day2昼 ユキヒョウ:中学校


 駅の近道に続くトンネルの手前から二十分ほどかけて歩いたところで、私たちは私の通う黄ばみ色あせたお菓子の箱みたいな中学校の前にたどり着いた。町と校舎とを分断している柵に手を伸ばして、前後に二回、軽く揺さぶった。正門には鍵がかかっていた。夏休みだからだ。仕方がない。

 私はニィを手招きして、ぐるりを囲うフェンスに空いたサッカーボール大の穴を少しずつ押し広げながら、身を縮こませてくぐり抜けた。ここの抜け道は初めて使った。ほんとうだ。

 ただ、とある日の昼下がりに別段珍しくもなく嫌気がさして、ハンカチを敷いた体育館裏のステップに膨大な量のため息を吐いたのと同時に腰かけたとき、視界の右端で蠢く遅刻常習犯の茶髪の同級生の背中を見つけた。それで秘密の抜け道の存在を知った。それだけのことだ。彼は隣のクラスのイキがり坊やだった。二組ふたくみ合同の授業を受けたときなどに、眉間に川の字の皺の入った不機嫌な犬みたいな顔をよく見かけた。

 彼は技術の先生のお気に入りだった。技術の先生は半田ごてをカーラー代わりにしてくるくると巻いたようなじつに強烈なパンチパーマを平たい頭に生やしていた。そしてことあるごと(誰かが冗談を言ったりだとか、トイレに行きたいですと挙手をしたりだとか、ほんとうになんらかのことがあるごとにだ)にこう言った。「タカナシは悪い奴じゃない。ちょっと不器用なだけ」技術室の備品のペンチを持ち出して、ちょうどゴミ箱と茂った生垣のおかげでピンポイントに死角になる場所に、なにやら怪しげな挙動でパチン、パッチン……と疑惑の音を響かせていた彼は、じゃあ、やっぱり、不器用なだけだったんだろうか。私は未来の自分を救済するための作業に熱中していた彼の背中をガン見しながら、かくんと首を傾げた。

 不器用でも器物損壊はしないというひとのほうが圧倒的に多い気がしたし、そういうひとのことを善良と呼ぶんだと信じた。だから、タカナシは不器用、加えてとびきり悪い奴だ。しかし、私がその選択をしたらしばらくはもやもやするだろうと分かっていたのにも関わらず、先生にその悪事をチクらなかったのは、ひとえに、下品な言い方になってしまって申し訳ないけれど、胸クソが悪くなるのを防ぐためだった。

 これは私の持論で、そして、大多数の子どもに賛同される意見だと思うのだけれど、世の中の大人はたいていが阿呆だ。

 世の中の大人は、注ぎたてビールのような二重構造になっている。上澄みの泡は善良な大人。引き留める間もなくぷちぷちと消えていってしまう。そして苦いアルコールの部分が阿呆な大人。関わったひとの思考を侵して阿呆にさせ、なかなか消えることがない。

 技術の先生は阿呆な大人だと感じていた。だから、どうだ。不器用兼悪い奴が肯定されて、不器用かもしれないけれど善良であろうとがんばっている私がなんやかや後づけの理由づけをされて否定されるようなことがあったら、意思の弱い私は善悪の指標を、それこそ方向感覚を失った酔っ払いみたいにたちまち見失ってしまって、酷い胸やけにけろけろと吐きたくなっていただろう。私としても苦渋の選択だった。それからは、朝の八時二十分に用務員さんが正門を閉じる、カラララ……という音を耳にする、或いは、窓際の席からその光景を直接目の当たりにするたびに、起きがけに食べた朝食の存在を食道の下の辺りに感じたものだった。

 しかし、私はいま、穴をくぐり抜けた。

 なんだかバツが悪くなって、土色の固い地面を踏みしめた。それからなにもない宙を蹴った。砂埃が私の足首をもやもやと見えづらくさせて、まるでそれぞれの砂に上から吊られていた糸が切れたかのように、完ペキな垂直方向に落ちた。いつもは何事に対してもすなおな物体たちが、いまは重力に服従していた。風が吹いていないからだ。

「ぼうっとしているところ悪いね。手を貸してくれよ。希望のサイズは僕よりも遥かに小さいみたいだ」

「当たり前だよ。だって六つも歳が離れてるんだもの」

「そうかな? たぶん、もっと離れてるよ」

 私はサッカーボール大の穴を手で押し広げたり、フェンスを引っ張って歪曲させたり、ニィの氷水に浸したように冷たい手を引いたりして、不法侵入をアシストした。もう吹っ切れた。こんな異常事態ではなにをやったっていいことにした。この町に司法の網はかかっていないのだ。学校に忍び込むぐらい、どんなもんだい。なんの問題もないと言い聞かせながら、ニィの体をよっこらせと引っ張り上げた。

 中学校を囲うぐるりのフェンスの網目から、揺れない木漏れ日が落ちた歩道橋が見えた。

「よっこらせ。ふぅ、ありがとう」

「どういたしまして」と私もふぅと息をついた。

「希望の手はあたたかいね。まるで復興の火が迸っているみたいだ」とニィが左手のひらを見下ろしながら言った。

「手があたたかいと、短命なんだって。お父さんによく脅されたの。まぁ、十四歳になったいまとなっては、そんなの迷信だってよく理解できているんだけれどね。それでも、小さい頃は本気で信じてた。だって子どもって、大人の言うことを神さまの宣告と同じぐらい絶対的なこととして捉えるでしょ? 私は私が短命だったってことを知ったとき、そこそこ絶望したんだよ。……いま思い返してみると、お父さん、大人げなっ」

「そりゃ、そうだよ。命の火は勢いよく燃えれば燃えるほど早くに消えるんだ。希望は死ぬのが怖いんだね」

「そうだよ。人間なんてみんなそう」と私はどこかの命に聞かせたいように呟いた。

「ふうん。それって素敵なことだね。次に生まれることを嫌がるくらい、いまの生が幸せだってことだろう?」

「確かに、素敵な人生を送れているからこそ感じられることでもあるのかもしれないけれど、それとは別に、早くに死ぬのは誰だってやだよ。みんな、細々とでもいいから長生きしたいって思ってるよ」

「人間って方向音痴だね。生きることが素敵なんじゃなくて、幸せなことが素敵なんだよ。死んだら幸せを感じられなくなることと、生きていても幸せじゃないことは同じさ」

「ぜんぜん違うよ。だって、死んだらそれきりだけど、生きていたら幸せになるチャンスなんていくらだって巡ってくる! 生きていてまったく幸せじゃない生き物なんてこの世にいないよ」と私は怒鳴った。いつか幸一くんが「死んだように生きたくない」と息絶えた獣のように暗い瞳で呟いていたことがあったのを、ふと思い出したのだ。

 私はニィがどんな顔をしているのか、一度下に向けた顔を一瞬、上げてうかがい見て、ひるんだ。ニィは夢見る病弱な乙女のように弱々しく笑んでいた。

 幸一くんが他の何人なんぴとも立ち入ることができないような絶海の孤島に突っ立って、目まぐるしく変わっていく世界の様相を世捨てびと然としながら眺めるときによくしていた、達観たっかん諦観ていかんの意思が綯い交ぜにされた瞳だった。その瞳もまた、皆既月食の月のように暗かった。

「孤独というのは、心に良くないね。どうも卑屈な気持ちにばかりさせられてしまう。そうだね。生きていれば、どんな生き物も幸せなんだ。僕は希望の言うことを信じたいよ」

 私はこくりと唾を飲んで、なにもものが言えなくなった。

 ニィは極端に私のことを慕い、信頼してくれているようだった。私は怒鳴ったことを後悔し、そして恥じた。憎しみの感情を籠めてはいなかったとは言え、誰かに対して大声を発するという行為は兎角ひととして恥ずかしい。私たちは獣じゃないのだ。威嚇じゃなくて、言葉を使ったらいい。

「……私、短命じゃないよ」

 すなおに謝ることができるほど、二年という歳月の間に綺麗じゃなくなっていた私は、勝手に気まずくした空気を和ませようと試みた。

 ニィがすなおに笑った。

「そうだね。早く元の世界で、元気に生きなくちゃ」

 私は奇妙な恥じらいを覚えて、一番手近どころの建造物だった体育館をごまかすように見上げた。二階の通路に面した窓には、どこも暗幕のように厚く重たげなカーテンが引かれていた。

