day2大禍時 うつろ:波の音が聞こえる道程


 足が棒きれになったようだった。

 私が生まれ育った町は徳島市の中でもかなり辺鄙へんぴなところにあった。というか(徳島自体が辺鄙なわけなんだけれど)という迂闊な発言は色々な関係者の皆皆様に叱られてしまいそうだとは分かっていても、やめといたほうがいいよという制止の電気信号を出してくれる脳みそは道中なんキロメートルと歩いている最中さなかで色んな視覚情報を処理してきたせいでもうくったくたのへっとへとになっていて、すみません。()かっこつきだけれどもぶっちゃけちゃいました。後悔はしてないけれど、反省はした。でもさ、だってさ、電車が走っていないんだよ。そんな土地のことを辺鄙と言わいでなんと言う? 田舎? そうだね。

 ユキヒョウという立ち居振る舞いの頼もしい協力者を得た私とニィは、アカウミガメの女の子を救うため、博物館に目的地を戻した。

 そうして、初めは汽車を利用するつもりでいた、んだけれど、駅に着いてから肝心の汽車が見当たらなかった。

「アカウミガメの女の子を乗せたあとには、もう戻ってこなかったんだね」とニィは納得した風に頷いた。

「冗談でしょ? なんてテキトーな運転士なの。というか、そもそも誰が運転してるの?」

「さぁ? 誰なんだろうね?」

「なんだろうね? って、二匹は気にならないの?」

「興味ない」

 二匹から同時に言われてしまっては、私も閉口するほかなかった。

 県立の博物館へと辿り着くまでには、電車とバスを乗り継いでだいたい二時間ほどがかかった。もちろん、電車とバスが使えるならの話だ。ちなみに東京までは新幹線も使って四時間ほど。新幹線って速い。

 徒歩だといったいどれほどの時間を要するのかはどちらとも分からないし、なんなら考えたくもないけれど、私はいま中学校から博物館を目指して四時間ほどをぶっ続けで歩きっぱなしだ。だから、前者が四時間以上の時間を要するってことは確かだった。参考にする機会は、みんなにはえいえんに訪れないだろう。せめて有益そうな情報を挙げてみるとすると、二十四時間マラソンのつらさが分かった、ってことぐらいだろうか。

 むしろ、もうなにも考える余裕がなかった。でも、なにかを考えていないと失神でもしてしまいそうだった。私はいま綱渡りをしているような状態でいた。いつになったら安息できるのか分からないといった具合に先の見えない綱の上で、むりにでも気を張りながら、奈落のような意識の底に落っこちてしまわないようにがんばっていた。鯨とユキヒョウがあんまりに飄々と両隣を歩いていくものだから、私は次第にいじめられているような気分になってきた。いじめられているときは、どうしたって苛々した。他人に、自分にも。自意識が壮大なひとは、或いは、世界のすべてに対してだって。

 ひとが優しくあるためには、適度な休息が必要なのだ。テレビ画面の向こうで楽しげに悪意を振りまいたり、額に青筋立てて年がら年中カッカしているようなひとたちには、それじゃあ、休息が足りていないのかもしれない。もちろん、忙しくても優しいひとだっていた。でも、それはたとえば幸一くんのように真性に優しいひとだ。私たちのような半端者は、適度な休息を取らないと誰かに優しい気持ちを向けることさえできない、ほんとうに悲しくなるほどちりッカスな人間なのだ。

 目的地である博物館には、中学一年生のときに行ったことがあった。課外授業で、刀やら石器やら土器やらなにやらを見物しながら思ったことや考えたことをレポート用紙になるたけ大きい文字で書いた。考察欄には館員の説明をコピー&ペーストした、って、覚えていなくとも断言できた。幸一くんなら絶対によく練った自分の意見を書きでもするんだろうけれど、なにせ私は半端なのだ。О型だし。そういうところは、けっこうテキトーだった。

 私は、印刷すればいつだって見ることができるプリントのゴシック体の文字よりも、月限定の展示物を眺める時間のほうを少しでも多くしたかった。さして分析力も文才もなかった私は、丸写しという方法でしか、最低限満足にその欲望を叶えることができなかったのだ。

 私はその課外授業の最中、始終機嫌が悪かったように思う。なぜならば周りがうるさかったからだ。もちろん、さすがに貸し切りしてもいなかった、公共の場である博物館。普段教室でやっているような騒ぎ方は誰もしていなかったけれど、それでも私の鼓膜には些細な話し声やひそやかな笑い声なんかでさえもうるさく響いた。というか、そもそもひとの気配が邪魔だった。博物館は静謐な空間だ。なにせ、何万年もの間土に埋まってしんとしていた骨があるのだ。喧騒や瑞々みずみずしい命と合うはずがなかった。

