day3昼 火の亡者:博物館


 目が覚めたときには、白い陽光が既に燦燦さんさんと町に降り注いでいた。

 私は意識を白熱電球の中のような状態に保ったまま薄目を開けた。そうして、ニィの背中に押しつけていた顔を離して、オーストラリア大陸のようなカタチにシミた涙痕を見つめた。のんきな猫みたいな大欠伸をかまして、さていっちょもうひと眠りでもしましょうかという具合に頬をもたせかけてから、ようやく意識を覚醒させた。

「ナイトワズゴーンッ?」と私は掠れた声で訊いた。

「び、びっくりしたよ? どういう意味なの、それは?」

「夜は明けたの?」と私はニィの横顔を後ろから覗き込むようにして訊いた。

「そりゃあね。こんなに眩しい月光はないさ」

「随分と眠ってたな」

 私はしばし、上下に揺れる視界を後方にスクリーン型のまま置いてけぼりにしながら、次になにを言うべきなのかを考えていた。

 意識を覚醒させたとは言っても、私はまだ若干、意識の端っこはぼんやりさせたままでいた。印象強い夢をむりに中断して起きて、朝食を食べながらテレビのつまんないインタビューコーナーを呆けたように観ている子どものような状態だった。

 もう少しで夢の全貌を思い出せるような気がしているんだけれど、現実には着替え、歯磨き、洗顔と僅かな時間の中で頼りない意識を引っぱたきながらもたくさんやらなければならないことがあって、そう、それはきちんと把握できているのに、無為に時間を浪費するという一番ダメな選択をしてしまっていた。たぶん、テレビのせいだ。この場合においては白昼夢のように白み煌めく情景のせいだろう。

 催眠術の専門家(世界にはじつに様々な専門家がいる)の多くは、車を運転しているひととテレビの視聴をしているひとは一種の催眠状態に入っている、と述べているらしい。テレビを視聴しているときならまだしも、車の運転中に催眠状態に入っちゃあダメなんじゃないかと思った。睡眠状態に次いでダメだ。その次は苛々状態。とにかく、それはじつになんとかするべき事案だと思うのだけれど、世の中の専門家はたいてい、問題のなにが問題なのかを懇切丁寧こんせつていねいに説明してくれるだけで、いざ解決せんと動きはしない、ように思えた。

 口だけで世界が良くなるわけはないのだけれど、行動を起こすひとたちのことを最近の世間様は「偽善」だとか「さむい」「イタい」だとかって好き勝手言いやがっているので、そりゃあ、悪口をぶっつけられるって分かっててもなおわざわざ行動を起こすような真性に優しいひとはなかなか出てこなくなった。優しさにもたれてないがしろにしていると、その内完ペキに閉じてしまった。

 世間は世間の首を世間自ら締めていた。じつに勝手だ。だって、子どもは世間の枠に入っていなかった。世間が決めた世間の枠に入れる日に唐突に引き込まれて、そこでは醜悪しゅうあくな常識と悪辣あくらつな言葉が飛び交っていました、なんて、抗おうにも押さえつけられる。自分たちで散々散らかしておいて、子どもは整理整頓がー漫画ばっかりーゲームは一日一時間でーす、なんて、よく言えたものだ。

 私は一種の催眠状態に入っていた。栓を閉め忘れた蛇口のように思考がたらたらと溢れてきて、出口が見当たらないから脳みその中に貯まっていった。やがて貯まり過ぎると、重たくなって身動きが取りづらくなった。内向的なひとはどこかで貯まった思考を吐き出さなくちゃいけなかった。じゃないと、どこへも行けなくなるぐらいに重たくなった頭をもたげたまま、貯まった思考にとてつもないすまなさを感じながらおしまいにならなくちゃいけなくなった。どこへも行けないなんてご免だ。

 幸一くんは身軽でいたいようだったから、絵を描いていた。風景のスケッチや模写ではなくて、それは絵だった。思いのままに描かれた心像たちはスケッチブック何十冊ぶんと溜まっていっていたけれど、私がその中で見ることを許されたのはたった一枚だけだった。それは、燐のような青白い色をふんだんに塗られた、私たちが住んでいた町の絵だった。

「そうだ、大事なことを思い出したの。私、糸を手繰り寄せることができた。夢の中で、魂が肉体に接近していたよ」と私は右斜め前方を行くユキヒョウに話しかけた。

「へえ」

「反応がお母さんの作るめんつゆぐらい薄い」と私はむくれた。眠っている間に、誰かが私の下半身をマネキンの下半身と取り換えてくれたみたいだった。

 白む光で溢れる町は天界のごとき美しさだった。木漏れ日が揺れてくれていたら、もっと現実味があってよかっただろう。あまりに幻想的過ぎるものだから、感動もどこか他人事みたいになってしまっていた。

「もうすぐだよ。アカウミガメの復興の火の気配は間近にまで迫っている」とニィが言った。私はお母さんに呆れた笑みで小言を言われないのと人目が無いのとをいいことに、博物館前までは大人しくニィの背中におぶさったままでいた。

 私たちは橋を渡った。青い草と黄土色のセイタカアワダチソウとが生い茂った河原に挟まれて、一本の浅くて平たいひもかわのような川が真下に流れていた。

 遠くには白い建物群が見えた。まるで蜃気楼みたいに薄く引き伸ばされているようだったけれど、あれらはただ軒が低いからそう見えるだけだろうと思い直した。この町の建物はほんとうに低い。まるで巨人の足に踏みつぶされたあと放っておいたような、あまり格好がいいとは言えない風体をしていた。

 大阪とか東京とかではガラスが一面に張られた高い建物がびっしりと密集して建っているんだよ、と、いつか幸一くんに言われたときも私は、ふうん、とこぼしながらも信じてなかった。確かに、関東地方で地震があったり雷が落ちたりしたときなどには、東京のどこか高い建物に取り付けられた定点カメラからの映像がテレビ画面に映し出された、んだけど、あまりに私の知っている『町』とは違いすぎて、私にはそれがどこか違う惑星の風景を映しているように思えてならなかった。

 まるで砂絵のような風景だった。たぶん、私は無数のミサイルが降り注ぐ瞬間をテレビ画面越しに目撃してもなにも感じないんだろうなと思った。それぐらい都会という惑星は細々としていた。ともすれば、まるで塵の撒かれた黒いカーペットの上を掃除機が通過した様を見たときのような、ある一種の爽快感を覚えるのかもしれないなぁ、とまで思った。命なんかどこにも見当たらなかった。

 そのときに、私はふと、これが人間のこわいところだ、と感じたのだ。戦争が起きるのは、ひとの想像力が欠如してからなんだろう。ひとの心を考えることをサボっちゃいけない。僕らの命の義務なんだ。そう幸一くんは言っていた。

 橋を渡り終えると、博物館のてっぺんが見えた。いつもは中大中の三つの山形で噴出していた噴水が、いまはただのため池になっていた。噴水は電気で動いていたんだな、と、私はまた一つ賢くなった。

 博物館は森にぐるりを囲まれていた。森のそばには広い川が流れていた。こういう言い方をすると、まるで『注文の多い料理店』みたいな、深い山間の中に博物館がぽつん、って情景が思い浮かんでしまうかもしれないけれど、さすがにそこまでは辺鄙じゃないので、ご安心……というか、あまり調子づかないで肝に銘じておいてください。よろしゅう。