 右から順にくまなく窓をチェックしていって、ふと違和感を覚えた箇所に黒目を向け直した。

 傘型の屋根の上に皮が破けたバレーボールがぽつんと転がっていた。ちょうど幼子の口からこぼれて落ちてあとは陽光に溶かされるのを待つだけの飴玉みたいな感じが取れた。……あんなところまで、よく飛ばせるな。きっとハイになった男子がやったんだろう。私はこれから先えいえんに地上に落ちることはないだろうその哀れなバレーボールに同情した。私がいま置かれている状況と屋根の上に置かれているバレーボールの境遇とを重ね合わせたら、目に涙が滲んできた。

 瞬時、強めに舌を噛んだ。無言でもだえた。想像の五倍ぐらい痛かった。ザリガニに舌先を挟まれたような感じだ。

 じわじわわっ、と、順調に涙が滲んできた。これは痛みの涙なのだ。決して、臆病からくる涙じゃない。こんなときに味方となってくれる誰かが側にいることの心強さは、どんな励ましの言葉にも代えがたかった。ただ、側にいてくれるだけで充分なのだ。

 私は目元を手の甲で擦って、体育館脇から校庭に進み出ようとしているニィの背中を追いかけた。私は私のことを応援してくれているひとのためにも頑張らなくちゃいけなかった。いま頃はお母さんも、私の青白くなっていく手のひらをさすりながら激励の言葉をかけてくれている最中かもしれない。

 そう考えてみると、体が、ぶるり、と武者震いを引き起こした。まるで医療ドラマのワンシーンだ、と、鼻で軽く笑ってみることなんてできなかった。どんなフィクションも、結局はノンフィクションの世界で生きるひとたちが生み出してきたものなのだ。現実にはどんなことだって起こりうる。

〝事実は小説よりも奇なり〟とはこういうときに使う言葉なのだと、私は人生で二度目の実感をした。腹違いの兄妹。ひとっこひとりいない町。

 やっぱりこんな状況は、わざわざ言うまでもないほど、まっこと、奇怪だった。言うけど。私だってちょっとぐらいは文句をつけたいのだ。いままでよくぞ発狂しないで済んでいると思う。これは自画自賛だ。そんじょそこらの十四歳には、おおよそ冷静には対処できなかった状況だろう。私も完ペキに対処できていたとはとても言いがたいけれど、それでも、冷静になれてはいた。ううん、いまのは確かに少し美化した……美化しすぎた言い方をした。真剣に向き合ったうえで冷静になれることと、他人事として捉えてむりに冷静になることとでは、カレイとヒラメぐらいの違いがあった。

 ようは、そんなに変わらない、ってことだ。私は舌先でややべっこう飴色っぽく浮いている唇の皮を右端から左にかけてなぞった。

 私は世界に対して他人事でいるそのことにいったいなんのおそれを抱いているというのだろう? 私は多くの大人に無駄とされるだろう町の地面をしっかりと踏みしめて歩いた。幽霊の視点は便利な代物だ。世界をくまなく、詳しく見ることができたし、それによってトラブルを回避することだってできた。じゃあ、なんで私の心の中の私は、こんなにも激しく警鐘を鳴らしているというのか。

 校舎に寄り添うようにして植わった一列の木々が三本、棒立ちしていた。凪の中で一枚の葉さえも動かせない木々は、まるで絵の具の茶と黒と緑で描いた絵のように見えた。或いは、静止画のようにも見えた。ようは、ちっとも現実の感じが取れなかった。じっと見つめていると、なぜだか三半規管がおかしくなりそうな具合になってきた。あんまりにも厳かに沈黙していたので、次第に骨に見えてきた。地表から飛び出した、そんなに重要じゃない部位の地球の骨だ。

 私は長年の付き合いでもある私の心の中の私の訴えを無視することなんてできずに、しばし、考えてみた。おそれが生まれた場所は、まず間違いなく、本来は争いたがりであるはずの世界にとって良いとされるものや悪いものたちをまるごとぜんぶたしなめたうえで入れ込むことができるような、うろみたいに暗かった幸一くんの瞳だろう。

 幸一くんが十八歳になった頃──つまり、幸一くんがひとの海に旅立った歳だ。あの前後の時期に、幸一くんはよくぼんやりとするようになった──から、私はそんな暗い瞳に胸がざわめくような心地や、強い不安、または既に心を裂くさびしさを覚えるようになっていった。

 長い年月を使って信頼関係を築いてきた二人の心と心を繋ぐ糸は、一緒に過ごした時間ぶん、強度を増し、輝きを帯び、余分なほつれはふるい落され、より洗練された〝兄妹の絆〟へと変容を遂げていった。だから妹は、たとえ兄がどんなに達者に本心をぶ厚い膜で覆い隠そうとしても、心の機微は問題なく察知することができた。虫の知らせ、とか、女の勘、とかいう言葉で言い表すよりは、こういう言い方をしたほうがよかった。これは、私の独りよがりな願望だ。たとえどろどろだったとしても〝兄妹の絆〟という言い方をすれば、私の心は幾分か救われるような感じがしたのだ。

 ようは、私はトラウマを覚えていたってことだろうか。人生の中で最もショックを受けた二つの出来事──一つ、知りたくなかった過去を明かされる。も一つは、大好きなひとがえいえんの別れを告げて旅に出る──その予兆であった様々な事物──暗い瞳。幽霊の視点。達観と諦観の言葉──つまりは他人事の姿勢に、強い拒否反応を示すようになった、のかな。そうだといい。私は世界に対して他人事でいるそのこと自体を否定しているわけではなかった。

 だって、とても上手くて利口な生き方だと思う。さっきも言った通り、幽霊の視点は便利だ。それに、世界に対してまともに向き合いさえしなければ、嫌なことにいちいち心を痛めたりしなくても済むようになる。なにも悪いことなんてないように思えた。

 ひとり、密かに、記憶と思考の海を漂っていた私は、ひどく事務的で無難な三角形をしたかいから伸びていた、なんの面白みもない灰色グレイに光る糸を手繰り寄せた。私の少し前方ではニィが歩いていた。私はスニーカーに刺繍された金色のニワトリマークを見下ろして、ほそっこい足を交互に差し出し、ついて歩いた。どちらが現実で、なにが夢で、どれが本体なのかがよく分からなくなってきた。瞬間的に色々なことを考えすぎて、頭が白熱電球の中みたいにぼうっとしてきたようだった。

 黄ばみ色褪せた校舎を見上げた。二階の、校庭側から見て右から三番目にあたる窓。私は奥歯を割れそうなほどに強い力で噛んだ。

 だって、なにも変わらない。

 ──偽善者。

 教室の通路にぶち撒かれた机の中身。

 ──愛人の子どもなんでしょ?

 彼らは醜い生き物だ。

 ──大切なことは、心についた目で見るんだ。

 心なんて覗いても、たかがしれてる。

 ──誰のためにやってるの?

 どうでもいいんだ!

