手繰る


 ──この子はちょっと、いつも上の空でいるようなところがあるんです。

 上の空? と、私の代わりに救急隊員の男のひとが聞き返してくれた。お母さんは、はい……と力無い動作で頷いた。むしろ、ただ項垂れただけのようにも見えた。

 さすが、周囲からどれだけ険しい向かい風をぶっつけられようと、へこたれた様子なんておくびにも見せずに、十八年間、腹違いの兄妹を育ててきただけのことはあった。お母さんは側頭部に清潔そうなタオルを押し当てられてぐったりと仰向けに寝転がっている私のすぐ傍らに座り込んで、青白くなった手をどれだけ愛くるしい猫の背中にだってここまではやらないだろうというぐらいにさすりながら、特に取り乱した風でもなく、たんたんと質問に答えていた。

 お父さんじゃこうスムーズにはいかなかっただろうな、と私は一人、薄く笑んだ。

 救急車の中は料理ずきのひとのキッチンみたいな感じで、用途のよく分からない機器やらなんやらでごちゃごちゃとしていた。私の細っこい肉体に様々な医療機器が貼っつけられたり、あるいは、刺しこまれたりしていたけれど、果たしてそれらは頭を強打した患者にも効果があるものなのかしらん、と魂の私は小首を傾げた。

 糸のようなものはいままでで一番濃い明度で、そして、いままでで一番近いところで揺蕩たゆたっていた。利き手の人差し指と中指でつまんで、お父さんの耳にしつっこく生えてくる妙に長い毛を抜くときのように、一瞬だけ、強い力を籠めて引っ張れば、もう魂の私は私の肉体に収まることができるだろうという確信があった。

 ──この子の兄が……えっと、兄のほうは私とは別の女性が実の母親にあたるんですけれど……とにかく、この子の兄が心療内科に通っていたんです。人格の乖離かいりとかで。

 ──心療内科?

 その心療内科はいまから向かう病院の中にありますか? と救急隊員の男のひとが平坦な声で訊いた。目の前で意識不明の少女が頭から血を流しているという状況になにも動揺していない様子だった。

 おびただしいぐらいの生の数ほど死が潜んでいるこんな世の中で救急隊員という職業に就いたなら、そりゃあいちいち瀕死の患者を目の前にして動揺したり、ましてや心を痛めたりなんてしていたらむしろ自分の寿命のほうが縮んでいっちゃうんだろうけれど、それにしたって冷たく見えた。私はそのとき、数が増えすぎることはやっぱりそんなによくないな、とふと思った。

 ないです、とお母さんが悲痛に暮れたような声を漏らした。ないんかい、と私は内心つっこんだ。お母さんは救急隊員の男のひととは正反対にめちゃくちゃ動揺していた。動揺しすぎて、血液型とか身長とか体重とか、そういう私についての必要そうな情報とはまったく関係のない、ようは、言わいでもいいことばかりを、たぶん自分でも意識していないうちにたらたらと喋り続けていた。

 そうしていないと心がまったくおかしな方向に行ってしまうのかもしれない、脳みその防衛反応だろう、と魂の私は考えた。

 お母さんは、えぇ、ないの……と言いたげな顔をして黙り込んでしまった救急隊員の男のひとに、静かでもの悲しい声の力で、すなおな聞き手であり続けることを要求した。

 ──現実逃避のやりようを進化させすぎて、いつの間にか幻覚を見ていたということだったらしいんです。でも、別の人格になった途端に暴れ回ったなんていう事は一度もなくて、むしろ、はたからでは分からないぐらいどちらの人格も穏やかだったんです。それがこの青年の恐ろしいところだ、と主治医の先生はおっしゃっていましたが……詳しいことのほどはよく分かりません。でも、私はずっと不安でした。この子は兄を慕っていましたから。いっそ信仰と言ってもいいぐらいの懐きっぷりだったんです。

 はぁ、と救急隊員の男のひとは曖昧に頷いた。その様子があんまりにも冷め切っていたものだから、私は、私の肉体はもう専門的な目線から見たら手遅れな状態になるもう少しのところまで差し迫っているのかもしれない、と他人事みたいに思った。

 魂の私の架空の心臓についたタイマーが、カチ……コチ……と鳴っていた。とてももの悲しい響きにいまは聞こえた。まるで、なにも知らないままでいたらこんなにつらい思いをすることもなかったのに、と歯を合わせながら泣いているみたいだった。

 私は私の左胸をどんっ、と叩いた。タイマーは止まらなかったし、お母さんの秘密の放流も止まらなかった。耳を塞いでも、いま利いているのは実体のない耳のほうだった。

 ──終わりと隣り合わせにある生き物は、不思議な魅力を持っていますよね。特定の心だけを強烈に惹きつける類の魅力を持っていますよね。そう思いませんか?