 博物館の正面前に伸びた道路の上で、ニィの背中からおりた。ふわふわとした感覚がガーゼみたいに纏わっている足裏を地面につけてから、どこかがかゆいらしいこっぱずかしさが襲ってきた。

「あ、ありがとう」どんなときでも、お礼を言うことは忘れちゃいけない。大人がやっていないからといって、私たち子どももやらなくていいというわけでは、必ずしもないのだ。

 私たちは博物館を見上げた。物々しく思えるぐらいの静寂が横に長い博物館の館を取り巻いているようだった。三館ある内の中央は長方形のガラス張りになっていて、まるで発射の予定をすっぽかされたロケットみたいなカタチをしていた。光の照り返し方に勢いがなかった。拗ねるか、或いは、孤独な気分に浸りでもしているんだろう。

 博物館の正面には亀の甲羅のようなオブジェが地面から連なって生えていた。光沢を帯びたそのオブジェを見やって、私はアカウミガメを助けなくちゃという意志をより強固にした。

「黒い拳の少なきものはこの中にいるはずだぞ」

「パッと見じゃ、私が人間って分からないよね?」

「黒い拳の少なきものは前にこの町に来た人間と対峙しているんだ。案外、分かるものなんじゃないか?」

 私は、そうかぁ、と頷いた。

 一つ、疑っていることがあった。

 黒い拳の少なきものは、私と同じ人間なんじゃないだろうか。

 手当たり次第に復興の火を奪って、うつろにした少なきものをこの町に閉じ込めているだなんて、そんな酷くてまったく意味の不明なこと、人間しかやらないような気がした。まっこと、悔しくて、なにより恥ずかしかった。

 動物は生きるために獲物を仕留める。ただ楽しむためだけに獲物を虐げたりはしない。でも、人間は違った。人間は楽しみのために、ときに命までもを奪ったりした。人間ってほんとうにやばい生き物だ。小学校の校庭にぷつぷつと開いていた蟻の巣の入り口の周りにはいつだって楽しげに笑う男児がいた。

 もしもそうであるのなら、黒い拳の少なきものは、たぶん大人だ。前にも言ったように、可能性と夢と未来がある少年少女が復活を企まないわけはないのだ。わざわざこの町に留まることを選ぶのは、可能性も夢も未来もなくした悲しい大人に違いなかった。

 私のカラダが恐れに震えた。大人というのは、この世界で一番ずる賢くて、いやしくて、恐ろしい種が多い生き物だ。対等にやり合えるのは善良な大人だけだった。善良な子どもはあまねき味方になれるだけだ。

 でも、と握り拳を作った。かなり大きめな一声をぶっつけてやらないと気が済まなかった。なんて言ってやろう。

 さっさと成仏しねい? 

 恥ずかしくないの? 

 あなたなんか地獄に落ちちゃえ。

 なんだか、どれも悪い言葉であるというような気がした。これは、私にとってだ。言うほうも悪い心地にさせられてしまう言葉というものはまったく少なからず存在していた。それを探り当てる目を育てるために、私たちは学んでいた。もうとうに忘れられてしまったことだ、と賢い幸一くんは言っていた。賢い幸一くんのひっつきむしだった私も二次物的に賢いので、なにが私にとって悪い言葉で良い言葉であるのかという判断は正確につけることができた。

「あのね、二匹とも」と私は打ち明けかけた。まだ決まったわけじゃないけれど、とつけるのはなんだかまだるっこしくていやな感じに受け取られてしまうだろうか、と逡巡しゅんじゅんしている最中に、ユキヒョウが口を開いた。

「巨大な復興の火の許には集まってくるものだな」

 なにが? と訊こうとしたところで、ユキヒョウの視線が向いている先に少なきものが幾つかまとまっていることに気づいた。

 博物館の東館の影を半身にかぶさって、身動き一つせずこちらの様子を伺っている少なきものが二匹。黒目の周りがまるで血の滲みのように赤くなっていた。白目は目の際に僅かばかりだけ見受けられた。目を剥いている、って感じだった。扁平へんぺいな尻尾がコンクリの上に落とされた影と同じようなシミを作っていた。

 あとは、中学生の男の子ぐらいの背格好をした少なきものが四匹いた。こちらはみんなフードをかぶって、陽光を遮ってできた影で顔を隠していた。計算してのことなのかたまたまなのか、私にはそのどちらともはかりかねた。

 一つの種は目を剥いているし、も一つの種は顔が見えないしで、どちらもうつろなのか、それともどちらかだけなのか、或いは、どちらともそうではないのかが分からなかった。つまり、なにも分からなかった。

 よく目を凝らして見てみると、扁平な尻尾を垂らしているほうの少なきものは首元が日焼けの皮を剝いた跡のように白くなっていた。白髪の眉毛が幾本か盛大な波しぶきのような曲線を描いていた。

 もしや、と思って、試しに一声真似てみた。

 ニィもユキヒョウも驚いたように私のほうを向くのがなんだか面白かった。

 人間が人間らしくない声を出すと、生き物はみんな一様に「は?」って顔をした。近所の野良猫も野鳥もそうだった。私はそれが面白くって、やがて申し訳なさがじわりと私の心に根を張りだすと、やめた。引き際を見極めないことには、ちゃんとしたひとにはなりがたいのだ。

 目を剥いていたほうの少なきものは、やっぱりオオカワウソだった。

 私が友好を意味する(らしい)鳴き声を発すると、のっそのっそと太った体型に慣れていない大男みたいな走り方で近づいてきた。二匹のうちの片方はまだ完ペキに尻尾を取り戻せてはいないようで、光沢のある黒いうちわのような尻尾を上下に揺らしていた。

 オオカワウソは水が僅かに張った井戸の底に岩石を投げ入れたような声を出した。私の周りをもの珍しそうにうろついて、ぜんぜん元の姿を取り戻せていない私を哀れに思ったのか、復興の火を灯してくれた。漁師の手にそのまま水かきを張ったような、少し湿っていて硬い手だった。


 復興の火を介して、また記憶の中に潜り込んだ。

 ほとんどがカーキ色と、そのときどきに混じるこげ茶の破片だった。

 私は濡れて弾力のある肉と硬いけれども割れやすい骨とを一緒くたに咀嚼した。鼻の穴から抜けるような泥の風味がするぬるい水がそのたびに口内に侵入してきた。

 ぐにぐにと曲がって、ある一定の力を加えると小気味いい音を立てて割れる鱗と、ナメクジを噛んだような粘着質なぬめりが溢れ出る、たぶん脳みそか目玉を口に放ったとき、人間的生活においてはなかなか味わうことのできない純粋な多幸感を覚えた。

 砂地のような場所に仲間が上がっているのが見えた。意識の端が冷静になって、獲物を咥えたまま仲間の許へと水を入抜き、かいて入抜き、入抜き、シーソーのような要領で力の位置を調節して砂地を走った。

 大地が割れた音がした。

 前方には急に眠りこけてしまった仲間と、視界の端には、こちらを見つめる複数の人間。

 オオカワウソの記憶はそこで終わった。


 私はお礼を言った。短かった尻尾は扁平に伸び、厚ぼったい皮膚からは鋭い犬歯が覗いた。

「ぜんぜん戻れてないね」と犬歯を覗かせたほうのオオカワウソは言った。

「月があと二度弧をなぞるまでじゃ無理なようだね」と尻尾が扁平に伸びたほうのオオカワウソは無表情で言った。

「そ、そうかなぁ」

「そうだよ」「みんなうつろにされていて」「復興の火がなくなって」「はくぶつかんの巨大な復興の火」「は黒い拳の少なきものに」「見張られていて」「近づけない」

「そうなの?」と私はオオカワウソから目を逸らしたままで訊いた。オオカワウソは私のつるぺたな肌を凝視しながら続けた。

「朝陽が四度弧を描いて」「月が三度弧をなぞっても」「復興の火を灯し」「終えられていなかったら」「どこへ行くの?」「どうなるの?」

「それは……」

「分かんないよねぇ」とニィが救出用の荒縄を投げ入れてくれた。私は急いで荒縄に似たユキヒョウの尻尾に……出来心で掴まった。ユキヒョウはなぜだか胡散臭いものを見るような目つきでもってニィのことを見下ろしていた。