 ──迷惑なんだ。

 もう、私ばかり傷つくなんてこりごりだ。

 幽霊の視点は冷え切っていた。私がこれからどうすべきなのかを、冷静に、無駄なく、たんたんと示してくれた。

 私は幸一くんに会いたいと思っていた。私が元の世界に帰る動機はそれぐらいしかなかった。いまはとにかく、その目的を見失わないようにすることだ──私の幽霊はそう示した。

 途端──私が見つけた解から伸びた糸が、バチっと痛い火花を散らした。

「うっ」

 酷い頭痛が、一瞬、した。

 少し前方で上下に揺れていたニィの背中が、なにか太い槍に貫かれたように見えた。

 私は少しの声も出せないぐらいに驚いて、ニィの両肩を引っ掴んだ。習慣的に鍛えられてある女性の肩のような感触がした。

「幸一くんっ!」と私はやっとの思いで口に出した。呼び間違いを訂正する時間も、余裕もなかった。

 私はニィのカラダをくるっと半回転させて、槍の穂先が覗いていた胴体のど真ん中辺りを凝視した。そこには、柘榴のような血が円形に滴り落ちて、元はぷりぷりの臓器が詰まっていたんだとなんとなくでしか口にさせられなくなるような、絶対的に空虚な穴が……

「あれ?」

「び、びっくりしたよ? どうしたの?」

「いや、背中からもの凄くぶっとい槍が……」

「うん?」とニィはいぶかしげに、脊椎が一個分あまっていそうなほど長い首をねじって背中を見やった。私も、うん? と思っていた。

 ニィの背中には傷一つついていなかった。どころか、大手の黒い羽織にはそれらしい汚れやシミの一つさえ浮かんでいなかった。

 私はニィの背中を指そうと上げかけていた右手の人差し指をそろそろと下ろした。

「……覗いたような気がしたんですけれども、気のせいだったみたいです」

 ニィの視線が胃に悪いようだった。

「…………」ニィはしばらく黙って、私を見つめていた。そして、羽織の襟をひっつめたり、袖を掴んで引いたりして、ちょっと意地悪なぐらいに何度も背中の状態を確認した。

「…………」私はその間、むっつりと黙り込んでいた。ニィが一心地ついたという風に、ぱたん、と音を立ててもものわきに手を下ろした。

「なにかついてる?」

「ご、ごめんなさい……」

 気のせいか、と思った。しょうがなさそうな笑みを浮かべて「べつにいいよ」と前に向き直ったニィが、霞んだ土色の砂埃をたてた。

 私はなぜだか、そんな特に変わった印象も見受けられなかった砂埃からしばらく目を離すことができなかった。どうしてかは分からない。砂埃に注目するなんておかしいことだ。私はちょっとばかし頭の調子がおかしくなってしまったようだと、分かったことはそれぐらいだった。

「なんだかぼうっとしっぱなしだけど、大丈夫?」

「うん。きっと、静かすぎるせいだね。せめてカラダの内側ぐらいは騒々しくさせようとして、色々と考え過ぎちゃうの。でも、もうなんでもない。集中する。私は私の目的のために集中しなきゃ」

 私は宣言通り、ニィと一緒に、散策できうる限りの学校中を散策した。

 一枚敷いた画用紙の上から日に焼けた砂をただ振りかけただけかのようにガランとした校庭にも、潮と木の香りがする体育館にも、さびしい埃が積もった倉庫にも、窓の外からなかなか乱雑な如しな有様である教員の机の上を覗くことができる、ほとんど草原くさはらな通称〝中庭〟にも、まっことがっくりしちゃうことながら、目的にたどり着く第一の道しるべである〝黒い拳の少なきもの〟は見当たらなかった。

「うーん。いっないなぁ。校舎内に入る出入り口にはどこも鍵がかかっているようだけど、どうしよう、窓でも割って入っちゃおうか?」と私は危ない提案をした。中庭もまた、写実主義の画家に描かれた絵のように現実の感じが取れなかった。じゃぶ池に生息していたメダカやアメンボはおろか、ミジンコの一匹さえもこの世界から姿を消していた。絵に表現された水の中には生き物の息遣いが感じ取れないようだと思っているのは年季の入った絶滅危惧種である私ぐらいのものなんだろうか。

「たぶん、建物の中にはいないと思うよ。音がしないから」ニィはカラダの一部分に神経を集中させているんだろうとはたから見ても分かるような、暗く曇った瞳をしていた。

「ほんとうに?」と私が訊くと、小さく頷かれた。音と表現したぐらいだから、聴覚に神経を集中させているのだろう。そう思って、私もじっと耳を澄ましてみたけれど、アマミノクロウサギのよりも幾分か劣った聴覚を保有している人間の私には、なにか怪しげな物音ひとつ聞き取ることができなかった。間をおいて、ニィのささやかな笑い声だけが聞こえた。

「違うよ。そっちの耳じゃなくて、心についた耳で聴くんだ」

「うーん。たぶんそっちのほうが聴こえないよ」

「そうかな? 希望には聴こえると思うよ。なにせ、僕の歌を聴きとったぐらいだから」

 私はうんうんと低く唸りながら、なにも言わなくても、諦めたんだ、と分かってもらえるように、無為むいに体育館のほうへと足を向けた。もの言わぬ影のようについてきたニィが私の肩を掴んで急停止した。

「ほら、音がするよ」

 私は注意されるがままに、息をひそめた。そして半ばうんざりしながら、それでも目を閉じて、ちょうど瞑想を試すような具合に一か所に神経を集中させた。まさに一心だ。なにか聴こえてきそうだという希望が見えたぐらいの頃合いに、ぽん、と、私の頭に魚の死体がのせられたような感触がした。

「違うよ。これは、こっちの耳で聞こえる音さ」

 ──ピチョッ、チャチャチャ……。

 体育館のほうから、微かに、水音が聞こえた。

 私は赤面した。ニィが笑みを深めるにつれて、ますます頬が赤くなっていくようだった。

 これはたぶん、体育館前にある水道から響いてくる音だ。夏になると、プールから上がった生徒たちが水遊びをしてふざける遊び場にもなった。なかなかにでかい水道場なのだ。

 私は先を歩いた。中庭を見回してみると、土がむき出しになった地面の上に濃い斑点模様ができていた。水の飛沫が散った跡だ。私たちは花壇に植えられた金木犀の茂みから顔の右半分を覗かせて、水道で水を流している何者かがいったい何者であるのかを確認しようとした。

 白く厳しい陽光を放っている太陽が体育館の屋根の端から人見知りの子供みたいにちらちらと見え隠れしていた。私はこくりと生唾を飲んだ。

 黒い拳の少なきもの。絶滅危惧種であることに違いはないのだろうけれど、それにしたって得てきた情報が少なすぎて、いったいなんの種であるのかまでは断定ができなかった。

 ──チャチャチャッ、チャピッ!

 砕け散る水音のリズムからして、何者かは少なからずなんらかの力を重力に沿って落ちる水に加えているらしいと分かった。それは手ではじいているのかもしれないし、或いは、口に運んでいるのかもしれない。まぁ、なにをしているのかなんてどうだっていい。なにかをしているなにかがいるということのほうが、この場合においては幾つも何倍も重要なのだ。

 心臓が激しく鼓動していた。

 陽光に妨害されながら、不細工に目を細めて……姿を、見た。

「あっ……!」

 私は私の声に驚いたように背筋を伸ばした。金木犀が静寂を縦に乱雑に裂いた。

 姿を現した絶滅危惧種の拳は黒くなかった。ううん、部分的には黒いのかもしれないけれど、全体的に見たら白、或いは、白銀だった。そして、まっこともふもふしていた。いま目の前で水浴びをしている絶滅危惧種は私たちが探していた絶滅危惧種ではないようだった。ようは、ハズレだ。だけど、まるで当たったみたいに興奮した。

「どうやら彼じゃないみたいだ。いったいどんな少なきものだろう?」とニィが私の耳元で囁くように言った。

 私は少し間をおいて答えた。

「ユキヒョウだよ」

 ニィのすなおな尊敬のまなざしが肩越しに伝わってきた。一目見ただけですぐに分かった。動物に詳しい私だからじゃない。見たら、よほどのうつけものじゃない限り誰だって分かっただろう。ユキヒョウは、半端なひとの姿を取っていた。

 ぶ厚い肉球が白銀の長い毛で覆われた拳に、黒い斑点模様がところどころ散った白髪。そこから覗いた白百合の花弁のような物体……あれは……たぶん耳、と、そしてなにより私の背丈ぐらいは優に越しているだろうかという長い尻尾。漁業で使う荒縄さながらに太かった。もしもユキヒョウらしい部位を隠して歩いている様を街中で見かけたら、私は「なんて精悍せいかんな姿だろう」と後ろ姿を四度、ううん、五度見はしただろう。

 地面についた尻尾の先がくねった。ユキヒョウが、こっちを振り返った。

 私は息をのんだ。背筋に電撃が走ったようだった。

 白い陽光に透かされて、瞳が褪せた黄土色に煌めいていた。白いまつ毛の上でミクロの水滴が踊っていた。それは奇妙で、少し恐ろしくもある美しさを秘めた瞳だった。なにせひとの顔にユキヒョウの目玉が埋め込まれているのだ。彫りの深い端正な顔立ちに浮かぶ鋭い眼光を偲ばせた神秘の目玉が二つ、ギラギラと異様な光を放っていた。二本の真っ直ぐな眼光がカラダを貫き、そのままがんじがらめに巻き取ってしまったように、私は身動き一つ取ることができなくなった。