 私は波の音に耳を澄ませた。ざざん、ざざん……と、なにかを訴えかけるように絶え間なく音を立てていた。風は凪いでいるのに、波が立った。ひとがいないのに、汽車は走った。やっぱりここは不思議な町だ。そしてこの町の静謐さは、私の肌に曇天の潮風のようによく馴染んだ。

 世俗的な情報は私にとって、博物館にとってのひとの気配と同じぐらい、合わなかった。そうして、世俗的な情報には私などいてもいなくても変わらなかった。

 赤いポストが陽光を濃い橙色に照り返しながら、あんぐりと口を開けていた。ひとを失くした公共物は随分と自由な表情を見せるようだった。

 民家は疲れ果てた子どものように眠って、三連信号はジト目で少なきものたちを見下ろして、ポストはべっこう飴色に染め上げられた町の中でいかにも退屈そうにあくびをかましていた。

 それはいい退屈のようだった。布団の上でうだうだにうだって、二度寝して、スマホをいじって、ふと時刻を見やるともう昼も近くなっていて、空腹だけを潰すためにインスタントのラーメンを食べて、汁がシャツにはねて苛ついて、またスマホをいじった末にふと、退屈だ、と胃のむかつきを感じながら気づくような類の退屈じゃないようだった。私はそれがひどくうれしかった。ポストを見つめながら歩くと、綱が太くなって、体幹が安定していくように感じられた。

 ポストは、いったいどうやっているのか、退屈を幸福に還元していた。一生懸命になにかを為そうとしたあとの束の間の休息の意味も兼ねた退屈なのかもしれなかった。束の間。この場合においては四日間という短い期間をさした。

 この町のポストは三百六十五日、口を閉ざすことなく、ひとびとの手を受け入れている、と、そう思われがちだったけれど、じつのところは違ったのだ。ポストは毎年、四日間は退屈だった。私はこの町で唯一その事実を発見できたことに喜びを覚えたし、今後はポストに手紙を投函するたびに秘密を知っているもの同士の共犯の糸が繋がるんだろうと考えて、心がときめいた。

 絶滅危惧種の町にある博物館、というのを想像してみた。フレーズがなんだかもの悲しくて、また恐ろしいほどの静けさに満ちているように感じた。

 博物館に足を踏み入れたら、私はとうとうこの町から離れたがらなくなってしまうかもしれない、と思った。

 幽霊である私の未練は、二年前に別れたきり会っていない幸一くんのことだ。だからたとえば、私がいまの幸一くんになんらかの悲観的な考えを持つようになって、二年前となんら変わりない幸一くんの姿を取ったニィを好くようになったら、私はそっけないほど簡単にこの町に留まることを選ぶんだろう。そんな予感を覆い隠そうとするように、絶え間なく波の音が立ち続けていた。


「つかれた」と私は漏らした。もう足は棒きれのよう、ではなく、棒きれだった。

 夕陽が地平線の彼方に沈みかけていて、夜のキッチンに落とされた牛乳の一滴のような月が淡い紺色の空に昇りかけていた時分のことだった。

 アスファルトは夕陽の煌めきと月のまどろみの光とを綯い交ぜにしながら濡れたように光っていた。雨が降ったわけでもないのに。人工の灯りの灯らない町では地面から水が滲むのだろうか。ひとびとは気づかないうちに、遅効性の毒のような外灯を照らして、地面から水を奪い取っているのかもしれなかった。悪意のない悪事だ。ようは、タチが悪いってこと。

「どうして疲れる? 魂だけになってもまだなお」

「それは私のほうがよっぽど思ってることだよ。魂だけになってもまだ肉体的な疲労を感じるなんて、あんまりにもあんまりな話じゃない? 肉体はかたつむりの外套膜がいとうまく程度の働きしか持っていなかったってことなの?」と私は文句を垂らした。制止の電気信号が利かなくなった少女というのは果たしてこの世で一番だるくうるさい生き物かもしれない。

 文句ついでに上を仰いだ。私のほんの少し霞んだ視界には、電信柱とそこから伸びる電線が二本と、あとは淡い色合いの空が広がっていた。

 ふと、思い出した。小学校のときの図工の時間で、マーブリングの課題が出た。私はこんな空にできるだけ近い色合いを画用紙に閉じ込めることができたらいったいどれだけ素敵だろうと高揚して、オレンジとライトブルーと桃色と白の絵の具を水切りかごに張った水にちまちまと落として、竹串で丁寧に交ぜた。水の表面に浮かぶ抽象的な模様は漁港近くの排水溝に溜まる洗剤と油のように見えた。私はますます燃えた。真っ白な画用紙に浮かぶじつに美しい完成形を想像して、心の土壌が既に肥沃ひよくになっていくようだった。