「なんだか」「胸が」「ざわざわするね」「するよね」

 私は目を瞑って、胸のざわざわをむりに鎮めた。そうして、二匹のオオカワウソの手を取って、心の目を合わせて言った。

「大丈夫。私が絶対になんとかする」

 オオカワウソは目を剥いたまま黙って、それから二匹一緒にするすると、博物館の裏手に行った。フードをかぶった四匹の少なきものはいつの間にか姿を消していた。

 私はコンクリに黒々としたシミを引いていったオオカワウソの扁平な尻尾を見送ってから、カナヅチが水上に顔を上げたときのような、大げさで、耳に障るノイズの多分にかかった息を吐いた。

 そうして、彫りの深い端整な顔立ちをしたユキヒョウの鋭い眼光放たれる神秘の瞳と、幸一くんと瓜二つなニィの顔を交互に見やってから断言した。

「二匹はまったくバランスのいい戻り方をしている!」

「はぁ?」と顔をしかめたユキヒョウの尻尾が鞭のように激しくしなって、私の手元から離れた。

「さっきのはホラーだよ。あれは後頭部を鈍器で殴られて泥に顔を突っ込んだゾンビみたいなものだよ。人間の顔貌にあの目玉は大きすぎるんだよう」

「なにを言ってるのかよく分からんな。だが、恐怖を感じているというのは伝わってきたぞ」

「ほんとうに?」と私は親しみの情を籠めた目線をユキヒョウに向けた。大輪の花のおしべのような髭が落ち着かなさそうに蠢いた。

「ああ。決して目を合わそうとしなかったからな」

 そんな指摘をされて、私は笑った。はたから見たときの私の挙動不審加減を想像して、すごく可笑しくなったのだ。私は笑いのリズムに乗せて、連結した言葉を弾ませるように吐き出した。

「だって、ユキヒョウは怖くなかった?」

「全く。今はもう命の危険も無い」

「そうじゃなくて、あの顔だよ。ユキヒョウなんかはとてもバランスのいい戻り方をしてるよ。すごく美しい顔立ちで、見つめてると心がときめくもん」

「美しい? 人間は人間の顔にそれぞれ違う印象を抱くのか?」

「そうだよ。いい印象を抱いてもらうために、最近は私ぐらいの年齢の女の子でさえもお化粧をしたりするんだよ。黒い線を引いて目を大きく見せたり、肌を白く塗ったり、唇には紅を差したりするの」

「それでどうなる? 取り分が増えたりするのか?」

「すごく大雑把にまとめると、そうなのかもね」

「ふうん。人間は妙なところに目をつけるんだな。このひらひらした植物もそうだ。姿形が生き抜くにおいて重要なんだな」とユキヒョウは衣服の袖を邪魔くさそうに揺らしながら言った。

「うん。私たちは進化しすぎて、ちょっと迷走してるんだね。人間がほんとうに大切にするべきなのは、人間だけが持てる真心なんだと思うよ」と私はさっきまで目の前にあったオオカワウソの顔を思い返して、やっぱり震えあがりながら言った。私もそれなりに人間らしい偏見の審美眼を持ち合わせているということだ。私は言ったことと行動とのちぐはぐ加減に半端者の宿命のようなものを感じて、悲痛に満ちたため息をついた。

 ユキヒョウはしばし私と目を合わせて、尻尾の先でおでこを小突いてから言った。

「さっき、お前は恐れながらも少なきものと目を合わせていたな。あれが、真心か?」

「うん。私としてはそのつもりだったよ。どうして分かったの?」と私はおでこに感じたもふもふの感触に頬をほころばせながら訊いた。ユキヒョウは尻尾の先を口元まで持っていって、そのままかぷりと咥えた。

「お前は妙な生き物だからな」

「僕は希望のような人間がたくさん増えてくれたらいいなと思うよ」とニィが言った。ニィは幸一くんと瓜二つで、だから当然、とても美しい顔立ちをしていた。

 ふと、幸一くんが容姿のことについて言及されるのを嫌がっていたことを思い出した。

 明快に嫌がっていたわけではなくて、いままで燦燦と降り注いでいた陽光が唐突に厚い雲に遮られて町に影を落とすような、ある一面だけが満遍なくうっすらと暗くなるような嫌がり方だった。

 ともすれば、幸一くんは自分のことを醜いとすら言っていた。私はまったくもって意味が分からなかったけれど。醜いというのは、意地悪なハイエナのクラスメートのようなひとたちを表す言葉だ。幸一くんは顔立ちはもちろん、心立ちが一層美しかった。

「それにしても、ニィはどうして元の姿を取り戻さないの?」と私は訊いた。オオカワウソに復興の火を灯してもらっても、ニィの姿にはどこにも鯨らしい部分が見受けられなかった。

「鯨、お前は……」

「もう、行こう? 時間は短い。有限なんだからさ」

 ニィはあからさまに言葉のキャッチボールを放棄した。そうして、一匹で先を行ってしまった。私は同調の程度をうかがうようにユキヒョウの顔を見上げたけれど、ユキヒョウは物も言わないままに博物館に入っていった。


 なんだか不穏な空気が私たちを取り巻いているようだった。博物館に入った途端に、不穏さはより一層その脅威を増して、私の心に潜り込んでは憑りついてきた。

 初めは動悸がしてくるぐらいにいやな感じだった不穏さも、歩を進めていくごとに、次第に、なんでもなくなってきた。博物館全体が不穏な空気で充ち充ちているからだろうと思った。

 ひとは臭い物に蓋をするのが得意だった。或いは、ごまかしや見て見ぬフリが得意だった。ずっと同じような場所にいると、そこのすべてが常識になって、習慣になって、外の世界との違いが上手く理解できないようになってしまった。あるひとはその過程を平穏に生きるために必要な慣れを体得するためだと言ったし、あるひとはその過程をつまらない人間がみんな一様に辿っている道程だと言って、或いは、停滞だとも言った。

 前者は季節という概念を知らない渡り鳥のように年がら年中旅をして、その都度むりにでも体も心も慣れさせなきゃいけないという厳しい職業に就いた、なんだかいまはもうちょっとばかししか寿命が残っていなさそうな父が言っていたようなことだ。そして、後者は幸一くんが言っていた。いまになってよく考察してみると、幸一くんは高熱を出した夜の随分と昔から、この狭くて辺鄙な町を出て行きたいという野望を抱いていたのかもしれなかった。

 私の血管を通って、芥子からしの混じった血液が全身を巡っていったようだった。

 もしもそうなら、幸一くんは私との時間をいずれは終わるものと捉えながら過ごしていたのだ。

 ひとはいずれおしまいになる。こんな悟ったような言い方をしているけれど、私はほんとうの意味でその事実を理解できてはいなかった。

 家族との時間も、近所の野良猫にちょっかいをかけるときも、私には特別優しい笑みを投げかけてくれる商店街のおばちゃんに朝の挨拶をするときだって、私はえいえんに続いていける心持ちで、当たり前にいた。