 ユキヒョウは水道場のど真ん中に空いた排水口を塞ぐように胡坐あぐらをかいて、もったりとした首の捩じり方でこちらを振り返っていた。頭のてっぺんで水を弾いて、そこから跳ねた水を肩先でまた弾いている姿は、まるで高級なじゃの目傘みたいな感じが取れた。ユキヒョウが上を仰いだ。新雪のような肌を雪解け水さながらに透明な水が伝い、細く枝分かれした滝みたいに首筋を流れていった。

「あ、あの……」

 おそるおそる声をかけてみても、ユキヒョウはなんの反応もしてくれなかった。がんばって挙げてみるなら、一瞬だけ私を見てくれた、ような気がしたぐらいだろうか。それもじつにつまらなそうな目つきだったわけだけれど。

 ──チャッチャッ、チャッ……。

 警戒心はどこに置いてきたんだろうと不思議に思ったのと同時に、手の甲を舌で舐めだした。水滴に煌めく白い体毛が舐められた方向に沿って波のようにうねった。私はひゃっと顔を覆いたい衝動に駆られた。

 なんだか私が透明人間になって、不健全な光景をまじまじと見つめているような、そんなひととしてまっとうな罪の意識を感じたのだ。半端なひとの姿を取ったユキヒョウは人間の舌を使っていた。背丈が高くて精悍な体つきをした男のひとが舌を這わせては離し、這わせては離している様は、なんだかちょっぴり、ううん、だいぶ……

「い、いやらしい!」

「ねぇ、きみ、ちょっと尋ねたいことがあるんだけど、いいかな?」

 ユキヒョウは気の済むまで毛づくろいをしたいというご様子だったので、私たちは目と目を合わせてどうすべきかを確認し合い、無言の協議の結果、黙って待ってみることにした。無言の圧力とはこういうことを言うのかと思い知らされた。明らかに不機嫌そうな顔で、見るからに時間だけを伸ばしたいようにいつまで経っても手の甲をべろべろべろと舐め続けていた。

 生命の危機にさらされているいまに限っては小姑こじゅうとみたいなとてつもないせっかちと化していた私は、土踏まずから先で地面を叩き続けるという行為をどうしてもやめることができなかった。

 日が暮れるんじゃないの、と文句を垂らした私をニィがたしなめた。いっそう苛々した。たしなめられたことはいいのだ。だって、本来は尋ねる側がへりくだるべきなんであって、高圧的に文句を垂らしていいわけはない。ニィの指摘は至極まっとうで正しいものだ。

 私が神経を棘つかせたのは、ユキヒョウの愉しげな目つきにだった。私がいていることを知ったうえで、長ったらしく毛づくろいをしている──そう感づかせて苛つかせるための、いやらしくもわざとらしい目つきに私はまんまと苛ついた。

 出口を失ってどんどんと貯まっていっていた水が水道場のへりからついぞ溢れ出そうかというそのとき、私はしびれを切らして訊いた。

「ねぇ! 黒い拳の少なきものに会ってない?」

「…………」

「大事な用があるの。会うのは早ければ早いほどいいんだけれど、どこにいるか知ってたりしない?」

「………」ユキヒョウはたくましい足裏を水道場に着け、みょいーんっと全身の筋肉を引き伸ばしながら立ち上がった。ネコ科の生き物って、なんでこんなにも伸びるんだろうか。情けなく目尻が下がった目をこちらに向けた。たぶん、めんどうがっているのだ。

「答えてくれないの?」と私はなるたけ優しい口調になるようにつとめて訊いた。

「訊かれたことに答えるか否かは、俺の気分による」

「それで、いまは気分が乗ったから答えてくれたというわけだね」

 ニィがひとによっては揚げ足取りとも取れる発言をした。私はちょっとひやりとした。

 彫刻のような黒い爪が陽光をぬらりと照り返していた。再び日向の許に姿をさらすことを許された排水口が、蛇口場に貯まった水を音も無く吸いこんでいった。水位がみるみるうちに下がった。

「なんの用なんだ? 会いに行くだけ無駄だと思うぞ」とユキヒョウが言った。

「居場所を知ってるの?」

 ユキヒョウがぶるぶると頭を振った。大粒の水滴が散って、地面にたくさんの斑点模様を作った。水を払いたかっただけなのか、否定をしたのか、そのどちらともつけられず妙な風に顔をしかめた私を馬鹿にするように、ユキヒョウはまた同じことを訊いた。

「なんの用なんだ? 教えたら、居場所だって教えてやる」

「正直に言ってもいいみたいだよ。彼から悪い音は聴こえてこない」と押し黙った私の背中を優しく叩くようにニィが言った。

「私、じつは人間なの」と私は正直に打ち明けた。

「なに? じゃあ、あいつの言っていたことは本当だったのか。長らくこの町にいすぎて、面妖めんようなことを吹聴ふいちょうしていないと頭がたまらなくなるのかと思っていたが、へえ、そうなのか。これは驚いた」とユキヒョウはよく分からないことを言って、水道場から出た。スカイブルーと灰色がグラデーションになったチュバのような衣服の長い裾から、水滴がぽたぽたりと滴り落ちた。

「二人か?」とユキヒョウが黒い爪を交互に向けて訊いた。ニィのことを言っているのだ。

「僕は鯨だよ。縁あって、希望に協力しているんだ」

「鯨は何を考えてるのか分からん。大雪の前に降る雪のようにふわふわしていると思ったら、ある時は渓谷のように底が深く、鋭い爪のように容易に物事を捕らえる。鯨は何を考えているんだ?」

「べつに。強いて言うなら、いつになったらきみが居場所を教えてくれるんだろうってことぐらいかな」

「フン。そんなに気になるなら教えてやる。あいつは今〝はくぶつかん〟にいて、お前のことを待ち構えているさ」とユキヒョウが黒い爪の先で私を指した。

「待ち構えている? 私を?」

「ああ。あいつはこの町に留まりながらずっと人間を待ち続けていたんだ。自分の使命を果たすためらしいが、まあ、なんのことなのかは詳しくは知らん」

「待ってよ。いま、この町に留まりながら、って言った? だったらおかしいんじゃない? 少なきものの町は〝朝陽が四度弧を描いて、月が三度弧をなぞるまで〟なんでしょ? なくなった町に留まることなんてできないはずだよ」

「物事にはなんだって例外というものがあるんだ。少なくとも、お前たちが探しているそいつはその例外ということだ」

「そんな……。例外はなにか特別なことが起こらない限りは生じないものなの。いったいどんな理由があって、黒い拳の少なきものは人間を探しているの? 例外が生じた訳となにか関係があるの?」

「大いにある。だが、答える気分じゃない。なぜならばめんどうだからな。

 さて。俺は〝復興の火を探し求めている人間を見つけたらただちにオレの許に連れてこい〟と言われている。そして、お前ら一人と一匹は〝黒い拳の少なきものに会いに行きたい〟ここで今、互いの目的地は〝はくぶつかん〟に決定した。分かりやすくていい。それにしたって、太陽がこんなにも出ている内から活動しなきゃいけないなんてなんてめんどうなんだろう。今は水浴びをしてから穴の中に潜みたい気分なのになあ!」と威圧感なく吠えたユキヒョウは器用にくねらせた長い尻尾の先を口元まで持っていき、かぷりと咥えた。立派な犬歯が滑らかな白い光を帯びていた。

 凄みのある目つきでのしのしと前進してきた半人半獣にまんまとびびった私は、慌てたように間違いを訂正した。

「ま、待ってよ。私たちはともかく、ユキヒョウの目的地は博物館にはなっていないよ。ユキヒョウはユキヒョウらしく気分に忠実になってそこらの穴……手近なところで言ったら中学校の裏手にある公園の遊具とかに潜んでいたらいいんだよ」