 そうして、とうとう画用紙にマーブリング模様をいざ写し取らんかというとき、尻尾の先にダイヤをつけた黒猫がプリントされたTシャツを着た女の子がなにかの拍子によろけて、私の水切りかごにどぶのような水を落とした。

 私は愕然がくぜんとした。水に浮かんだマーブリング模様は濁った川のような色にまとまって、静かに沈殿していった。

 よろけた女の子はとてもすまなそうに謝った。どうしようどうしようと故障した玩具のように漏らし続ける彼女は少しずるいなと思ったけれど、それでも私はなんとか怒りをたしなめて、なんでもないからいいよ、と許した。はたから見てもなんでもないわけなかったけれど。そうやって、許す側はたいてい、噓をつく。私が噓を一概に悪いものだとは思えない所以ゆえんの一つだ。

 空はいつも私たちの頭上にあった。私は、ほんとうに美しいと感じたものはカタチにして残したくなかった。だから写真に魅力を感じなかった。美しいものは一瞬だけで充分だ。目に見えて褪せるのなら切り取らなくていい。

 あの日のマーブリングがどぶになったのも、もしかしたら私が内心そうなることを望んでいたからなのかもしれない。そのあとで融通の利かない先生になぜだかこっぴどく叱られることはまったく望んでいなかったわけだけれど。

 私はこうして、私が誰かを許したことを、そのときどきに思い出した。そうすることで私になにかが残ったんだろうか、と、そのたびに考えた。苦し紛れに希望のカスのような模様を写し取った画用紙はいまもまだどこかに残っているんだろうか。

 私は急におりこうさんになって、美しい町を背景にてくてく歩いた。ニィは私の扱い方、というかあしらい方みたいなものをある程度心得たらしかった。こぼれ落ちる文句をいちいち拾おうとしなくなった。こういうところがやけに人間っぽかった。重要そうなこととそうでないこととを見分けることができているということだ。

「希望の魂はやっぱりまだ肉体と繋がっているんじゃないかと思うよ」とニィが先を歩きながら言った。

「そう?」と私は空を見上げたまま訊いた。ニィが頷いた気配がした。

「僕らは少なきものの町に来ると、眠気や疲労を感じなくなるんだ。それらを感じていた肉体とはもう離れ離れになったわけだからね。習性の名残として残っていることはあるけど、でも、それだってほんとうに些細なものさ」

「鯨のニィが歌を歌ったり、ユキヒョウが水浴びをしたりとか?」

「きっとそうかな。でも、希望はちゃんと疲れを感じているようだし、なにより朝陽が昇るまでぐっすりと眠っていた。魂が肉体にいた頃と同じように振る舞っているんだ」

「なるほど。じゃあ、私は幽体離脱をしてるような状態でいるってことなのかな?」と私は前に向き直って訊いてみた。

「それがなんなのかはよく分からないけれど、理解の早い希望のことだから、あながち間違ってはいないんだろうね。ようするに、希望の魂は糸のようなもので肉体と繋がっているんだよ。遠く遠くへ離れていくほど、細く切れやすくなっていく糸。希望はこの町に来る直前に、僕の歌とその糸のようなものの震えとを合わせたと言っていたけれど、たぶん、それで魂がこの町に引き寄せられたんだ。上手く言うと、僕の歌が希望の魂から伸びた糸を手繰り寄せたということだね」

「じゃあ、前に来た人間も、二回目の鯨に手繰り寄せられてこの町に来たのかな?」と私は、理解が早い、という褒め言葉にまんまと照れたまま訊いた。ニィは私が調子づいていることに気づいたのか、少し間をおいてから答えた。

「さぁ。そこまでは分からない」

 そうかぁ、と思って、また空を見上げた。

 幻想的な町だ。生に執着しているひとをこの町に放り込みでもしてみたらたちまち大人しくなるだろうといった具合に……ううん、むりだろう。ひとは生に執着することをやめられない。現に私がそうじゃないか。人生の最中さなかで出会ったひとに執着して、どうにか復活をと何百という物語で何千と倒されてきた魔王みたいに企んでいた。

 果たして、ほんとうに人生に満足したうえで幕を閉じることのできるひとはいるんだろうか。いるとしても、それは絶対に十四年以上は生きたひとだろうと思った。或いは、花の十七歳を経験し終えたひとか。

 これから色んな出会いや出来事が待ち受けているはずの十四歳という可能性の歳に、満足したという一言で人生を総括して終えられるような少年少女がいるわけがなかった。だから、いいのだ。私は浅ましくなんかない。幸一くんだって、十四歳のときは、きっと……