 救急隊員の男のひとは黙っていた。感情を抑制することは思春期の青年の精神衛生上あまり良くない、とは聞いたことがあります。タガが外れたときにどうなるか本人にも予想がつけられないですからね。忍耐強い癇癪かんしゃく持ちの子どものようなものです。フラストレーションが溜まれば溜まるほど、爆発したときが悲惨になる。と、よく分からない質問によく分からない答えを返していた。だからといって会話が噛み合っていたというわけでもべつになかった。肉を頼んだのにみかんを出されて、いや、かぼちゃです、と言っているようなちぐはぐ加減だった。

 私は目の前に揺蕩っている糸を無視し続けていた。なにも知らされることがなかった、だからとても幸福だった十二年という歳月はほんとうに〝猶予ゆうよ〟だったんだなぁ、と悲しくなった。もしも、これからまた再生されるはずの時間が『最』が更新されていく最悪なものであるとするならば、もう、戻らなくてもいいかな、と思うのだ。

 糸は緩やかなうねり方で私の気の迷いを誘うように揺蕩っていて、私はなんだかすべてを見透かされたうえでバカにされているように感じて腹が立った。でも、すぐに鎮火した。腹を立てたってなんにもならないと幽霊の私が耳元で繰り返し囁いていたからだった。

 お母さんは追いうちのように続けた。

 ──二年前に、タガが外れたんですよ。ちょうど、自分から、診てもらって正常に直してほしい、と言って通い始めた心療内科に足が途絶えがちになっていた頃でした。この子に腹違いの秘密を明かさない代わりに、僕の行く先についてなにも尋ねないでほしい、そうして、できることなら僕のことを忘れてほしい、と言ったんです。なにをどう問いただしても、それ以上はなにも言ってくれませんでした。それで、私はまったく酷いことに、息子を……そのまま送り出してしまったんです。きっと、傷ついたんでしょう。当然です。幸一は、この子に秘密を明かしたんだと思います。幸一がいなくなったあとの希望はほんとうに魂が抜けたようで……幸一に影響されたのか、幼い頃から内向的だし、あんまり自分の想いを外に出さずにぼうっとしていることが多かったんです。

 救急隊員の男のひとはもう救急車の進行方向と同じ方向を向いていた。お母さんも、後半は私の抜け殻に話しているつもりだったんだろう。特に救急隊員の男のひとを気にしている様子は見受けられなかった。

 お母さんは傍らに置かれていたベージュのリュックを忌々いまいましげにつついて、吐き捨てるように言った。ひとの本音は醜いな、上辺で付き合っているひとは賢いな、と知った。

 ──この、荷物。幸一に会いに行くつもりだったんでしょう? でも、無理よ。きっと、幸一が拒んだのよ。あぁ、私はどうしていたらよかったのかしら。希望、しっかりして。幸一、もう許して……。

 お母さんはそれきり、せきを切ったように泣きだした。そうして泣きじゃくりながら、許して……許して……ととめどなく漏らし続けていた。頼りにしていた大人が不安定な子どもみたいに泣きじゃくっている様子は見ていてなんか胸につっかえるようなこわいものがあった。

 私は私の抜け殻に必死に呼びかけ続けるお母さんの意思を無下むげにして、糸のようなものを叫び声と共に放った息で吹き飛ばした。叫び声というより、咆哮だった。悲しい悲しい咆哮だった。

 家族が壊れた。ううん、そんなもの最初から壊れていた。ただ、私の目をみんなが塞いでいた。よかれと思ってやっていた。

 私はすべてを知ってから現実には戻れない、戻りたくない、そのほうがいい、みんなを優しくて純粋なひととしてえいえんに停止させたままおしまいになったほうがいいと感じてしまった。感じてしまったら、それきりだった。

 糸のようなものは水に沈んだ綿菓子みたいにふっと消えた。

 現実が、遠く遠くに見えていた蜃気楼みたいに揺らめいて、やがて、悲しみの雨にかすんで霧散むさんした。








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