「なに?」とユキヒョウが氷塊に走った亀裂のような黒目を、一瞬、校舎の裏手のほうに向けた。なんだか愛らしくてにやけちゃいそうになったけれど、頭を振ってよこしまな思いを振り払った。いまいち状況がよく掴めていなかったけれど、ピンチっぽいってことは肌で感じていたし、へらへらしてたらダメそうだった。

「だって、私、復興の火なんて求めていないもの。私が求めているのは、復興、というより復活だよ」

 ユキヒョウが尻尾を咥えたまま、訝しげに眉をひそめた。

「希望は元の世界に帰る方法を探しているんだ。単純に言うと、生き返る方法だね。だから復興の火を灯しに行って種の復興を祈ろうとか、そういうのはないんだ」とニィが身振り手振りつきで説明した。

 私とニィと、ニィとユキヒョウとの間にはずいぶんと背丈の違いがあった。各二十センチ前後ぐらいの差だろうか。マッコウクジラの口ぐらいに大きくて奥行きが暗くなっている袖口をはためかせて、上手く伝わるように言葉を選んでいるニィの姿はなんだかとても子どもっぽいように見えた。

 しばしニィを見下ろしていたユキヒョウが、急に合点がいったように尻尾を離した。愛玩的な動きを見せる尻尾の先がユキヒョウの耳元辺りをうろうろと浮いた。

「なるほど、そうか。つまり俺はお前たちを連れて行かなくてもいいということだな。なぜならばめんどうだから……ではなく、俺が連れて来いと言われたのはあくまで復興の火を探し求めている人間なのであって、復活の方法を探し求めている人間ではないのだからな」

「そういうことになるね」

「めんどうごとが減ってよかった」とユキヒョウが言った。

「僕もよかったと思うよ。きみが加わったあとで冒険に出るというのは、なんだかいやなようだったから」

「場が上手く収まったあとでなにを煽ることがあるの……!」

「フン。いいさ。俺もお前たちに興味はない」

 しっしっ、ともふもふの手首を素早く稼働させたユキヒョウの意識は、もうすでに中学校の裏手にある公園の遊具に向いているようだった。私たちは曖昧に礼を言って、その場を立ち去ろうとした。

 しかし、なにかが引っ掛かった。体に電気信号の命令を下す脳みその部位に違和感という些細な棘が刺さっているような感じだった。いまは放っておいても大丈夫だけれど、時間が経つにつれて、その内じくじくと膿んでくるのだ。

 私は振り返って、ユキヒョウの凛とした姿に問うた。

「ねぇ、どうしてそんな半端なひとの姿を取っているの?」

「少なきものは、復興の火を灯すにつれて徐々に元の姿に戻っていく。人の姿のまま生まれにいくなんてご免だろう」

「ふうん……」

 私は消化不良といった様子で、鼻から抜けたような声を漏らした。そして、違和感の正体にピンときた。

 アカウミガメだ。

 私たちに復興の火を灯してくれた直後に浮かんできていた赤茶色の菱形模様。あれはアカウミガメの顔周りやヒレによく見られる文様だった。アカウミガメの女の子は復興の火を灯しに行って、元の姿を取り戻すつもりだったのだ。

 段々とこの町のことが分かってきた。この町にいる絶滅危惧種たちはみんな元の姿を取り戻すために復興の火を灯しに行くのだ。そう思うと、なんだかこの町がとても神聖で必要な儀式の場であるような気がしてきた。絶滅危惧種の魂はひとの姿を取り、復興を祈ることで元の姿を取り戻していく。

 私はユキヒョウの腕の膨らみを見つめた。肘の下あたりから膨らんでいたから、きっとそこまでは獣の腕を取り戻せているのだろう。いったいどれだけの復興の火を灯しに行けばそこの形態までたどり着けるのか、私にはまるで見当もつかなかった。

 私の視線をうっとうしがったように、ユキヒョウがかぎ爪型にした手のひらを私の眼前にかざした。種の歴史が垣間見えるような、素晴らしくとも逞しい獣の手だった。不思議と恐怖は感じなかった。側にいるニィがなにも動じていなかったせいでもあったけれど、なにより私自身がユキヒョウのことを信頼していた。どうしてかと訊かれれば……ユキヒョウから悪い音が聴こえなかったから、だと思う。たぶん。

「フン。いい気なものだな。多きものの人間は復興の火を灯す必要なんてないということか」

「私は、少なきものだよ」と、よせばいいのに、私はなぜだか少しムッとして言った。

「何を言っている? お前は人間なんだろう?」

「人間の中でも少ないほうの人間なの。ちょうど、クロヒョウやユキヒョウのような亜種みたいに、私は人間から派生したまったく別の生き物なんだよ。そうに違いないよ。だからこんなにも生きづらいんだよ」言いながら、私は意地悪なハイエナのクラスメートたちの顔を思い浮かべていた。あいつらが人間だ。私は人間からずる賢さと協調性を取っ払った先で派生した、見た目は人間となんら変わりない、だから余計に生きづらくなった、惨めで哀れな、欠陥だらけの生き物なのだ。

「何を言っているのかよく分からんな。兎にも角にもお前は人間だ。神から授かった知恵だけでここまでの多きものになった、欲の深い人間だ。さては、俺をごまかして復興の火を灯しに行くつもりじゃあるまいな? 人間の欲には底が無い。たとえ既に多きものであっても、これから更により多くをなそうと考えている可能性は十二分にあり得る」

「そんなこと……」

「人間は嘘をつく。だいたいにして、いったいどんな手を使ってこの町に来たというんだ? 人間はいつだって、世界の成り立ちを破壊しようとする。ここは少なきものの最後の安寧あんねいの地なんだぞ」

 私はなにも反論することができなかった。それはユキヒョウの言ったことが往々にして正しかったからでもあったし、ユキヒョウの姿勢があんまりに切実だったからでもあった。どうか邪魔しないでくれ、という想いが、私の胸に重く低く伝わってきた。

 改めて理解した。私は人間で、この町では悪者なのだ。

 いったいどうして私はこんなにもどこへ行ったって嫌がられてしまうのか。私に責任はないように思えた。ただ、辺鄙へんぴな港町に生まれて、それなりに健康に育ってきただけのありがちな十四歳の少女だった。そんな私がどうして全世界の人間ぶんの罪を咎められなくちゃいけないのか。こんなのは、あんまりにも酷い話だ。

 なんなら私は、クラスで一人だけ「いただきます」をしっかと手を合わせて言うし(そのせいで浮いた)、幾人かのクラスメートが楽しげに観ていた、蜂を生きたまま焼くだのネズミを蛇の餌にするだののシニカルに残酷な場面を切り取った動画に心を痛めて、撮影者の紙っぺらのような笑みを想像してからすぐに虫唾を走らせた。私は善良であろうとがんばった。

 そんな私がどうして、階段ですっ転んで頭を打って絶滅危惧種の町に迷い込みユキヒョウに爪を突きつけられるという危機的状況に立たされなければいけないのか。それを説明できるひとはいないような気がした。そう。誰もなにも分からないのだ。テキトーしか言えないのに、それがまるで絶対に正しいことのように振る舞うのだ。

 意地悪なクラスメートたちは、きっと「あんたがバカだから」と言うだろう。偽善者だから、と言うかもしれないし、いかにもって感じだから、と言うかもしれない。まるで絶対に正しいことのように言うんだろう。

 意地悪なクラスメートたちは私の訃報ふほうを、退屈な港町で起きた刺激的な出来事として飴玉みたいに消費するんだろう。初めはコロコロと思う存分味わいながら舌の上で転がして、飽きたら嚙み砕いて飲み込んで、後にはなにも残らなくなる。私の死なんて、その程度のものなのだ。

 むちゃくちゃに腹が立ってきた。クラスメートたちは意地悪で邪悪な心のままに、それでも人生を続けていく。悲しいことや苦しいことだってそりゃああるだろうけれど、生きているんだ。それと同じぐらい当たり前に、楽しいことだって起こりうる。ひとは死んだらおしまいだ。私は人生の大半を無駄にしたまま、おしまいになる。そんなのはご免だった。

