day2朝 アカウミガメ:トンネル


 そして、今朝に至るというわけだ。私はブラシに絡まった髪の毛をゴミ箱に捨ててスツールから立ち上がった。心臓が地元のヤンキーの車のスピーカーに取って代わったようにうるさかった。

 二年前とそっくりそのまま同じ状態で保存してある、元々は私と幸一くんの秘密基地兼寝床だった子供部屋のドアを開けた。

「ニィ、おはよう。やっぱり夢じゃなかったんだ」

 ニィは二段ベッドの上からぷらぷらと足を垂らして座っていた。「敷板が抜けそうで怖いよ」と、幸一くんはよく笑いながら言っていたものだった。

「まだ寝ぼけてるの? 随分と目覚めが悪いんだね」と、ニィが小首を傾げた。

「ニィは随分としゃっきりしてるね。昨晩は寝たの?」と言って、私は開け放したドアに背をもたせかけた。ニィは昨晩とまるで同じ立ち居振る舞いをしていた。髪も服もまるで卸したての人形みたいに乱れていなかった。ニィはふるふると首を振った。

「僕はちょっとだけ眠ればそれでいいんだ。右の脳と左の脳を交替で寝かせたりもできるから、無防備に横たわって寝る人間が思い描くような睡眠のとり方はしないよ。というか、思念体だから睡眠を取る必要は本来まったく無いはずなんだ。びっくりしたよ。ちょっと気持ちを落ち着かせたいだけなのかと思ったら、朝までぐっすり眠りこけちゃったんだもの」

「それは、どうも。寝坊助なもので」私はむくれた。ニィはすれすれの天井に頭をぶっつけたりしながら、二段ベッドの梯子を下りた。ニィの足の裏はまるで古びた陶器人形のようにすすけた白色をしていた。

「さて。それじゃあ行こうか」

「どこに?」

「復興の火のところにだよ。希望は忘れっぽくもあるんだね」

 ニィがふふっと笑んだ。その復興の火とやらがいったいなんなのか尋ねるのはやめておいた。右も左も分からない魂だけの状態になってしまった私はいまやもはや成り行きに任せるほかにないのだ。どうせ手も足も出せないんなら、余計な心配事で頭を重くしないほうがいいように思えた。空っぽのまま、風船みたいに運ばれて行ったほうが楽だ。


 今朝の空模様は水色の色鉛筆一本で塗りつぶしでもしたかのような快晴だった。風は凪いでいるから、雲が流れるはずもないのに。私はレンズの割れた懐中電灯が垂れ下がっている側のメッシュポケットに家の鍵を入れた。ニィは灰色の川のように斜をつけて下っている道路の真ん中に突っ立って、辺りをきょろきょろと見回していた。

 幸一くんに似たニィがそれじゃあどこへも行けなさそうな手ぶらでいることに私はひどく安堵して、母親を無条件で信頼する子どもみたいに、ニィが足を向ける方向に連れ立って歩いていった。

 電波は圏外だったけれど、世界時計は生きていた。地球の自転が止まったわけじゃないのだ。いまは八時三十分。いつもなら中学校で朝の会が始まっているぐらいの時間帯だった。


 私たちは駅に向かっていた。駅ですることなんて、トイレに寄るか電車に乗るぐらいのものだ。

 絶滅危惧種の町では電気が止まっていた。それなのに果たして電車なんて動くのかしらん、と、私が徳島生まれ徳島育ちの女の子じゃなかったらきっと考えていたことだろう。

 海流みたいに読めない動きでゆったりと歩いていくニィの隣りで苦笑した。この町は新しいものずきの若者の言葉でたとえてみると時代遅れで、古き良き時代の産物を尊ぶ性質のある老人からしたら特別だった。

 私はこの町を悪く思ったことなんてないけれど、だからといって老人の意見に賛成したり、若者の感想をねめつけたりはしたくなかった。私はどこにも属したくない、いまは絶滅したニホンオオカミのような一匹狼でいたかった。そうなるまでにあの夏の日に受けたような屈辱や悲しみの経緯はそういうひとたちの数ほどあれど、私は何事においても中立の立場を保ちながら粛々と生きているようなひとがすきだった。だから、徳島県内でよそ者相手に繰り広げられる〝電車じゃない汽車だ論争〟に、私は一度たりとも首を突っ込んだことがなかった。


