に下がった。背後から冷気が溢れだしていることに気がついて、煌輝もハッとなって我に返る。
「見苦しいわよ草摩君。その手を離しなさい」
琴音の足元を中心に凍結が始まり、少しずつ室内を侵食しつつあった。空気中の水分が凝結し小さな結晶となって宙を舞っている。
それは魔法と呼ぶには程遠く、ただ彼女の感情に呼応して発動している冷気の一端に過ぎない。
しかしそれでも冷気に含まれたリミナスの余韻は彼女の潜在能力の高さを物語っていた。彼女がその気になれば、この空間を瞬く間に極寒の地へと変えることだってできてしまうのだと。
「私如きの攻撃に気がつかないなんて注意散漫なんじゃないかしら。今のがAランクの犯罪者だったなら、貴方は一瞬で殺されていてもおかしくないわね」
見下すように煌輝を見る彼女の声には失望にも似たものが含まれている。元々冷め気味の声音ではあるが、いつも以上に冷たかった。
琴音の叱責によってようやく冷静さを欠いていることを自覚した煌輝は、慌てて紫から手を離して頭を下げる。
「す、すみません……取り乱しました……」
一瞬にして頭が冷え落ち着きを取り戻していくに連れ、今度は酷く表情を落とす。
自分でも驚くくらいの取り乱しようだった。
こんな感情がまだ残っていたとは思いもしなかっただけに、仇敵への憎悪はそれほどまでに強烈なものだったのだと改めて思い知る。
「無理もないわよ。ほら、頭を上げて」
事情を知っている紫は優しく笑うが、それが余計に罪悪感と羞恥心を強く抱かせ頭を上げにくくなってしまう。
そんな煌輝を背後から眺める琴音は、普段ならばここで軽く冗談の一つでも言うところだが、只ならぬ雰囲気を察したのか口を固く閉ざしていた。
「今回のパトロールはその一環を兼ねていたのよ。二人じゃ心許ないと思ったのも、万が一にでも鉢合わせた場合を考えてのことだったの」
「確かに。今の草摩君では足手まといですからね。大神さんが居てくれるのは心強いです」
刺さるような言い方に煌輝は奥歯を噛み締めた。彼女の言う通り、今の我を忘れた自身では足手まといになることは明白である。返す言葉もなかった。
「それと犯人の身元が判明したことから事情が変わったわ。もしも日比野泰明と遭遇するようなことがあったら、あなた達は全力で逃げなさい」
「なっ――どうしてですか!?」
思いもしない命令に再び声を荒げる煌輝だったが、今度は琴音も止めはしなかった。
「理由を訊かせてもらえますか? 国魔師として犯罪者を前に逃亡などあってはならないことかと」
「……あたしでも確実に勝てるとは言い切れない。といえばわかってくれるかしら」
「それは私と草摩君、加えて大神さんの三人がかりでやっても結果は同じということですか?」
「少なくとも、あの美颯が戦わずにして日本に逃げてくるくらいにはヤバイ相手なのは確かよ」
間を置かずして答えた紫にさすがの琴音も言葉に詰まる。
もちろん能力の相性もあるだろうが、生真面目で正義感の強いあの美颯が敵前逃亡するとなるとこれは異常なことだ。
ましてや世界でも高序列に名を連ねる紫ですら、勝算を確実には見込めない相手だというのだから日比野泰明は煌輝達が想像している以上に難敵であることがわかる。
「それと、これは今から三ヶ月前のことになるけど、欧州の一部を占領していた吸血鬼の一派を相手に日比野泰明はたったの一人で退けたそうよ」
紫の言葉に、煌輝は今度こそ言葉を失った。
釘を刺すように言われた事実は、煌輝の復讐など到底叶わないということを突きつけるには十分過ぎる情報だった。
「その話が本当なら、確かに私達では手も足も出ないですね。他に何か、日比野泰明の能力に関する詳細は?」
「専門家の判断では炎系統を扱う能力者じゃないかって言われてるけど、何せそいつと戦って生き残ってる連中が少なすぎて情報がはっきりとしないのよ。監視カメラの映像もほとんど残ってないって」
「吸血鬼を相手にできるというのだから、ただの炎系統ではないんでしょうね」
琴音の冷静な分析にしても、紫の下した命令にしても煌輝は何も言い返せなかった。
復讐はおろか一矢報いることさえ難しいと――。怒りの振り下ろしどころを失い、この感情をどこへぶつければいいのかわからなくなる。
「……そういうことだから。できるだけ単独行動は避けてちょうだい」
行き場のない怒りの感情に、このままでは再び取り乱してしまうかもしれない。
そう思った煌輝は拳を力強く握りしめ、医務室を後にするのだった。
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