 考えてみて、私のカラダの内にざぶざぶとさびしさの水がどこかから流れ込んできた。

 古い細胞が壊れるときに生じる熱で命を燃やしていた幸一くんは、なにかを悟りきったような穏やかな表情をしていた。まるで絶滅危惧種のような。

 私は大股で空気の流れに遊ばれているみたいにえっちらよっちらと歩くニィの背中を見つめた。ニィはほんとうに、操る言葉も手の大きさも頬の青白さも、どれをとっても幸一くんに似ていた。唯一違うのはこんな妙な歩き方ぐらいだ。そして、一等似ているのは、というより、私に幸一くんのことを一等想起させるのは、その瞳だった。

 ニィは常に、幸一くんが進化を遂げている最中の瞳をしていた。海の中を孤独に泳いでいた鯨の魂と、二年前の幸一くんは同じ瞳をしていたのだ。十八歳なのに。いまの私とたったの四つしか変わらない青年なのに。僕の命はもう尽きた、とにこやかに言ってのけれる鯨と同じ瞳をしていたのだ。それはとてもさびしいことだと思った。

 カラダの内を満たす水が凍るように冷たくなってきて、得体の知れない寒さに歯がカチカチと鳴った。

「こわいの?」

 突如、ニィが振り返って訊いた。鯨は音に敏感なんだ。

「おそろしい、よ」

 ニィはじっと、深海のような瞳で私を見つめた。そうして大股の一歩で目の前に来た。

「大丈夫だよ。もうじき帰れるさ。ようは、糸を手繰り寄せればいいんだよ。少なきものの町は元の世界とは遠くて遠い裏にあるから、糸も細くなっていて見つけにくいだろうとは思うけれど、きっとなにか上手くやるための方法があるはずだ。それを僕らと一緒に探そうよ」

 ニィはそう言って私を励ましてくれた。私は顔をふいと横に背けたあとに低く唸って、視界の右側で誘うように揺れていたユキヒョウの尻尾の先を軽く握った。

 出来心だった。強いて言うなら、手繰り寄せる、という言葉に触発された。私の欲を抑えていたタガが少しばかりズレたのだ。

 私が尻尾を握ったのと同時に、ユキヒョウの歩みが止まった。一瞬、ヒヤッとしたけれど、抑圧されていたひとの欲というのはまっこと野蛮な力でもってひとを支配するもので……つまり、私は阿呆みたいに尻尾を握ったままでいた。

 たまに、ネコ科の尻尾が意思を持った別の生命体であるように思えてならないときがあった。近所で生活している黒ブチの野良猫が付け根をぞんざいに手で支えて、しょうがなさそうに毛づくろいしているのを目撃したときなどがまさにそうだ。尻尾はネコ科の生き物の支配下にはない。あるようで、じつはない。それはまるでひとの欲のようではありませんか?

 もふもふだ。

 尻尾は抵抗する様子を見せなかった。

 もふもふだ。

 これでもまだ平気みたいだ。

 もふもふだ。

 ずっとこうしていてほしいと言っているようだ!

 私はもふもふに受け入れられたのだ。

「…………」

 私の手から尻尾がするん、と抜けて、つれない少女を追っかけるおじさんみたいに手を伸ばしかけたところで、すぐに引っ込めた。

「いや、ははは、ゴミがついてて、ね?」

「…………」

 眼力。が、眼力が凄い、というより凄まじい。私の欲は反省をしないままに、猛烈に後悔していた。もふもふの尻尾が冷や汗だらだらの私をバカにするように揺れた。お主、まさかスパイだったとは!

「私、いまの話を聞いてなんだかとても重要なことを思い出せるような気がしたんだけれど……きゃっ」

 ごまかそうとしたところで、なにか黒いものが私の視界をまっすぐに横切った。

「少なきものだな」

「いやっ、飛んでたよ?」

「飛ぶやつだろう」とユキヒョウの尻尾が私の頬をはたいた。

「飛ぶやつか……」と私は右頬を撫でながら辺りを見回した。

 波の音が遠くから聞こえてきていた。

 私たちは十字路の手前を歩いていた。この町の建物は軒並み低いので、視界は開けていた。

 なんだか不気味で、ニィの大手の羽織に乾燥しきった冬の日の埃みたいにすすす……と寄った。飛ぶやつを探して、空を見上げた。プレス機で圧縮されたかのように固まった長方形の静寂が空から落っこちてきているようだった。


 いつか幸一くんと駄菓子屋に行った帰りの風景を思い出した。私たちは小銭をハダカのままポケットに入れていて、行きと比べると随分と軽くなった音をチリキリと鳴らしながら、夕暮れと夜の狭間みたいな曖昧な風体をした町を連れ立って歩いていた。私はチューぺットを口に咥えていたように思う。だとすると、季節は夏だ。駄菓子屋と夏の関係は無敵だ、とふと思った。

 私はヨーグルト味がしないでもないなにか白くて美味い駄菓子の入ったビニール袋をご機嫌のリズムでがさがさと揺らしながら、幸一くんの隣を歩いた。幸一くんは私の歩いていない側の手でラムネの瓶を持っていた。改変されているのかもしれないけれど、ラムネの瓶が持たれていようがなかろうがいったいなんだっていうんだろう?