 しかし、その記録をいまここで破ろうと思う。だってそうしておかないと、のちのち「物語に矛盾がある」って指をさして喚きだすような大人が現れてしまうかもしれない。あぁ、やだ。でも仕方がない。念には念を入れておくことが、私たち子どもが大人に口うるさく言われないための唯一かつ最良の手段なのだ。


 徳島の電車は電車であって電車じゃない。

 徳島は日本で唯一、電車に電気が通っていない県なのだ。徳島のひとは地元を巡る大きな鉄の塊を汽車と呼んだ。電気が止まっていようがお構いなしに大勢のひとを運ぶことのできる、いまこの状況においてはとんでもない優れものだ。


 ニィはそれを知ってか知らずか「まずは博物館に行かなくちゃいけない」と詳細な目的地を教えてくれた。私の気分は晴れやかだった。あの日、一人で旅立たせてしまった幸一くんの後ろ姿の記憶を二年経った今日、ニィと一緒に駅まで歩く道のりの爽やかな朝の風景の記憶で覆い隠せるような気がした。


 昨日とは打って変わって明るくなった朝の町を堂々と練り歩くのは存外楽しかった。ひとっこひとりいなくなった町はしんと静まり返っていて、まるで本棚の隅っこに忘れ去られた本の五十六ページめみたいだった。ちょうど起承転結の起が終わりそうなところで、読むひとの集中力が途切れがちになるところで、章タイトルが挟まれやすいところ。あってもなくても変わらないと思われがちで、でもじつはそんなことはない。無駄だと思われることほど大事だったりするのだ。公園で走り回ったり、水槽の中に泳ぐ熱帯魚をただ眺めたり、なにかすごいことを閃いて実践しようとして失敗したあの時間が大事じゃなかったはずがない。無駄なことを捨てて捨てて綺麗に掃いたひとが成り果てる先は頭でっかちの大人だ。いままでそういう大人を何度も見かけたことがあるけれど、そんな大人たちがもしもこの町に来たらたちまち発狂してしまうんだろう。


 そしてあまり動かない口でこう言うのだ。


「生産性がない! 合理的でない! 撤去せず保存しておくメリットはあまりないように思われます!」


 そうして、そういう大人たちは瞬間、凄まじい集中力とエネルギーを原動力に、問題解決に一致に取り組む。創造するより破壊するほうが遥かに手早く済む。誰も息をしていないこの町はたちまちつるっぱげの更地にされて、大人たちが思う〝生産性があって合理的である町〟に作り変えられる。世の中の工事がだいたいにしてそうであるように、のろのろのろ、非常に遅いスピードで作られた町は素晴らしい偉業を成し遂げたとして讃えられる。頭でっかちがしたことは、腹の膨れたお偉いさんにとりあえずは褒められるものだ。


 そこまでイメージしたところで、私は私が前よりも世界について深く細かいところまで考えられているらしいことに気づいた。

 世界に対して他人事になったからだろう。

 私はあの屈辱の夏の日、傷ついた私のために抵抗することをやめた。そして、幽霊の視点を得た。私にはもう下界のことはなにも関係なくなった。遠く離れたところから見ているひとのほうが、当事者よりもその状況について詳しく考えることができる。当事者は汗を垂らして血まみれになるほど傷つきながらでも必死にもがいて、幽霊は遠く離れた暗いところで冷ややかに笑みながらぶつぶつと何事かを呟いている。

 私は向こうでも幽霊だったのだから、ほんとうにこっちで魂だけになってもあまり変わらないようだ、と、上手く苦笑いできていたのかどうか分からなかった。顔がみっともなく歪んでいそうだ。


 私という幽霊からみて、この町はきっと無駄だった。

 私は無駄を愛していた。


 やがて、さして違和感もなく既視感を覚える通りに出た。

「ニィ、こっちが近道」

 私は右側を指さした。私が盛大にずっこけた階段だ。私はここで目を覚まして、歌声の出所を探して進んでいったのだ。犯人は現場に戻るっていうけれど、幽霊もまた死に場所に戻ってくるのかもしれなかった。

 私はちょっとグロッキーな気分になりながら、ニィに先を譲った。止まれない階段がトラウマになったようだった。今後はひとの気配を背後に感じながらでは階段を下りられなくなるかもしれない。