 私は絶対に復活したい。それで、もう、善良であろうとすることはやめにしよう。

 善良であろうとしてよかったことなんて一つもなかった。半端な私には端から無理なことだったのだ。半端なひとがなにかを追求して豊かになったことなんていままでに一度としてなかったんじゃないだろうか? ひとにはそれぞれに才能があって、辞書には適材適所という言葉がある。優しいことは、真性に優しい幸一くんのようなひとに任せといたらいい。私は向いていなかったし、ちょっと、早めに幽霊になり過ぎたのだ。

「私は嘘をつかないよ。少なくとも、いまは。私だって、すきでこの町に来たわけじゃない。だから、どんな手を使ったのかって訊かれても……あぁ、歌が聴こえてきたよ。それで、私はその歌に糸のようなものを視たの」

「糸?」

「うん」と私は頷いた。

「束になったり、たまにほつれたりする透明な糸。よく思い返してみると、水飴に似ていたかもしれない。よくくねったり、たわんだりしていたから。ぼうっとしながら見つめていたら、次第に私の心の琴線がくすぐったい心地で震えてきた。あんまりにくすぐったくてたまらなくなって、私は好奇心で、糸の周波数と琴線の周波数とを合わせてみたの。そうしたら、意識が針よりも小さい点に収縮して、瞬間、まるで宇宙が誕生するときみたいに膨張した。それで、気づいたらこの町にいた。そうだった。思い出した」

 私はこめかみに指をあてて、も一つなにかを思い出そうとした。うんうんと唸ろうとしたところで、ニィが歌うように言った。私は唸るのをやめて、思い出すことも諦めた。唸るとなにかを思い出しやすくなるのだ。これもまた、低い唸り声が脳みそを震わすことによってもたらす作用なのかもしれない。

 震え。

 震えだ。

 周波数。

 鯨の歌。

 52Hz……?

 幸一くんと瓜二つなニィの顔が、私のすぐ真横にあった。

「希望が聴き取ったのは、僕の歌だよ」

「こいつは鯨の歌に引き寄せられて、少なきものの町に来たのか?」

「そうなるね」

「ふうん……」

 ユキヒョウは日陰の中だと澄んだ灰色に見える瞳を丸くして、じろじろと私の姿を見回した。そして、もう一度「ふうん」と猫の鼻から抜けたような声を出して、ひょいと私の手を取った。

 もふもふだった。

 ユキヒョウは口元をぴくっと動かした。笑んだのかもしれなかった。

「あたたかい手をしているな」

 存外優しい声色で、私は不意に驚いた。

「希望は短命なんだって」とニィが無邪気に笑みながら言った。

「それはそうだろう。こんな子どものくせに、もうこの町に来たんだからな。まあ、復活すれば別の話だが」とユキヒョウが言った。立派な犬歯が根元から覗いた。

「きょ、協力してくれるの?」

「俺は俺が喋りたいように喋って、やりたいようにやるだけだ」とユキヒョウは私の手を離した。すっかり脱力していた私の手は垂直に落ち、それから垂直に上がった。私は胸の前で小さくガッツポーズをした。

「お前が復活するための方法は、黒い拳の少なきものが人間を探している理由と、この町に留まれている訳に大いに関係がある」とユキヒョウが太い人差し指と中指を順番に立てて言った。私は頷いたけれど、内心は不思議な気持ちでいた。どうして急に協力する気になったんだろうか。

 尋ねてみたかったけれど、口をつぐんでおいた。ネコ科は気まぐれだ。へんに尋ねたら、また「気分が乗らないから」とか言って、さっさと遊具の方へ向かっていってしまうかもしれない。

 私は大人しく、二本の太い指を見つめた。左腕は〝もどり〟が不完全であるようだった。手はまるで大仰な舞台ではめられる精巧な手袋のような感じが取れた。まさに獣の皮をかぶった人間の手のようだ。トムとジェリーのトムみたいに、毛色と爪は完全に獣のものであるそれを人間味迸る動きで器用に操っていた。

「この町は少なきものが復興を祈るための場だ。そんな当たり前のことはみな知っている。復興の火を灯して、元の姿を取り戻し、また生まれに行く。それが摂理というものだ。

 しかしだ。その摂理に逆らったものがいる。その少なきものは復興の火を灯さず、人間の姿のままで期間を終えた。そうして、この町に留まることになった」

「それが、黒い拳の少なきもの?」

「そうだ。お前たちが探している黒い拳の少なきものは二回目だ」

「どうして留まったの? せっかく復興のためのチャンスを得たのに」

「はやる気持ちは分かるが、まあ、待て。その訳には、前に少なきものの町に来た人間が深く関わってくる」とユキヒョウは中指を折って言った。私は心底驚いた。この町に訪れた人間は、私が初めてじゃなかったのだ。

「前にこの町に来た人間は、結果として、元の世界に帰ったらしい。それで黒い拳の少なきものは、次に来た人間こそはこの町に幽閉してしまおうと躍起になっているわけだ」

「か、帰れたのっ?」

「そう聞いた。俺がこの思念体で少なきものの町に来たのは一回目だ。そして、黒い拳の少なきものともう一匹の少なきものを除いてはみなそうだろう」とユキヒョウは人差し指を中ほどから折って、居眠りを恐れる見張り番みたいな動きでまたピンと立てた。そして左右合わせて四センチぐらいの振り幅で振った。「黒い拳の少なきものに、前に来た人間のことと、その人間が元の世界に帰った方法を訊きに行くというのは勧めん。なにせ危険すぎる。〝うつろ〟にされて、えいえんにこの町に幽閉されることになるだろう」

 私は黙って頷いた。もう一度言うけれど、ネコ科は気まぐれなのだ。というかそもそもの常識として、ひとの話は最後まで聞いたほうがよろしい。そうして、その後で、思いきり質問をぶっつけたらいいのだ。話を聞いて訊くという行為は、確固たる形式で行う試合みたいなものだ。ひとの話、というか、この場合においてはユキヒョウの話だけれど。それはまぁあまり関係ない。気持ちよく誰かと対話するための方法をいまは考えていただけなわけだから。

 ニィは私の横で置き物みたいにじっとしていた。あえて息を殺しているのかと思えるほど、微かな息遣いの気配すらも感じ取れなかった。そういえば、中庭に隣接する校舎の際の影が先ほどと比べるとその領域を広げているように見えた。もう太陽は私たちの真上に滞在する時間を終えたのかもしれなかった。

「前に来た人間とお前との間には共通点がある。俺が知っているのは、黒い拳の少なきものから聞いた一つだけだが、もしかしたらほかにもあるのかも知らん。まぁ、とにかく、その一つというのは」

「というのは?」と私は小声でオウム返しをした。

「鯨の歌だ。お前も前に来た人間も、鯨の歌に引き寄せられたらしい。この町には二回目の鯨がいる。その鯨に訊けば、復活する方法も分かるんじゃないか?」そう言って、ユキヒョウは指に加えていた力を弛緩させた。

 私は咄嗟に、ニィを横目で見やった。

 ニィの目元は影になっていて、どこに視線が向いているのかを窺うことができなかった。ニィは私の視線に気づいたように、静かに首を振った。

「残念だけど、僕じゃない。僕もこの町に来たのは今回が初めてだ」

「ほんとうに?」

「一口に鯨といっても、いろんな種がいるだろう? 前に来た人間は、僕じゃない別の鯨の歌に引き寄せられたんじゃないかな。ねぇ、きみ。この町に二回目の鯨がいるというのは、それは確かなことなんだね?」

「ああ。黒い拳の少なきものが嘘を言っていなければな」

「僕らは嘘をつけないよ。嘘をつくのは人間だけだ」

「そっかぁ……」

 私は分かりやすく落胆した。ハッとして、ユキヒョウに礼を言った。

「〝じんじゃ〟の近くの海辺に鯨の群れがいるらしいと聞いたぞ」

「重ね重ねありがとう。ねぇ、こっちも重ね重ね言うようだけど、私は人間なの。なんだか仲間であるような黒い拳の少なきものを裏切るようなことをしてまで、どうして協力してくれるの?」

「気になるのか?」

「だから訊いてるの」

「気分だからだ」とユキヒョウは答えた。

 気分かぁ、と思った。そして、動物はいいなぁ、とも思った。

 私たち人間はいつだって理由を持ち合わせていないと落ち着けない、せかせかと動きっぱなしで自他共に認められる、哀れな疲弊ひへいの生き物だ。それは、そうしておかないと周囲からすぐにマウントを取られて悔しい思いをさせられてしまうからでもあったし、そのひと自身が常に明るい灯台の火を見つけられていないと人生の航路を決めるときに失敗してしまうかもしれないという恐れを抱いているせいでもあった。なんとなく、は、だらしない奴が使う言葉。そういう風に、現代社会の辞書には載っていた。

 でも、と私の心の中の私は首を傾げた。何事もぴっちりきっちりと新社会人のスーツみたいに決められて動いていく世界は、果たして嫌だ。

 私は、なんとなく、がすきで、多用した。小説も映画も、父はなにやら専門的な技巧とか俳優のセリフのだとか、そういう明快な理由の目で観ていたけれど、私はそうじゃなかった。なんとなく綺麗で、なんとなく悲しくて、なんとなくすきだった。それをたまにバカにされたりしたこともあったけれど、私はそのたびに、どうだかな、って思っていた。ぴっちりきっちり何事も、なんて、そんなのは機械に任せておいたらいいことなんじゃないのかな? 