 私は淡い桃色と沈んだ青色と温かい橙色とが入り交じった空を見上げて、ほぅ、と嘆息をついた。

「なんて美しい時間だろうね」と幸一くんが感受性豊かな私を愛おしむように呟いた。

「幸一くんもそう思う?」と私は訊いた。

「あぁ。この時間に生まれていたら少しは自分を愛せそうだったと思えるほど、僕はマジックアワーを愛してるんだ」

「マジックアワー? っていうの?」と私は小首を傾げた。なんてときめきの響きだろうと、十四歳になったいまでも感じた。

「魔が逢う時と書いて、逢魔時おうまがときとも言うんだ。大きい禍々まがまがしさで大禍時おおまがときと書くこともある。これは妖怪伝説が語り継がれてきた極東の島国ならではの言い方だね。外国には妖怪なんていないから、ただ、幻想的な時間、という意味の籠められたマジックアワーという言い方をしているんだ」

「素敵。どっちの言い方も、まるでこの世には到底起こり得ないことが起こりそうで」

「それは、素敵かな?」

「素敵だよ。妖怪は怖いからやだけど」

「そっか。でも、僕は妖怪を見てみたいよ」と幸一くんは笑んだ。私はうべぇ、と舌を出した。幸一くんは可笑しそうに笑った。

 ほんとうになにか不思議なことが起こりでもしそうだと自然に思い込めるほど幻想的な空だった。そして、幸一くんと一緒ならどんなに不思議で理不尽で頭がこんがらがっちゃうような出来事でもなんでも乗り越えられるというような気がしていた。

「ねぇ、たとえばどんなことが起こってほしい? おうまがときじゃなくて、マジックアワーのほうで」と私はチューペットを握ってプラ臭く濡れたほうの人差し指を振りながら言った。

「先手を打つのが上手いなぁ。妖怪はダメ?」

「だめ!」

「分かったよ。おとぎテイストなマジックアワーのほうがいいんだね。うーん……」

 幸一くんは見るひとに冷ややかな印象を与えるつんと尖った顎を古びた陶器のような手にのせて考えだした。やがて、独りごとみたいに呟いた。

「そうだなぁ。ひとが砂糖になる。それで、屋根の下に居たの以外はみんな雨に流されて、この世界から姿を消してしまう」

「砂糖? なんで?」

「砂糖は生き物に悪夢を見せるからかな。雨に溶けて流れた砂糖が行きつく先は海だ。魚の悪夢っていったいどんな風なんだろう、と、少し気になったんだ」

 私は幸一くんの考えていることがこの世で一等不思議なようだと思った。頭蓋骨を切り開いて脳みそを見てみたい、とは、こんな気持ちのことを言うんだろうなと思った。

「なにが起こっても不思議じゃないね」と私は言った。

「なにが起こっても不思議じゃないさ」と幸一くんは応えた。


 いまはマジックアワーの時分だった。


 ──キシキシキシッ!

「うわっ!」

 私は頭を庇うようにして身をかがめた。ニィとユキヒョウはあまり動じていなかった。あくまで、あまり、だ。ニィは迷惑そうに目を細めて上半身をかしがせていたし、ユキヒョウは髭を蠢かせて亀裂のような黒目を頭上のあちこちに向けていた。

「モ、モスマンッ?」と私は悲鳴混じりの声を出した。

「なんなの、それは?」

「UMAだよ。極東の島国的に言うと、未確認生命体。格好悪く言うと、蛾人間」

 私は身をかがめたまま、もう一度辺りを見回した。わんわん凧が揚げられる程度の高度の空に、おぞましい姿形をしたなにかが飛んでいた。

 それはスーツを着た中年の男がハングライダーで滑空している姿のようにも見えたし、翼の折れた宇宙人がなんにもままならぬまま墜落してきているようにも見えた。つまり、酷く不安定な飛び方だった。凪いでいるのに、まるで風にきりもみされているかのようにあっちこっちを飛び交っていた。そうしてときどき釘で窓ガラスをひっかいたような、不快で、聞いたものの耳小骨じしょうこつが削れるような鳴き声を発した。それは一匹だけじゃなくて、何匹もいた。私はハッと息をのんだ。