「これ、止まれない階段だから気をつけてね」と私は慎重に段差を踏みしめながら言った。

「どういうこと?」

「この世には二種類の階段があるの。一つは止まれる階段。も一つは止まれない階段」

「でも、止まれるよ」ニィが急に止まった。片足をあげてヤジロベーみたいに旋回して、へっぴり腰になっている私に「ほら」と楽しげに見せつけてきた。

「分かった。もういいから、早く行って……」

「止まれるじゃない。それに、僕だけじゃないよ! 希望だって止まってるだろう?」

「いま! いまだけだから! 早く平坦な地面に足を着けたいの! これはほんとうに止まれない階段で、だから私はずっこけちゃったんだよう!」と私は鳴いた。

「あなたが言っているのは、もしかしたらそれは〝エスカレータ〟じゃないでしょうか」

「うわっ!」

 鈴を絹製の袋の中で転がしたような女の子の声が頭上から聞こえてきて、私は銀色の手すりをしっかと掴んだまま上を見た。


 階段の一番上のところで、赤茶色の髪を耳にかかるぐらいのおかっぱに切り揃えた女の子が立っていた。女の子の瞳は磨き抜かれた柿の種みたいにつるんとしていて、外からきた悪いものをすべて受け流すことができそうな、しなやかで強い意志の光をたたえていた。

 なんだー、と思った。そして、尋常じゃないな、とも思った。私は尋常じゃない小学生サイズの女の子からしばし目を離すことができなくなった。


 女の子はパーにした手のひらを顔の近くで振った。半袖のデニムジャケットから伸びたクリーム色の肌に、ガラス細工のタイルをはめ込んだような赤茶色の菱形模様が幾つか浮かんでいた。

「はじめまして。ごめんなさい。驚かせるつもりはもちろんなかったんです。ただ、間違っている箇所を訂正したくなっちゃったんです」

「は、はじめまして」

 女の子がふわりと目を細めた。雛鳥の羽毛のように柔そうなまつ毛が白い陽光に透かされて、胡桃色の影を頬に落とした。助け舟を求めて振り返ると、ニィはさっさと階段を下りて、不機嫌な猫みたいにだんまりしていた。ひ、人見知り。そんなところまで幸一くんに似ているのかと、私は焦ったようにニィの海中のように青白い顔と女の子の高級カスタードのようにほんのりと黄色めいた顔とを交互に見て、最後にはにこりと、がんばって愛想よく笑んだ。私だって人見知りだ。年下だからというだけで余裕を持てるほど軽率な考え方を持ってはいないし、それならいったいどうしたらいいというのか。さっと前に出て気持ちよくおしゃべりを始めるお母さんの頼もしい背中が恋しくなった。

「わたしは少なきもの。生物学的に言えばアカウミガメです。もしよければ、そちらに行ってもいいですか?」

 私が頷くと、アカウミガメはぱたぱたという音を立てながら階段を下りた。真夏には近所を歩く用の外靴にもできる便利なビーチサンダルだった。

 女の子の背中は小さかった。触れたらほろりと崩れ落ちてしまいそうに脆そうにも見えた。

 ニィはフナムシみたいな動きで女の子の間合いに入るのを器用に避けて、私の横についた。これは幸一くんよりもよっぽど重症かもしれなかった。

「そちらのかたは?」

「ほら、ニィ。訊かれてるよ」と私は肘で小突いた。いまのはなんだか弟に促すときに使うセリフみたいだったじゃないか? と私は妙ににやけてきた。

「く、鯨です」

「わぁ。大きな体をしていた割には、随分と臆病なんですね」

「えぇ、ナチュラルに毒舌だね。でも、空気を読んだりお世辞を言ったりするのはあくまで人間だけの習性だから、あなたたちにとってはそれが普通なのかな。なんだか後腐れが無さそうで羨ましいなぁ」

「人間?」

「……ダメだよ、希望」

 ニィに小声で制止された。私はハッとして、上手く嘘をつこうとした。

「ううん、なんでもない。私ももちろん少なきものです。生物学的に言えば、えっと……ウサギ。アマミノクロウサギです。奄美大島で暮らしてました」幸一くんに授けられた絶滅危惧種についての知識がこんなところで役に立った。ほんとう、知識に無駄ってない。