 えいえんという枠組みの時間の中で、みんなそれぞれ歳を重ねて、思うように動かない身体の箇所が多くなってきて、思い出せなくなることが覚えることよりも増えてきたって、それはえいえんに続いていく人生の中での些細な変化でしかなかった。私はそう考えていた。だから、幸一くんとの時間もえいえんに続いていくものなんだと信じていて疑わなかった。ううん、疑えなかった。ひとの死を実感したことが無かったからだ。

 私はやっぱり、幸一くんと同じようにはなれなかった。でも、この場合においてそれは無垢で幸福な子どもであれているという尊い証なのかもしれなかった。ひとの死を実感しないままでいるということは。きっと。

 ほとんどの大人たちは、近くにあった命を失くしているんだろう。経験をして、なお実感も得たひとたちはどうしたってなにも知らなかった頃と同じ目では世界を見れなくなった。

 私はロビィの床を足裏で擦るように歩いて、展示物についての説明が業者のレシートみたいに張りついているボードを横目で見やりながら二階へと続く階段を上っている最中、とても泣きたくなっていた。お母さんやお父さんは知っていた。私と過ごす時間が、割と短い有限であるということを。私は知らなかったのに。

 なんだか勝手に手酷く裏切られたような気持ちになって、なにも知らなかった子ども時代に過ごした時間を少し成長した私がけがしてしまったように思えて切なくなった。

 私はそのとき、ようやく、友だちをつくる意味が分かった気がした。初めて、友だちが欲しいと思った。同じ年月を生きているどんぐりのような友だちが欲しかった。諭すばっかりじゃなくて、一緒に悩んで怒って泣ける友だちと過ごした時間は、穢れなきままでえいえんに保存されるという気がした。

「もうすぐそこに巨大な復興の火があるよ。アカウミガメも側にいる気配がする」とニィが二階を指さして言った。

「そっちには恐竜の化石が展示されてるよ」

「きょうりゅう?」とユキヒョウが振り返らないままに尻尾の先だけを向けて訊いた。

「約六千五百万年前に絶滅した生き物たちの骨があるの。そんなところに巨大な復興の火があるなんて不思議」

「それは、そうだろう」とユキヒョウの尻尾がいかにもな風に頷いた。

「僕らの生きる世界は、去ったものの祈りでできている」とニィが言った。

 私は黙った。いつか答え合わせができるときまで生きていなくちゃなぁ、と漠然と感じた。


「おまえら、なに」

 不自然に反響した少年の声が三階へ続く階段の途中から聞こえてきた。見上げると、さっき博物館の陰で見かけた少なきものが相変わらずフードをかぶったままで四匹揃っていた。

 少なきものに声をかけられるときはいつだって上からだったような、と記憶のフィルムに照合のライトを当てた。習性が名残として残っていることもあると聞いたし、動物的本能が優位な位置から声をかけることを知らず強制しているのかもしれない、と思った。

 私は目を細めた。踊り場に連なった長方形の窓から白む陽光が差してきていた。逆光で少なきものの顔が見えなかった。これはたぶん計算してやっているのだな、と、私は存外いい少なきものの頭に驚いていた。

「きみらこそ、なんだい?」とニィは質問に質問で返した。私はひやっとした。ニィはたまにひねガキみたいな口調になった。あえてなにかを挑発して、その反応がどんなであれ最大限楽しむひと特有の、隠し切れない弾みの響きを含んでいた。

「ボクらは人間に進化しなかった少なきものだよ」と四匹が一斉に言った。声が不自然に反響しているように聞こえたのは、彼らが寸分狂わぬタイミングで同じ言葉を発していたからだった。

「僕は鯨だよ。それで、こっちはユキヒョウだよ」

「そいつは?」そいつは? そいつは? そいつは……?

「僕らはアカウミガメを探しているんだ。きみら、見てない?」と、ニィは質問を透過した。表情こそ窺い知れなかったけれど、四匹の少なきものたちが不思議がっている気配が十分に伝わってきた。

 私たちを取り巻く不穏が力と体積を増して、博物館に充ち充ちた不穏な空気を圧迫した。これは不穏だ、と、私は今更ながらに怖くなった。

「見たよ。巨大な復興の火の許に寄っていたよ」と四匹の少なきものは答えた。

 ニィはさっさと階段を上がって、恐竜の骨格が幾つも置かれてある展示室に向かった。

 あとを追って階段を上がり終えたとき、廊下が水面のような光を放っていることに気づいた。燐のような青白い揺らめきがきらきらと大理石風のタイルの上で踊っていた。

 早足になっていくニィに追いつこうと、私も早足になりかけたとき、ふと、後ろを振り返った。

 四匹の少なきものは私の気まぐれな動作を事前に察知していたのか、四階へと続く階段の陰からフードの先だけを覗かせてこちらを見ていた。

 私はなんて呼びかけようか迷った。ううん、呼びかけていいのか迷っていた。

「……いいのかな」と少なきものは一斉に言った。

「え?」

「あんまりいいと思わないな。進化しすぎると、終わりに近づいていく」

 四匹の少なきものは歯を剥いて笑った。フードに作られた影からはみ出した歯は、人間の歯とほとんど変わりないように見えた。

「シッテル?」

 私は本能的な恐怖に突き動かされて、踵を返して廊下を駆けた。ニィはなにも言わずに展示室に入っていくところだった。こちらも察知されて、私はユキヒョウの尻尾に容易に逃げられてしまった。手が虚しく宙をかいた。

「ねぇ、ニィ……?」

 ニィは無言のまま展示室の奥へと進んでいった。私はその黒くて大きな後ろ姿にあの夜のかたくなだった幸一くんの細くて華奢な後ろ姿を重ね合わせてしまって、ならば急いでと手を伸ばした。

 けれど、まるで展示室が海中に沈みでもしたみたいに、ニィの動きは流動的でこなれていて、私は大手の羽織の裾を掴むことすらもできなかった。展示室に設置されたティラノサウルスの全身骨格やヒグマよりもはるかに頑丈そうななにかの全身骨格が、深い海の底にわずかに届いた陽光に優しく照らされているかのように、濡れたように青白く光っていた。


 巨大な復興の火が展示室の中央で煌々と燃えていた。


 私はその場に突っ立って、しばし呆然としながらその火に見惚れた。不思議な揺らめき方をする火だった。なにが爆ぜる音もしなかった。

 モノクロの無声映画の中で唯一ほのかに青の着色が施されているような、静かな衝撃と神秘的な雰囲気を、海辺の幽霊が纏ったワンピースの裾みたいな揺らめき方に感じた。

 火は、ただそこにあった。巨大な復興の火の真下で綺麗な四角形を為している九枚のタイルが融けかけた氷のように煌めいていた。

 私はいつかの遠足で飛行機も飛ぶのを躊躇うような真っ暗闇の夜の最中、同学年たちと囲ったキャンプファイアーを連想した。あれよかは大きくて神秘的で、そしてなにより青白かったけれど、私がいままで見てきたものの中で、唯一、キャンプファイヤーだけが目の前にある巨大な復興の火になんとなくだけれども似ていた。

 ニィは音無しに展示室を歩いた。そうして、巨大な復興の火を眼前にして止まった。

 一瞬、そのまま復興の火の中に飛び込んで鯨に戻ってしまうんじゃないかと焦った。

 もしかしたらほんとうにそうするつもりだったのかもしれない。でも、ニィはそうできなかった。ううん、そうさせられなかった。

 私の意識は巨大な復興の火のほうに向いていた。だけど、ニィの頬がとても美しい具合に青白い光を照り返していることに気づいて、復興の火からニィの頬のほうにピントを合わせようとした。


 刹那だった。

 視線が移行している最中、見える物がなにもかもぼやける瞬間に、黒い拳の少なきものがティラノサウルスの全身骨格の上からニィの真横に飛び降りた。

 私はユキヒョウの敏捷な動きを視界の右端に認めながら、肺活量をフルに使って、一声、吠えた。

 ──ぅわぁんっっ!