「コウモリ?」

 まるで撃ち落とされたがんのように不安定な動きで高度を下げたそれを見て、気づいた。つぶらな瞳に、豚鼻に、小さな耳。あれはたぶん、コウモリだ。

 それにしても、あんなグロテスクな見た目をした種は見たことがなかった。頭部は人間のもので、なんなら胴体や足もそうみたいだった。浮浪者のような固そうな髪に、胸板や足のくびれの黒っぽいシルエットが幻想的な空を背景に忙しなく動いていた。

「うつろだ。自我を失っているんだろう」とユキヒョウは言った。

「攻撃してくるのかな」と私は歩伏兵みたいな恰好をしながら訊いた。

「ときにはな。だが、俺たちは思念体なんだ。問題ない」

「でも、半端な魂の状態でいる私にはまだ痛覚が残ってるかもしれないんだよ……だいたい、いまになってどうして急に出てきたの?」

「夜だからだ。夜を好む少なきものは多い」とユキヒョウは狂ったように鳴き続けるうつろを眺めながら言った。

 ねぇ、ニィ……と幸一くんに縋るような姿勢で呼びかけかけて、停止した。一度、心臓が大きく鼓動したのを最後にして、身体の機能がすべて停止したような感じがした。感じがしただけで、じつはぜんぜんそんなことないんだろう。うなじから背中から、まるでサウナに入りでもしたかのように膨大な量の汗がたちまち流れてきた。サウナに行ったことなんてないけど。ともするとサウナに入るよりもひどい発汗の仕方をしているのかもしれなかった。

 私はごくりと唾を飲んだ。食道を下っていく唾がすぐに汗腺に取り込まれて体外に排出されていくイメージが脳裏に浮かんだ。

 左隣になにかがいる気配がした。圧倒的に圧のある気配だった。まず、サイズが大きかった。産毛がヒグマの黒い体毛のように固そうに生えている翼を広げっぱなしにしているようだったから、余計にそう感じるのかもしれなかった。

 私は陸に打ち上げられた魚みたいに口をはくはくと開けたり閉じたりした。猛烈に喉が渇いてきた。ニィは平然とした態度で、恐怖に立ちすくみながらまるで子兎さながらにぷるぷると震える私を眺めていた。

 私はそのとき、改めて実感した。

 ニィは幸一くんではないのだ。だって、幸一くんなら、コウモリが苦手な私のために……というかたぶんコウモリが苦手じゃなくても誰だって怯えるだろうこんな半分コウモリ半分人間のうつろを、左隣から追い払ってくれただろうから。

 左の耳がぞわり、とした。私は奥歯を割れそうなまでに強い力で噛んで、つま先で立った。

 目。

 目。

 こごった牛乳のおりのようなコウモリの目が視界の左側にあった。首から下げられた、赤や黄や緑に塗装された木彫りを通してできたエスニック風の首飾りが、飛び立つ前の鳥のように、前後に二度ほど、揺れた。

 ──……キ

 私は大きな一息を吸って、猛然と駆けだした。

「うわぁ、早いね!」とニィが感動したように言っていた。

 私は涙ぐんでいた。そんな涙でさえも外気に晒された途端にたちまち消えるような速度で駆けていった。

 私はコウモリが苦手だった。私の苦手な蝉と同じように予測不能な動きで飛んだり、唐突に鳴いたりするからだ。私は私の予想の範疇はんちゅうを軽々と越えていくと分かる物事に対して苦手意識を抱きがちだった。それも、半端な私には到底うかがい知れないような底知れぬ考えを持っていた幸一くんのトラウマ的な影響に及ぼされてのことなのかもしれなかった。

 ひとっていうのは、物事の一つの要素を嫌いになるとそのほかの要素も連鎖的に嫌いになってしまうような融通の利かない生き物だ。十四歳になったいまの私は、コウモリのヴィジュアルでさえも嫌いになっていた。それなのに、この仕打ちだ。あんまりにも酷い。酷い。酷すぎる。

 私たちは駆けた。マジックアワーというより、逢魔時、或いは、大禍時のほうが遥かに似合うような時分だった。途中、濡れたなめし革を全身に張り付けたような格好で海中の海藻みたいに揺れながら二足歩行でこっちに近づいてきていたホホジロザメや、あと、たぶん山椒魚にも会った。

 オオサンショウウオなのかアベサンショウウオなのかヒダサンショウウオなのかは分からなかったけれど、寸胴のような体型と水を流し込んだ風船のように膨れた四本指を見て、どうやら山椒魚らしいということだけは分かった。

 山椒魚はなぜだかガードレールに走った黄色い一本線を食い入るように見つめていた。川辺の釣りびとが着るようなナイロン製のジャケットを羽織って、目深にフードをかぶっていた。裾からは湿ったように光を照り返した平たい尻尾がだらしなく出ていた。爬虫類属は幸一くんのお気に入りだったことをふと思い出した。