 ひとの心は、雲だ。それはそれはとても簡単に移り変わった。雨が降ってほしいときに晴れたり、と思ったらどうしても晴れてほしいときに限ってお天気雨が降ったりする。天気の動向にいちいちキレているひとはあんまりいないように思う。思い通りにならないことに真面目に怒ったってしょうがないからだ。

 しょうがない。みんな、そういう心構えでひとと向き合ったらいい。あの子はいつも一人でいる。あの子は私の思うように動いてくれない。あの子はちょっとばかし頭がおかしいようだ。でも、しょうがない。それがあの子のカタチなんだ。いずれは簡単に移り変わるのかもしれないし、そのときどきに真面目に怒ったって疲れるだけだ。疲れるだけ。

 過度に期待しなければ、過度に失望もしないでよくなる。幽霊の視点を得た私は、ひとに期待しないほうがいいという便利な教訓をも得た。皮肉なのは、私にその教訓を与えてくれたのが、ひとに期待していた私だったということだ。

 私はユキヒョウのような生き方を羨ましく思った。嫌味なく気分のままに動けるのは、誰しもにそれを許しているからだろう。後腐れが無さそうで、軽やかな生き方だ。

「黒い拳の少なきものに会ったら〝うつろ〟にされるって言っていたよね? あれはいったいどういう意味なの?」と私はも一つ気になっていたことを訊いた。

「そのままの意味だ」

「質問の仕方が悪かったかも。〝うつろ〟ってなに?」

「復興の火を奪われた少なきものの成れ果てを総じてそう呼ぶんだ。ようは、空っぽになるということだな。〝うつろ〟は自我を失ったまま、えいえんにこの町をさまようんだ」

「アカウミガメは?」と、私は一緒に買い物から帰ってきたお母さんに鍵の有無を尋ねるみたいに訊いた。イエスと頷かれればそれでよし、ノーと首を振られれば、なんだぁ、と内心思いながらポケットからごそごそと鍵を探り当てなくちゃならなくなる。しかし、今回は鍵を探り当てるぐらいの労力では果たして済まないような予感がした。

「さっきトンネルの手前で会ったアカウミガメの女の子が博物館に向かっているの。黒い拳の少なきものは、博物館で人間を待ち構えているんでしょう?」

「そうだ」とユキヒョウは頷いた。

「だったら〝うつろ〟にされんとされているのは、あくまで人間だけってことなんだよね? 黒い拳の少なきものは、なにも無差別に、復興の火を奪い取ろうとしているわけじゃないよね?」

「いや」とユキヒョウは首を横に振った。私は、なんだぁ、と内心思いながら、オーバーオールのポケットに片手を突っ込んで固まっていた。

「黒い拳の少なきものは〝はくぶつかん〟にある巨大な復興の火の許に寄ってくる少なきものたちの復興の火を無差別に奪い取っている。だからそのアカウミガメの女の子とやらも〝うつろ〟にされてしまうだろうな」

「そんな! どうしてそんなことを?」

「訳もやり方も知らん。ただ、そうしているということを知っているだけだ」

「町の様子がどうにもおかしいのはそのせいなんだね? あちこちから悪い音がするんだ。とても魂の安らがないような、荒くて鋭利な音が僕の内に侵入してくる。あれは、うつろから発せられていた音だったんだね」

「鯨にはなんでもお見通しか」とユキヒョウが口元をぴくっと動かした。

「お見通し、というより、お聞き通しだよ」とニィが口元をへの字型にした。

「ユキヒョウは、それを知ったうえで協力してたの?」

「協力? それは支えるということと同じ意味か? だったら違うな。まったく違う。俺は次に生まれる俺のため、しっかと復興の火を灯していきたいんだ。その祈りが危ぶまれそうになったから、黒い拳の少なきものに従った。ただそれだけのことだ」

「自分と、自分の大切な誰か以外はどうなったっていいっていうの?」と、私は言葉尻から滲む怒りに私自身でも動揺しながら訊いた。

「そうだが?」と、ユキヒョウは目をまん丸くして聞き返した。

「お前は違うというのか? お前は、お前と、お前が大切に思う誰か以外も救いたいのか?」

 私はぐっと詰まったけれど、躊躇ためらう言葉をそれでも外に吐き出した。飲み込んだら消化不良を起こして、しばらくは気分が悪くなりそうに思えたからだ。

「自分と自分の大切なひと以外はどうなったっていいというのは、とても汚らしい考え方だよ」

 私の脳裏には、教室の通路にぶち撒かれていた机の中身と、そのそれぞれに呼応するように蘇った和紙に滲む動脈血のような怒りのシルエット、夜の闇の中でブルーベリー色に光るワインボトルと、お母さんの間延びした声色がぬるいお酒のように揺蕩っていた暗い居間……それらのことが浮かんでいた。そして、埋もれたようにちらちらと覗く、霞んだ土色の砂埃と、底知れぬぐらいに深かった幸一くんの瞳のことだって。

 私の中の幽霊が、淡々と警鐘を鳴らしていた。

「私は、私の見知らぬひとの命と引き換えに生まれたの。私のお母さんは愛人で、私は愛人の子ども。私のお父さんは不倫していて、妻と息子の気持ちを引き換えにして、私のお母さんとの愛を育むことを選んだ。私は十二歳の誕生日まではなにも知らない子どもとして幸せな日々を送れていたけれど、ある日、ないがしろにされてきた幸一くんが私に罪悪の呪いをかけて出て行った。

 そして、いま、私の肉体から抜け出た私の魂がこの町にいる。いま頃私のお母さんとお父さんは震えて怯えて泣きでもしているんじゃないのかな。結局、やったことはぜんぶ返ってくるんだよ。それも、良いとされることよりも、悪いことのほうが遥かに高い確率で、きっと」

「よく分からんな。つまり、お前の父はほかの雌と子を為していたということか?」

 私はちょっと面食らった。そして、頷いた。

「それのいったいどこが汚らしいんだ? 子孫を多く残せるのは清いことだ」

「それは、とても動物的な考え方だよ」

「人間は動物じゃないのか」

「うん。私たちは獣じゃない。そうできる能力があるのなら、愛は繊細に扱うべきだよ」

「贅沢だな」

「そうかもしれない。でも、私たちは傷ついた」と私は幸一くんの寂しげな笑みを思い浮かべながら言った。

「在ることは、なにかを欠くことで、為すことは、なにかを失くすことだな」とユキヒョウが、ぽつり、呟いた。

「だったらどうするつもりなんだ。アカウミガメの女の子とやらを救いに行くのか? だが、お前にそうできる能力があるとは到底思えない。そして、お前自身もそう感じているんじゃないのか?