 扉が開け放たれた展示室に私の吠え声が、一瞬、弾幕のような勢いで反響して、それからさっさと廊下のほうへと抜けていった。


 めっちゃうるさ! と我ながら思った。これは幸一くんの教えだった。

 小学生の頃、辺鄙でのどかな町にしては珍しく不審者の目撃情報が出た。一緒に下校する友だちなんかいなくて、毎日一人で帰っていた私を心配してくれた幸一くんが「とにかく全力で叫ぶんだ」と託宣してくれたんだけれど、人間の叫び声だとどうも本調子を出せなかった私は勝手にアレンジして、犬の鳴きまねを全力ですることに決めた。

 下校中に寄り道をして、誰もいない公園の隅っこで二人、犬の鳴きまねの練習をした。結局、不審者は目撃されるだけされてなにか悪事をしでかすということはなかった。公園を見下ろすようにして建っていたペット禁止のアパートに、皆さん目を瞑ってください、そうして心当たりのあるひとは挙手してください、的な張り紙が貼りだされていると知ったときには、二人してげらげらと笑った。


 ニィは青白い光が映えた瞳をまん丸にして、私を見た。そうして右半身に降りかかる威圧感にようやく気づいたのか、一歩、二歩……と、まるで能のような動きで私のほうに後退した。

 私が吠えたときに飛び跳ねたのか、ユキヒョウは遥か後方の壁際で尻尾を夜の砂漠に生えるサボテンみたいに太く刺々しくさせていた。白銀の毛の一本一本が青白い燐のような光に染まっていて、それはとても幻獣みたいな見た目で神々しかった。

 黒い拳の少なきものは、巨大な復興の火のすぐ傍らに突っ立っていた。

 軍隊の前線で戦うひとが身に纏うような黒い迷彩柄のジャケットから、硬そうな黒い毛が手首を覆うようにして生えた拳が覗いていた。

 マウンテンゴリラだ、と思った。人間じゃなかった。私は安心したのかより一層恐ろしくなったのか私自身でもよく分からなくなって、たぶん不細工に顔を歪めた。とてつもない遠心力が付加されそうなあんな長い腕を振りかぶって、大槌のような拳を振り下ろしたら、どんなに頑丈なものでも破壊できてしまうんじゃないかと本気で思った。想像してみるだけで、悪寒がしてくるようだった。

 マウンテンゴリラもまた洞窟のようなフードで頭をすっぽりと覆い隠していた。見えたのは鋭い犬歯と人間みたいに生え揃った歯が覗いた口元だけだった。

 私たちは誰もなにも言わなかったし、動けなかった。野生の世界でしか味わえないような緊張感が骨だらけの展示室を支配していた。

 初めにそんな拮抗状態を崩したのは、ニィだった。ニィは右腕をマウンテンゴリラに向かって伸ばした。マウンテンゴリラは背筋を伸ばして、口元を歪めた。乾いた衣擦れの音が何倍にも響いて聞こえた。私の命の危機管理能力を掌握する脳の器官はもう既にどこか諦めかけていて、なあなあな緊張感をとりあえず体に残しておいているだけだった。

 マウンテンゴリラが大股の一歩を、私たちのほうに踏み出した。

「サチイチ?」

 マウンテンゴリラは留学したての外国人みたいにちぐはぐな発音で言った。あんまりにちぐはぐだったものだから、私は一瞬、その単語がいったいなにを意味しているのかが分からなかった。一瞬だけだ。サチイチは、私の大好きなひとの名前だ。

 でも、と、私は動揺した。どうして二回目のマウンテンゴリラが、幸一くんの名前を知っているのか。それも、瓜二つのニィの顔に視線を向けながら、そんなに苦しそうな声色で呼びかけたのか。

 まったく意味が分からなかった。分かったのは、いまのこの状況は私の想像力の枠組みを軽々と超えたところで展開されているということぐらいだった。

 なにかを言うべきだとは分かっているのに、なにから訊けばいいのかが分からなかった。それで、私は口をはくはくと陸に打ち上げられた魚みたいに開けたり閉じたりした。二択を選ばずに思考停止するという、一番ダメな選択をしてしまった。もしかすると、私はまだ一種の催眠状態に入っているのかもしれなかった。車の運転と、テレビの視聴と、衝撃的な状況に身を置いているひとは、一種の催眠状態に入っています。かしこ。

 ニィの背中が、すまなさそうに縮んで見えた。

「僕は鯨だよ。サチイチはもう元の世界に帰ったんだ。知ってるだろう?」

「なんだ。オマエはまだこの町に留まっていたのか。ほんとうに紛らわしい姿形を取っているな」とマウンテンゴリラが猫背に戻って、吐き捨てるように言った。「きみこそ」とニィは言った。私はニィとマウンテンゴリラとに交互に黒目を向け続けていて、もうそろ目を回して仰向けにぶっ倒れそうだった。

「ねぇ、ニィ。なに言ってるの? これはいったいどういうことなの?」と私はようやっと口を利いた。ニィは一瞬、怯えたような視線を私に向けて、それからまたすぐに逸らした。刹那、私の胸に怒りの赤い火花が散った。

 人間なりの直感で分かった。ニィの怯えたような視線は、私に𠮟責されるかもしれないという未来に対して向けられていた。でも、なんで? なにに対して罪の意識を抱いているっていうの? まさか、嘘をついたこと? でも、そんなことってあり得ない。

 だって、ニィはユキヒョウに言っていたじゃないか。嘘をつくのは人間だけだ、って……。私は混乱して、分からないことだらけで怖くなって、いますぐにでもこの場から逃げ出してしまいたいと切に思った。

「とうとう誰が何者であるのかどうかを見かけで判断するようになったんだね。まるで人間みたいじゃない?」とニィはもの悲しげな声色で言った。

「ジブンはそうじゃないとでも言いたげだな? オマエだって、オレと同じ二回目なのに」

 私は、信じられない、という気持ちを籠めた視線をニィの背中に刺しまくった。ニィは痛そうに身を震わせながらも、決して振り向こうとはしなかった。

「やはりか」とユキヒョウが言った。平常時の三倍ぐらいに膨れ上がった尻尾がニィの背中に向かって激しくしなっていた。

「やはり、ってどういうこと? ユキヒョウもなにかを知っていたの?」

「知っていたわけじゃない。そも、出会ったときから怪しいと思っていた。復興の火を灯しても元の姿を取り戻さないのは、黒い拳の少なきものも同じだった。それに、嘘だってついていた」

「ど、どこでっ?」と私は動転して訊いた。

「お前が恐れを抱いていた少なきものに、復興の火を灯し終えられなかった少なきものの行く末を尋ねられたときだよ。この町に留まることになると知っていたのに、分からない、と嘘をついていただろう? 覚えてないか?」