 アカウミガメの女の子の顔が、まるで目の前に透明な花火が散りでもしたかのようにパッと明るくなった。

「ほんとうに? それならすごい偶然です。わたしは琉球にいたんです。とても近いところから一緒にこんなに遠くまできたんですね」

 そうなんですね、と笑もうとしたら、ニィがようやく初対面のひと(ウミガメだけれど)に慣れてきたように口を開いた。

「きみ、なにか怖い思いでもしてきたの? きみから響く音がとても怯えて聴こえるようだ」

 途端、おかっぱ頭の女の子の顔が、一つの火花の余韻も残さずに暗くなった。淡いオレンジ色のペンシルで引かれたような唇が、きゅっと上の方向を指す矢印のようなカタチに引き結ばれた。ちょうどウミガメを真正面から見たときのあの表情にそっくりで、私はそのとき、すとん、と、ここが絶滅危惧種の町であることを改めて理解できたような気がした。

 女の子はじっと私たちを見つめた。そしてぱたぱたと微笑ましくなるような夏の音を立ててぐるりを駆けた。

「あなたたちはとても善良で温厚そうな少なきものに見えます。だから、わたしも安心して打ち明けます。じつは、わたし……みなさんが言うところの〝誇りなきもの〟なんです。わたしは怪我をして動けなくなっていたところを人間に助けられてから、ずっと〝すいぞくかん〟で暮らしていました」

「へえ! それは珍しいね」とニィが合いの手を打った。

「昨日、復興の火を灯そうと歩いていたら、黒い拳の少なきものと出会ったんです。その少なきものはとても快く、復興の火を灯し合ってくれました」

 ぽわぁっ、と、お椀型に丸められた手のひらから青白い火がほとばしった。私は驚いて、半歩ぐらい後じさりした。


 まるでりんのように青白く揺らめきつづけるそれは湖面に浮かぶ鬼火のようにも見えたし、まあるい円を描いて時おり消える中古のガスコンロの火のようにも見えた。「星は高温であればあるほど、赤褐色ではなくて青白く光る」ただの青年だと侮れないほど宇宙に精通していた幸一くんが読み上げた学術書の一節をふと思い出した。


 ──生き物は、死んだら星になる。そう考えたひとは、命を熱いものだと捉えていたのかな。


 女の子は手のひらで食べたように火を消して、続けた。

「そのときは、とても優しい少なきものだと思いました。でも、少なきもの同士の会話って、生息地とか仲間の数とかがどうしても話題に上がってくるんです。わたしがすいぞくかん育ちだってことを打ち明けたら、彼、とても怒っちゃって、もう二度と顔を見せるなって言ったんです。次に会ったら復興の火を奪い取ってしまうぞとも脅されて、わたしは怖くなって、必死に逃げだしてきたんです。夜になったらまだ向こうの世界での暮らしを引きずっているらしい夜行性の思念体たちがはちゃめちゃに暴れたりしていたし、もう、散々な怖い思いをしてきたんです」

 女の子はため息をついた。海苔と、懐かしい潮風の香りがした。

「今回の少なきものの町は、どうやら様子がおかしいようだね。みんな明らかに気が立っているんだ」

「なんらかの不穏分子があるのかもしれませんね。風の噂で耳にしたところによると、人間が紛れ込んでいるとか……んん?」

「な、なんですか」

 アカウミガメの女の子が、ちょっと頬が赤らむぐらいに近づいてきて、私の顔を凝視し始めた。ちらりと横目で見やると、ニィがぎょっとしたように目をまん丸くさせていた。

 うーん……気のせいかしらん、と顔が引っ込んだときに、私はようやくきちんと息ができた。

「ウサギは人間みたいな瞳をしているんですね。色んな感情でごちゃごちゃしていて、まるでガラクタの宝箱みたい。わたしはガラス板越しに人間たちの瞳を見るのが好きだったんです。浅瀬で光るシーグラスみたいで、とても綺麗なんですよ」

「人間が好きなんですか? 人間のせいで仲間を減らされてしまったのに?」

 アカウミガメは生息域を人間によって狭まされた。人間たちによる世界各地の浜の開発で産卵場所を減らされて、目の前に衰退のレールを敷かれたのだ。人工ゴミを飲み込んで、多くのアカウミガメが死んだりもした。彼女がけがをしたのももしかしたらそもそもが人間のせいかもしれない。

 それでも人間を語るときの彼女の瞳は、きらきらと澄んで輝いていた。その輝きには一片の憎悪さえ入り混じる余地が無いようにみえた。アカウミガメの女の子は、さびしげに笑んだ。

「わたしは間違いを訂正します。わたしが見てきた人間たちは、みんな真心溢れていました。人間がわたしたちを少なきものにしたということは、頭の端っこでは仲間たちも理解していました。だけど、どうもそれだけじゃないと思うんです」