 あるのならするべき、ということは、ないのならしなくてもいい、ということでもあるだろう。お前はそれでも〝はくぶつかん〟に向かうのか?〝うつろ〟にされたら、もう二度とどこへも行けなくなる。そして、さすがに知っているとは思うが、少なきものの町の期間は〝朝陽が四度弧を描いて、月が三度弧をなぞるまで〟だ。その期限を過ぎたら、お前の魂はこの町に留まることになる。復活の機会がまた巡ってくるかどうかは分からない。それでも行くのか?」

 私の熱くなっていた頭が、すぅぅ、と冷えていくようだった。なんて恐ろしい話だろう。そしてもっと恐ろしいのは、その話が私のそう遠くない未来になり得るという事実だった。

 ないのなら、しなくてもいい。その言葉を聞いたとき、私は見て見ぬフリのクラスメートたちのことを思い浮かべた。

 申し訳なさそうに下がる眉。たまに向ける視線。居心地悪そうに蠢く背中。誰に向けてか、ほんとうに誰に向けてか、罪悪感はありますよ、と誰にも咎められないように示していた。本来はここで大人というそれなりに力のある生き物がなにかしらしなくちゃいけないんだけれど、ぜんぜん、ダメ。大人は頼りにならない。そして、大人に頼れない子どもたちはなにをしてもそんなには悪くない感じなのだ。

 幽霊の私は、私に淡々と言い聞かせた。

 ──さっき気づいたばかりでしょう。善良であろうとしてよかったことなんて、一つもありませんでした。他人事であれば、それなりにいいこともあるでしょう。あなたは半端なんだから、大人しく身を引いてなさい。幽霊の私はあなたの身を案じていて、なにより、幸せになってほしいのです。


  一つ 偽善をわらうこと

  一つ 他人事を右の隣人の左の隣人のように愛すこと

  一つ 無いことにゃ袖は振れません

  

  幽霊になるための三ヶ条 冷え切るための三つの氷

  幸せになるための三ヶ条 さすれば涙も凍るでしょ

  泣かなきゃ悲しくもならないよ


 半端なあなたがすぐに忘れてしまわぬように、歌にしました。あなたは歌がすきだから。あなたは歌に敏感だから。幽霊の私は、あなたを誰より知っていて、幸せになってほしいと祈ってるのです。さぁ、さぁ、親切なカメのことはほっといて、キィの鯨を探しに行きましょう……。

「希望」

 幸一くんの声がした。ハッとして振り返ると、ニィがしゃんとした姿勢で佇んでいた。

「どうするつもりでいるんだい?」

 ほんとうに、幸一くんの声とまるきり同じだった。そうして、私が、分からない、という風に首を振ると、しょうがなさそうに笑んで舵取りを代わってくれるのだ。ううん、それは幸一くん。いま私の目の前にいるのはニィだった。

 もしも私が、分からない、という風に首を振れば、そうなんだ、と一緒に停滞するだろう。いまこの町で舵を取らなければいけないのはあくまで私だけなのだ。私が舵を取った方向に文句も肯定も言わずに付き添ってくる。私の決断に自らの命運をも委ねて、私の責任に重たくもたれかかってくる。

「アカウミガメは誇りなきものだ。そのことを既に黒い拳の少なきものは知っている。間違いを訂正したくなる性分のアカウミガメのことだから、きっと大人しく人間について悪く言われっぱなしということはあってほしくともないだろう。そうしたら十中八九、問答無用で、アカウミガメはうつろにされてしまうだろう」

 私は黙っていた。

 ニィもそれきり黙った。

 私は瞼を慎重に下ろして、考えた。脳裏には、教室の通路にぶち撒かれた机の中身や、怒りのシルエット、ブルーベリー色に光るワインボトルと母の言葉の揺蕩う夜の空気のことなどが変わらずに浮かんでいた。そうして、霞んだ土色の砂埃や、幸一くんの底知れぬぐらいに深い瞳のことも。

 だけど、幽霊の私が凍らせた。砕いて、砕いて、掃いて捨てた。その様子があんまりにけなげで必死だったものだから、私は幽霊の私の言う通りに動いてやろうかなと考えた。幽霊の私は私よりもよっぽど色んなことを知っていて、より深く細かい注意の目を物事に向けることができた。だって、それは一番進化した私だから。一番最近に生まれて、元の私を幸せにしてやろうと躍起やっきになっている、不幸の産物の私だったから。

「希望」

 汚らしくなることはいとわない、という意思に輪郭を持たせようとしたところで、ニィが私に呼びかけた。そうして優しく笑んだ。

「逆境でより強く輝けるように。ふふっ、ほんとうにいい名前だ」

「……うそ。幸一くん、苦労するねって笑んでたじゃない」

「大切なことはみんな知っている。ぜんぶ心にある。心の目で見て、心の耳を澄ませるんだ」とニィはまるで幸一くんみたいに言った。

 私は言われた通り、心の耳を澄ませた。それはこの町に来る直前にした、歌と心との周波数を合わせる作業に似ていた。

 私は掃いて捨てられた氷の破片を掬い上げたいように、じゃっ、となにもない宙を蹴った。霞んだ土色の砂埃が上への力に寄り添ってたった。心の目で見てみると、土埃越しに追憶の動物園の景色が埃をかぶった忘れ物のように趣のある褪せ方で透けていた。

 首を項垂うなだれて、拗ねたように座り込んでいた私の心の中の私が、ハッと希望を見つけたように顔を上げた。

 ──ちゃんとしたひとになりたいな。

 手のひらがほのかに温かくなったようだった。

「助けに行こう」

「うん。行こう」

「本気か? さっきも言ったように、お前には時間もないし、なにより為せる能力が足りないんだぞ?」

「本気だし、私は言われたことを三歩歩けば忘れるような鶏頭でもないよ。しょうがないの。私は私が気に入る私でいたいんだもの」

「能力があるならするべきだ、ようは、ないのならしなくてもいい、と言っていたじゃないか、鶏頭?」

「失敬な。忘れてないし、いまでもそう思ってるよ。だけど、気分が変わったの。ひとの心なんて空模様みたいにころころ変わって、あんまり信用しちゃいけないんだよ」

 言うと、ユキヒョウは出会ってから初めて笑った。古い漁師の咳みたいな、乾いていて迫力のある笑い声だった。

「面白い。確かに、お前はほかの人間とは違うようだ」

「希望は少なきものだよ。僕らの仲間だ」とニィは満足そうに言った。

「違いない。決めた。俺はお前についていく。そうすれば、為せることもできるだろう」

「ほ、ほんとうに? どうして?」と私はもふもふの手と愛玩的な動き方をする尻尾の先とを交互に見つめながら言った。

「何度も言うが、気分だからだ。おい、鯨は嫌だろうな?」

「そんなことないよ。僕はずっと一人でいたから、誰かと一緒にいることに慣れてないんだ。でも、きみなら大歓迎だよ」そう言って、ニィは手のひらに青白い火を迸らせ、ユキヒョウのもふもふの手を取った。

 いいなぁ。

 私も手のひらをお椀型に丸めてみたけれど、やっぱり青白い火は迸らなかった。

「これがアカウミガメの復興の火だよ」

 私はしばし、熱に浮かされたようにその光景を眺めていた。ユキヒョウの白髪がツタのようにうなじに這いながら伸びていって、新雪のような頬から大輪の花のおしべみたいな髭が幾本も生えてきた。首元に元の姿の片鱗を取り戻したアカウミガメと違って、ニィの姿に変化はやっぱり見受けられなかった。そんなニィのことをユキヒョウは訝しげに見下ろしていた……ように見えたけれど、復興の火を灯しているときの少なきものたちは細胞が死ぬときに放つような青白い光をカラダの内からよだかの星のように放つので、詳しいことのほどは分からなかった。

 私の中の幽霊は、ただ冷え切った視点で世界を見つめていた。

 言うことを聞かなかった私を咎める気はさらさらないようだった。そもそも失望すらしていなかった。幽霊の私は、私に期待していなかった。私はその利口な在り方がなんだかさびしく思えてならなくて、そんな私を産みだしてしまった私が哀れに思えてたまらなかった。

 陽光を遮る体育館の屋根が飛行艇の帆先のような影を地面に落としていた。夏の陽光はなかなか透けた橙色を帯びなかった。私たちは白い陽光の許、連れ立って博物館に向かった。なんだかあっちこっちを行ったり来たりしているなぁと思ったけれど、いちいち口には出さなかった。人生なんてそんなものだ。



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