 私は記憶の照合のライトをぐるぐるとフルスピードで回転させた。そうして、思い当たる前にもう、ニィに向かって尋ねていた。

「ニィは、ほんとうは誰なの?」

「違うんだよ、希望。僕はほんとうに……」

「それ! その、違う、っていう否定も噓なんじゃないの? 分かんないよ。ニィはやっぱり幸一くんなの? どうしてマウンテンゴリラは、幸一くんとニィが似ているってことを知っているの?」

「希望、それは」

「ソイツはサチイチを知っているのか?」とマウンテンゴリラが私のほうに視線を向けた。途端、私の脊椎が凍りついたようになった。歯がかちかちと鳴って、黒目が泳いだ。吐かれた息は走ったあとの老犬のように浅くなっていた。

 ──知ってる、と思った。知っているのだ。これは憎悪だった。それも、いままで感じたことも無いようなとびきりの憎悪だ。もしかすると、殺意ですらあるのかもしれなかった。そう感じるぐらい、激しくて熱くて息が詰まるぐらいの力強さが籠められた視線だった。 

「こんなことはもうやめよう? サチイチだって喜ばないよ」とニィが私に向けられていた視線を代わりに受けた。すぐ目の前にあったニィの背中は、頼もしさの代わりに優しさがふんだんに詰め込まれていた幸一くんの背中と、やっぱり、あんまりにも似すぎていた。

「ヨロコバセたいからやっているんじゃない」と地を叩いて這うような声だけが聞こえた。言ったあとで、人間のような皮肉めいた笑い方をしていた。私はもうお家に帰りたくてたまらなかった。ニィの背中を掴もうと伸ばしかけていた手を、少し考えてから引っ込めた。

「おい、アカウミガメの復興の火の気配がどうしてお前からしているんだ?」とユキヒョウが黒々とした爪をマウンテンゴリラに突きつけて訊いた。さすが孤高の獣だ、と思った。同じ空間にいる私たちの動揺や怯えや憎悪などにはまるで構わない様子だった。

 物怖じしていない誰かが近くにいてくれると、こちらの心も知らず冷静になってくるものだ。私はいまユキヒョウが言った言葉の意味を、ゆっくりと咀嚼するように考えた。そして、ハッとして、たちまち、心に暗澹あんたんたる絶望感が垂れこめてきた。

「アカウミガメとかよく知らないが、気配がオレからするんなら、復興の火を奪ったからだろうな」とマウンテンゴリラは愉しげに言った。

「そんな……! じゃあ、アカウミガメはもう……」

「うつろになったんだろうな」とユキヒョウは平坦な口調で言った。それはそれであんまりに冷淡な態度に感じが取れて、私の心はドライアイスにあてられたように猛烈に熱くなった。

「ねぇ、あなたはどうしてこんなことをしてるの?」と私は憤然とした口調で訊いた。ニィの背中の陰からむりに出て、たぶん弱々しくて鼻で笑われればしんなりと折れるんだろう視線を向けた。

「どうして?」

「少なきものをうつろにしてこの町に閉じ込めて、って、あなたはそれでどうしたいの? ねぇ、私は人間だよ」

「おい……」とユキヒョウが呆れたような視線を投げてよこした。そうとは分かっていても、暴発した私の怒りの感情は鎮火の気配を見せることがなかった。

 中学生っぽい言い方をすると、私はキレていた。ぶっちキレていた。

 私は本気で怒ったとき、涙をこぼした。不敵な笑みも、ましてや凄みのある睨みなんて効かせられるわけがなかった。私は弱い生き物だった。なのに半端な優しさを捨てきれない、下手くそな生き方をしていた。

 私の脳裏には、アカウミガメの女の子の明るい笑みが浮かんでいた。そうして、大禍時の道程で出会ったうつろたちの凝った牛乳のおりのような目のことや、アマミノクロウサギの華奢な後ろ姿がどんどんと遠のいていくシーンのことも。それらはより鮮明な解像度で浮かんでいた。

 私はぽろぽろと涙をこぼした。マウンテンゴリラから放たれる異様な雰囲気は目の前にしているととても恐ろしく感じられるようだったし、足が居心地悪くすくんだ。

 私はなんのために怒っているんだろう? いくら怒っても、アカウミガメの復興の火はもう取り戻すことができないのに。私は私がすっきりするために怒っているんだろうか。

 あの日、教室の通路にぶち撒かれた机の中身を眼下に見下ろしていたときもそうだったんだろうか。

 偽善だと嗤われてしまってもしょうがないんだろうか。

 私は真性に優しくない、まったくの半端者であるということを、改めて突きつけられたようだった。

 そして、私は未熟者でもあった。私は私の怒りを制御することができなかった。

「ニンゲンなのか? ほんとうか?」

「そうだよ。だから、ほかの少なきものの復興の火を奪うことはもうやめにしてよ。私のことだけ狙ってればいいんだよ」

「それはイヤだ」とマウンテンゴリラは癇癪かんしゃくを起した子どもみたいに地団駄を踏んで、タイルに拳を振り下ろした。凄まじい轟音がした。タイルには蜘蛛の巣が張ったようなヒビができた。

「オレはほかの奴らが復興の火を灯し終える様を見たくない。オレ以外の奴らはみんなうつろになって、この町に幽閉されればいい」

「どうして、そんな、人間みたいなことを言うの?」

 辺りはしばらく、誰もいない氷室の中みたいにしんとした。おかしなことを言ったかな、と徐々に不安になってきた。

 ニィもアカウミガメもユキヒョウもオオカワウソも、みんなそれぞれ少なきものに対して慈しみの感情を抱いていた。動物らしく淡白な態度であったり、言葉で表されたりしてはいなかったけれど、復興の火を灯すことに真摯で厳かに向き合っているらしいということは容易に分かった。

 どの少なきものも誰を妨害しようかなんて企みは微塵も思いつきすらしていなかったはずだ。なのに、マウンテンゴリラは目下もっかさしあたって暴走中だ。暴走というより、暴力的だった。私は目の前の少なきものが異形のバケモノであるように思えてならなくなった。

「ニンゲンみたい? ダレもカレもオレより下になればいいと言うのは、まるでニンゲンみたい?」異形のバケモノは浮浪者みたいな歩き方で近づいてきた。私はさっさと敵前逃亡したいという両足の意思を無下にして、重々しく頷いた。

「きみは、長く人間の姿を取り過ぎたんだ。早くこの町から出て行かないといけない」とニィが私の体に手のひらをあてて一緒に後じさりしながら言った。私は身を捩ったけれど、両足はありがたそうに後退していた。

「オマエは忠告できる立場にいない。オレもオマエも、同じ穴のムジナだから」

「僕はきみとは」

 違う、と言い終わる前に、異形のバケモノが私の頭に頭突きした。

「だっ?」と私はか細く鳴いて、鳩が地面に降り立ったときのような音と共に尻餅をついた。

 氷のように見えていたタイルは、じつはぜんぜん冷たくなかった。むしろ生温かかった。動物の死骸から取り立てたほやほやの骨のような温度だった。

「ニンゲンみたい?」と異形のバケモノは愉快そうな口調で、そのくせ、怒ったように語気を強めて訊いた。

「な、なんで頭突きなんかしたの?」と私はおでこのど真ん中に響いてくる二日目の筋肉痛みたいな鈍痛に耐えながら訊いた。思いもよらぬ出来事に驚いたときの猫のようなまん丸な瞳をしているんだろう私を見下ろして、くっと乾いた音を喉から鳴らした。