 道程で出会った様々なうつろたちはみんな一様に塩分中毒で死んだ魚の目をしていた。

 すごく不気味で、命を冒涜ぼうとくしたうえで嘲笑っているような光景だと感じた。元々いたのかどうかは分からないけれど、もしもいたとしてもいまは絶滅してるんだろうドラキュラやマミィが渋谷のハロウィーンの乱痴気らんちき騒ぎを見たらこんな気持ちになるんだろうかなと思った。

 足の感覚が無いままに走っていると、次第に、私は私が浮遊しているような錯覚に襲われた。交互に差し出され続ける足は、まるで私の上半身に知らずの内に取り付けられていたマネキンの下半身のように見えた。

 私たちはスナックや耳鼻科なんかが両側に建ち並ぶ道路を走っていた。たぶん、歩いたことのない道だった。いつの間にか先を走っていたニィとユキヒョウはなんでったってそっちが博物館だと分かるんだろうか、と今更ながらに不思議に思って、訊いた。

「アカウミガメの復興の火がこっちにあるからだよ」

「そんなの分かるの?」と私は息も絶え絶えに訊いた。

「復興の火を灯してもらったからね。希望は分からない?」

 分からない。でも、それならアカウミガメはまだうつろになっていないってことなんだね。よかった、と言おうとしたところで、なにかが私にぶつかってきた。

 私は尻餅をついた。マネキンの下半身がぴくりとも動かなくなった。

 見上げると、私と同じぐらいの背丈の女の子が路地裏を出たところで突っ立っていた。光沢のある艶やかな黒髪を腰の辺りまで垂らして、縁日で売っているような兎のお面をかぶっていた。

 ううん、違った。お面ではなくて、それが彼女の顔貌だった。優勢になりかけた夜の町の中で、血といっしょにぐらぐらに煮詰めた柘榴石ガーネットのような瞳が二つ、なんの光もたたえていなかった。側頭部の辺りから、兎にしては随分と短い耳が生えていた。爪は恐竜の化石からくすねてきたもののように、太く、そして頑丈そうだった。

 どこかで会ったことがある、と直感した。

 私は彼女と目を合わせた。そうして、彼女に内在しているはずのなにかしらの響きと私の魂から伸びた糸の震えとを合わせてみようと試みたのだけれど、彼女の心はなにも響いていなかったどころか、なにを感じてもいなさそうだった。

「あれ、あなた、私……?」

 うわごとのように呟いたところで、一瞬、彼女の瞳に復興の火の片鱗が垣間見えたような気がした。

 私は試しに、気管の直径を狭めてみた。そうして、なんどか鼻に送る息の量を調節して、とうとう一声、アマミノクロウサギの鳴きまねをした。

 彼女はなにも動じなかった。

 もう一度、ピィ、と、鳴いてみた。ニィやユキヒョウのほうが驚いている気配が伝わってきた。

 ダメかぁ、と項垂れようとしたところで、黒兎の彼女が敏捷びんしょうな動きでもってしゃがみこんだ。私の顔をじっと見つめて、淡い橙色の鼻をひくつかせた。

 そうして、一筋。

 私だけにしか見つからないような、透明な涙を流した。

「待って……!」

 復興の火の片鱗はその涙に消されたように、もう二度と垣間見ることができなくなった。

 まだ糊のきいていそうな私の中学校の夏服を着たアマミノクロウサギのうつろは、飛び出てきたところの路地裏をまた奥のほうへ奥のほうへと進んでいって、とうとう、その頼りなさそうな後ろ姿を消した。

「大丈夫?」とニィが手を差し出してきた。私は先ほどから絶え間なく感じてきた恐怖とたったいま受けたショックとで、もう一分いちぶたりとも動くことができなくなっていた。

「ねぇ、黒い拳の少なきものはどうしてこんなことをしてるの? うつろになった姿のままこんななにもない町に閉じ込められてしまうなんて、そんな酷い話ってないよ。そんな酷いことをどうしてできるの?」と私は病熱に浮かされた子どものように訊いた。

「理由も原理も分からない。ただ、あいつはお前よりもよほど人間らしいぞ」とユキヒョウは答えた。

「歩けないんだね? だったら僕がおぶってあげるよ」

 ニィはそう言って、私に背を向けた姿勢で屈みこんだ。私は物も言えぬまま、その平たくて華奢な背中にしがみついた。懐かしい、幸一くんの感触とにおいがした。途端に限界まで張りつめていた心の琴線が緩く解けていくようだった。