 二メートルはあろうかという巨躯だった。落雷して燃えたあとの巨木のように黒々としていて、フードの影から覗いた悪夢みたいに鋭い犬歯が、うろから這い出てきた巨大な幼虫のようにグロテスクな感じに見て取れた。一瞬、覗いた瞳は深淵のように暗かった。

 巨大で強力で残忍で、支配のために生まれてきたような異形のバケモノが私のおでこをノミのような指の先でぐりりと押した。私はびっくりした。次いで、本能的な恐怖を感じた。こんなに純粋な憎悪を向けられたのは初めてだった。それも、明確な痛みも伴わせて、なんて。

「ニンゲンみたい?」と異形のバケモノは何度も何度も、壊れたレコードプレーヤーみたいに訊いた。口元は三日月の形に歪んでいた。

 私は、やばい、と思った。尻餅をついたまま後じさりした。指の先は愉しげについてきた。

 これは暴力だ。お腹を満たすためでもなく、仲間を守るためでもなく、ただ、力を振るうために力を振るっていた。それは暴力だ。そして、暴力を振るって、暴力を楽しむことができるのは人間だけだ。

「ニンゲンみたい? ニンゲンみたい? ニンゲン?」

「あなたがどうやって復興の火を奪っていたのかが分かったよ。そうやって、暴力を振るっていたんでしょ? 暴力で火を奪って、祈りを消していってたんでしょ?」と私は泣きながらキレた。

 異形のバケモノが肩を小刻みに震わせだしたのを見て、顎に思いっきり力を入れた。

「ダァッ!?」と異形のバケモノの巨躯が跳ねた。

「うううううゔゔゔ」と私は犬の唸り声を発しながら、振り回される腕の遠心力に加わった。絶対に離してやるもんか、どうせ魂だけになってるんだ、と、私は半ば自暴自棄にぶっちキレていた。

 一晩、ラップをしないままに外気に晒しておいた肉のように固くて味気のしない指を、噛み切るつもりで噛んでいた。

 荒ぶる視界の中で、ユキヒョウの鬼火のようなシルエットが徐々に大きくなっているのと、それとは反対にニィの影法師のようなシルエットが徐々に小さくなっているのが分かった。ニィは巨大な復興の火の許にそろそろと寄っているようだった。

 やがて、シェイクされ続けた私の胃液がそろそろ食道を上ってきそうだという頃──異形のバケモノが流木のような腕を真下に向かって振り下ろした。私は歯を食いしばって──怒鳴り声が聞こえた──骨が折れたときの未知の痛みを大げさに想像して、現実のほうの痛みを少しでもごまかそうと試みた。

「離せ!」とユキヒョウの凛々しい声がした。

 私は、んばっと口を開けて、後方に飛んでいった。唾液が数メートルは糸を引いたように見えた。

 ユキヒョウのもふもふの手が、私の脇腹に回されていた。地雷が反応したような轟音が眼下からして、砕け散ったタイルの破片が幾つか、強風の日の校庭の砂みたいに顔に当たった。

「ダメだ! 希望はサチイチの家族なんだよ!」とニィの必死そうな声が響いた。私はユキヒョウの脇腹に抱えられた姿勢のまま、ひっくひっくとしゃくりあげて、異形のバケモノが片方の手首を持って悶えている様子を眺めた。やがて、驚いたようにニィのほうに顔を向けた。

「サチイチの家族?」

「そうだよ。酷いことをしたら、サチイチが悲しむよ」と幸一くんと瓜二つのニィは悲しそうに眉を下げた。

「さっきから幸一くんの話ばっかりして、いったいなんなのっ。会ったことなんてないはずなのに、なんで知ったように話すのっ」と私は活きのいいマグロみたいに暴れながら吠えた。唐突に、ユキヒョウが脇腹に回していた腕に籠めていた力を緩めて、私は「えっ」と言う間もないまま、あえなくびちっと落下した。

 恨めしそうにユキヒョウを見上げたけれど、ユキヒョウは既にニィのほうに素知らぬ顔を向けていた。愛玩的な動き方をする尻尾の先だけが、私のおでこをからかうように撫ぜていた。

「オレはサチイチと会った」と異形のバケモノが地を叩いて這うような声を出した。展示室のあっちこっちに散らばったタイルの破片が震えた。

「噓つき!」

「ウソじゃない。ウソはつけるけど、いまはウソを言ってない」

「それも噓でしょ? 幸一くんが少なきものの町に来ていたわけなんてないもの。だって、この町にいる少なきものは思念体で、簡単に言うと、魂で、つまり、元の世界に残された肉体は抜け殻になっていて、ようは、それは……」

「死んだんだ」とあっけらかんと言われて、私はぐっと言葉に詰まった。

「でも、サチイチは〝朝陽が四度弧を描いて、月が三度弧をなぞるまで〟を待たずして元の世界に帰った」とニィが継ぐように続けた。

「そんなのっ……」

「ウソじゃない! ジブンで見てみればいい」

 死に際の蛍が放つような青白い光が、私の眉間に埋まりこんだ。


 白紙さながらな空間がまるで抽象的なテーマを扱った映画の唐突なカットインのように現れ出て、あんまりに具合の凄まじすぎる色彩の転調に目が眩んだ。

 私の意識に螺旋状に渦巻いた復興の火を介して見る──ようは、心の目で見る記憶──だから、いくら顔についたほうの目を閉じたって眩んだままだし、先の潰れたボールペンでぐるぐると、情緒が不安定だったときに書いたような記憶の放映は誰かが消し忘れたおもむきのある小型テレビみたいに流されっぱなしたままだった。

 私は頭を抱えた、ように思う。復興の火を介すと、私の意識は無意識下のうちに綯い交ぜにされた。少なきものの記憶のほうが私の自意識よりも幾らか強いので、私は少しばかりは曖昧な自意識を保ったまま、少なきものの記憶の中にまるでそれが私自身の記憶ででもあるかのように深く没入してしまうのだった。

 同じような濃さと細さで延々と引かれていた黒い線が、やがて、その細さは一律に保ったまま、複雑な濃淡を作り出した。

 気まぐれに伸びたり巻いたりしているかのように見えていたけれど、絵のノウハウをカスほども知らないひとが横目で見やるふんだんに技巧施された絵のように、黒い線はいつの間にかひとの青年の輪郭を取って、一本ではなく一枚になっていた。


 ──あぁ、いや、なんでもないよ。


 幸一くんの声が耳から一番近いところでしているかのように鮮明に聴こえた。


 感情の籠っていない声だった。ただ肺を収縮させて、声帯を震わせているだけというような、言葉というよりかはむしろ〝音〟に近い声だった。


 ──なんだか参ってしまうね。絶滅危惧種が人の姿を取って種の復興を祈っていただなんて、なんて救われない物語だろう。こうして参ることだって人の傲慢さであるんだろうね。ごめんね。


 幸一くんが素敵なテノールの声を発するたび、シーツに潜り込んで遊ぶ子どものような喉仏と花弁のような唇を模った黒い線が揺らめいた。

 目元もまた裏から水が滲んでいるかのようにぶやけていて、泣いているみたいだった。


 ──きみは悪くないんだから、もっと怒っていいんだよ。


 幸一くんの枯れかけの花弁のような手のひらが頬に触れた。


 ──憎しみは心をむしばむ。溜めこまずに、外に出すべきなんだ。我慢して、気遣って、躊躇ってばかりいると、いずれ腐った憎しみが心に咲く豊かな花を枯らしてしまうようになる。そうして、なにをも失くす。悪くないきみに、憎しみを潰すための方法を教えるよ。きみの心が、こんなうつろになってしまわぬように。


 幸一くんの笑顔はおどけた調子で舞台に上がるピエロの仮面みたいに見えた。深淵のように深かった瞳は、底という概念が端から無い、ただの闇になっていた。

 出来立ての砂鉄絵の上に磁石をかざしたように、黒い線がざわざわと粒立ち始めた。そうして、シーンのすべてが明けない夜の砂漠の嵐のように荒々しくなっていった。


 私のカラダが燐のように青白く発光した。それはまるで麻薬のように、灯る一瞬だけがそれはそれはとても気持ちよくて、後にはただえいえんとも感じられるほど長い虚しさが茫然と見渡す限りに広がる類の快楽だった。

 大海原の上でいつ沈むとも分からないぐらい腐食した小舟に乗って一人、漂っているような気分だった。

 孤独で、不安で、見えない誰かに向かっていつもなにかしら怒っていた。まるで地続きになっていた時間を上にちょいとかいつまんで、疲れた大人の視点がどんな風なのかを一瞬だけ体験したような感じだった。


 黒い線が徐々に落ち着きを取り戻して、また、ひとの青年の輪郭を模った。蜃気楼みたいに揺らめく華奢な背中は、触れたらいまにも崩れ落ちそうに脆く見えた。


 ──帰らなきゃいけないんだ。


 幸一くんはひどく億劫おっくうそうに俯いた。


 ──この町に来る前は、鯨の歌に視える糸を手繰り寄せることに必死だったんだよ。なのにいまは、向こうの世界から聴こえる声に視える糸にこんなにもな郷愁きょうしゅうを覚えているんだ。

 心って、僕とは別に命を持っているんだと思うよ。きっと心臓よりも大事なんだ。心だけは守らないと、人は完全に死んでしまう。だから、こうして曖昧な魂の恰好でこの町に来てしまった僕の心はまだ微かに息をしているんだろうね。いいのか悪いんだか、よく分かんないけど。


 幸一くんの胸のあたりに黒い靄が渦巻いていた。私はそれを引っ張り出してあげたいと思ったけれど、取り出したところにできた穴からこごったような黒い血が噴き出してくるイメージが浮かんで、やめた。


 ──ようやく自分で決められたのに。と幸一くんは言った。そして振り返って、不健康な心のひとみたいに笑んだ、ように見えた。或いは、私の自意識が、一瞬、その勢力を強めただけのことなのかもしれなかった。


 ──もしも、この少なきものの町に、雪のような白い肌と絹の糸のように綺麗な黒髪とを持ち合わせた女の子が来たら……いいかい。


 幸一くんは謎めいた声を残して、一本の黒い線になり、やがて、灼熱の球体の表面で燃ゆる黒点のようになって、ついぞフレアのように消滅した。

 白紙さながらに白々とした空間には空白だけしか残らなかった。惜しむようにしばらくただそこに在った。



 私は自意識を完ペキに取り戻した。

「ウソじゃなかっただろ? オレはサチイチに会ったんだ」と異形のバケモノは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「どうして……?」と私は一言、夢遊病患者みたいに呟いた。復興の火を介して見た記憶の中の幸一くんは、儚げで、それでいて纏う雰囲気が鋭利で、どことなくぎらぎらと目に痛い光を内に秘めていたように感じられた。


 憎しみ。そう幸一くんは言っていた。憎しみを潰す方法を教える、とも言っていた。幸一くんのひっつきむしだった私の解釈が正しいなら、その方法とは暴力だ。

 何人なんぴとたりとも立ち入ることのできない孤島に突っ立ちながらどこの対岸にいる誰よりも暴力を忌み嫌って敬遠していた幸一くんが、なにも知らない動物にその仕組みを教えるなんて、一週間締め切りを狭まれてからむりにでも書き上げられた物語だと理解しながら読んでいても、どうにも飲みこむことができないような嘘だった。

「どんどん欲しいんだ」と異形のバケモノは浮浪者みたいに近寄ってきた。口元がぬらぬらと光っていた。ガラス玉のような光が重力に従って落ちた。よだれだった。

「奪っても、奪っても奪っても奪っても奪っても足りない。むしろ、奪うたびに、どんどんどんどん欲しくて欲しくて欲しくて欲しくてたまらなくなる。もう苦しいから、解放されたい。ニンゲンをうつろにしてこの町に幽閉することが、オレの唯一の目的だったはず。だから、果たせば、満足できるかもしれない。終わらせたい。解放されたい。奪わせろ。奪わせろ」

 亡者もうじゃ、という形容の仕方が最も適切であるように感じられた。異形のバケモノに仕立て上げられたマウンテンゴリラは火の亡者だった。或いは、祈りを求めすぎて祈りの意味を見失った哀れな信仰者と言ってもよかった。

「サチイチが言っていたのは、オマエのことだったんだ。思う通りに振る舞えばいいというのは、このことだったんだ」と火の亡者が唇の端から涎の滝を落としながら言った。

 私は怯んだ。幸一くんはマウンテンゴリラに人間への憎しみの解放の仕方を教えたあと、そんな風に伝えたのだ。

 私の心がずっと縋ってきた価値観の指標を見失った。たちまち、私の足元が酔いどれ女の千鳥足さながらにふらついた。

「違うよ」

 ニィが怒ったように言った。巨大な復興の火がニィの正中線から少し横にズレた背後で音も立てずに燃えていて、その凛とした立ち姿はまるで片翼を失った不死鳥みたいに見えた。

 ニィが優しい瞳で私を見据えた。

 私は青白い光で疑念も恐れも包み燃されてしまった瞳をわずかに細めて見つめ返した。

「思う通りに振る舞えばいいというのは、このことだったんだ」

 ニィが火の亡者に向かって頭突きしようと、すらりと伸びた黒馬のような足を素早く交互に差し出して、上体を吊り糸の切れたマリオネットのような具合でぐんねりと振りかぶり、飛び退く素振りも見せない火の亡者の頭部にその痛そうな反動を余すところなく与える寸前のところで──止めた。


 ──ドッッ  ぉ  ぉ ォォぉ    っ!


 私の聴覚がぷつりと、リモコンで消されたテレビの画面みたいな具合でその機能を停止させた。心臓の鼓動がこの世界に響くただ唯一の音になった。

 ニィが先ほどよりも少し尖った歯を苦しげに食いしばっているのが見えた。マッコウクジラが獲物を仕留めるときにやるように、メロンと呼ばれる頭部の一点の機関から衝撃波のようなものを放ったのだ。


 まるで目の前で花火が炸裂したかのような衝撃と振動と閃光だった。展示された全身骨格の幾つかが瓦解がかいしているようだったけれど、音は一切聴神経を伝わってこなかった。

 とてもシュールな光景だった。静寂を得ることができれば、ひとは平静をも得られるのかもしれなかった。でも、そうしたらあんなに激情迸る交響曲第九番の歓喜の歌は生み出されなかっただろう。物事はやっぱり何事も一概には言えないものだ、と、私は不気味なほど平静に考えていた。

 閃光弾を眼前に喰らったかのように白んでいく視界の中で、ニィの額に黒くて硬そうな皮が張りついているのがわずかに見えた。

 私は足をルの字型に折り曲げて座り込んだ姿勢のまま、上体を脱力させた。

 そうして意識を失った。



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