 アマミノクロウサギは、私の姿を取っていた。そうして、黒い拳の少なきものに復興の火を奪い取られて、哀れ、うつろにされてしまった。このままだとどこにも行けないまま、少なきものの町にえいえんに閉じ込められてしまうのだろう。私は悲しくて悲しくてたまらなくなって泣いた。「さっきの鳴きまねはそっくりだったね」と話しかけてくれた心配しいのニィになにも言葉を返せないまま、ただめそめそと泣き続けた。

 なんとかしたい、と、初めてここまで強く思った。私にしかなんとかできない、と思ったのも初めてだった。ここまで苦しい重圧は初めて感じたし、こんなに脊椎の近くがすぅぅと冷えて、脳みそが燃え上がっていくような感覚を覚えたのも初めてだった。

 私は大手の羽織に涙痕るいこんを増やして、或いは、広げながら、ぼうっと思考を巡らせた。

 アカウミガメに灯してもらった復興の火を介して見た記憶の中で、青白い火を閉じ込めたカンテラ番のおかっぱ頭の女の子と出会った。

 ニィの少し前方を歩くユキヒョウはチュバのような淡い灰色と藍色のグラデーションになった衣服の裾を揺らしていた。チャイナドレスを上下に分けて、そのどちらともを防寒用に改造したような格好だ。チュバはチベット高原で生活する民族の民族衣装だった。そして、ユキヒョウの生息地もまたチベット高原にあった。

 山椒魚はそのたいていが日本に生息地を置いていた。いま思い返してみると、さっき出会ったうつろはオオサンショウウオだったんだろう。花こう岩のような尻尾の文様がまさにそれだった。オオサンショウウオは日本の固有種で、開発も汚染もされていない川だけに生息することができた。そんな川では魚も多く釣れるんだろう。

 そうして、アマミノクロウサギは私の姿を取っていた。

 きっと、糸が関係しているんだ、と思った。どんな少なきものも手当たり次第にテキトーに人の姿を取っているわけではなかった。なにかしらの繋がりがあって──心根こころねとか、もしくは私たちひとには到底意識できないような深層にあるなにか──ひとの姿を取っていた。そうして、少なきものに姿を取られるようなひとは、常に生産性や合理的であることを求められる現代社会においてとても生きづらいんだろうなと思った。だって、あんまり人間的ではないってことだから。

「ニィは、52Hzの鯨なんだね」

 ニィは黙っていた。私は静かに目を閉じた。

 少なきものが復興を火を灯すため、つまり、少なきものが少なきものの町に来るための手助けが少しでもできているのなら、それは私たち、少ないほうの人間にとって大きな救いだった。とても優しい存在意義だ。

 そして、そんな救いや存在意義を黒い拳の少なきものは潰しているのだ。許せないと思ったし、許されないことだとも思った。

 一つ、涙痕を増やした。

 私は幸一くんの姿を取った孤独な鯨の背に濡れた顔を押しつけて、いつの間にか眠っていた。


 夢の中で糸のようなものを握った。

 傷の入ったお椀に御御御付おみおつけを注いだときに鳴るような、きゅぅぅ、というひとびとの悲鳴と、加えて、けたたましいサイレンの音が聞こえた。やがて心の耳だけでなく心の目も利くようになってきた。

 見えてきたのは、私がずっこけたあの階段だった。

 周りには見知った顔がいくつかあった。意地悪なハイエナのクラスメートたちはやっぱり心の底では楽しんでいるんだろうと容易に分かるようなわざとらしく深刻そうな目つきをしていた。海斗くんもいた。誰かさんの大事な花瓶を割ってしまったときのような感じで呆然と突っ立っていた。

 私の体感ではずっこけてからもう随分と時間が経っているようなのに、元の世界ではようやっと救急車が呼ばれたぐらいなんだなぁ、と幽霊の私は他人事みたいに思った。

 なにか一際焦っている音が増えた、と思ったら、お母さんが人混みをかき分けて、私の抜け殻に近づいてきた。そうして、青白くなっていく私の手をさすりながら、聞いたひとの気持ちを気の毒にさせるような掠れた声色でもって呼びかけた。

 ──希望、希望……!

 私はなんだか胸に鋭利な杭が埋め込まれていっているような、熱くて痛くて苦しい心地になった。救急隊員のひとがお母さんに呼びかけて、何事かを訊いた。長い間現代社会を生き抜いてきたお母さんは、こんなときでも見知らぬ誰かの質問にしっかと答えることができていた。

 そうして、私の抜け殻を見下ろして、たまらなそうに言った。

 ──あぁ、幸一の呪いなんだわ……!

 私は担架に乗せられたときの振動を確かに感じた。きっと、あともう少しだけ集中して、魂から伸びる糸を手繰り寄せたなら、完ペキに肉体に戻ることができたんだと思う。

 私は糸のようなものを離して、表と裏の狭間の眠りの底に漂った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る