「それだけじゃない?」

「はい。人間は悪いやつらばかりじゃありません」

 私の胸に、ぐっと先の平らな杭が押し当てられたようだった。私の半歩前に出たニィが、アカウミガメの女の子に優しく問うた。

「よかった。きみは幸福に生きて逝けるようだね。それで、この先はどうするつもりだったんだい? もしも僕らと復興の火を灯し合うつもりだったなら、残念だけど、僕らは復興の火をわずかばかりも持ち合わせていないんだ。無い火を灯し合うことはできないよ。ごめんね」

「わぁ。どうして灯っていないんですか? 種の復興を祈っている少なきものであれば誰でも内に灯しているはずなのに」

「ちょっとね。僕らは訳ありなんだ」とニィは肩をすくめた。

 私を置いてけぼりにして展開される会話の節々に、重要そうな情報が散りばめてあった。

 どうやらこの町の少なきものたちは復興の火と呼ばれる、たぶんさっき見せられた青白い火を少なきもの同士で灯し合っていた。ちょうど、ロウソクについた火でまた別のロウソクに火をつけ、今度はその火で線香を焚くように、くるくるくると同じように種の復興を祈るしるしであるらしい復興の火をお互いに灯し合って灯し、まるで聖歌リレーのバトンのように、まず間違っても消えないように注意しながら、まったく異なる種だとしても協力し合って、有限の時間の中で巡らせていた。それがいったいどんな意味を成すのかは分からなかった。分かったのは、ニィが歌っていた歌の〝復興の火を灯しに行こう〟という歌詞がその行為を指していたということぐらいだった。

 アカウミガメはニィと何往復かやり取りを続けたあと、私の手を取った。燐のように青白い火が、私の手とアカウミガメの小さな手とを流水のように柔らかく包んだ。

「あっ! あっ、熱くない……」

 ニィが何事かを私に話しかけてきた気がして、左に首を向けようとした。


 瞬間、記憶が流れ込んできた。南極の海に張ったぶ厚い氷が割れて、そこにできた谷間のような窪みに滝のような勢いで天に開いた穴から水が降り落ちていくイメージが脳裏に浮かんだ。


 これは、たぶん……水族館で暮らしていたという、心穏やかなアカウミガメの記憶だろう。火が私を揺さぶって、意識の深部に潜り込んできたようだった。


 アカウミガメの記憶は、寒色系のマーブリングを施した水に列の揃った先を浸したブラシで描いたような、複雑な淡い色合いをしていた。猫の髭よりも細い線が折り重なってできていた様々なシーンは、まるで磨りガラスの向こう側の風景に限界まで目を凝らしてようやくというような、不鮮明と鮮明の間を毎秒単位で行ったり来たりしているような、最も近いものにたとえて言うと、まるで午前四時の夢の中のように曖昧な見え方をしていた。


 束になった線が先端でほぐれ、中ほどからたわんで分離して、目の前でくるくると潮の渦のように回った。波の動きだ、と思った。アカウミガメは波の動きをこんな風に捉えていたんだ。

 糸の動きを目で追って、その微細な動きに感心した。


 右肩にキツイ輪っかがはまっているような違和感が生じた。水の流れを示した淡い色合いの糸が私を惑わし、重たくなった右肩をきゅっと結んで、私のカラダ共々くるくると回った。

 私は三半規管が狂って気持ち悪くなったし、あちこちにカラダをぶつけてパニックを引き起こした。呼吸のリズムが乱れると、たちまち息が苦しくなった。

 やがて、右肩の違和感が鈍い痛みと引き換えになくなった。カラダの回転が外からの力によって止められて、ピンと張った糸が中ほどからぷっつんと切れた。

 黒っぽいヒトデのような物体が視界の右から左をゆぅらりと泳いだ。集中して見つめていると、ヒトデが浅瀬で砂埃をたて、そのままふわりと遊泳して、私の背中におっかなそうに着いた。

 私の身をおもんばっていると分かる切実な痛みに満ちた気持ちが、伝わった。

 それからは、瞳、瞳、瞳だらけだった。人間の瞳はアカウミガメの記憶を介して見ると、確かに糸くずのようなものがぐちゃぐちゃと詰めこまれているようで、言わせてみればガラクタの宝箱のようでもあった。アカウミガメの記憶の中では、それは確かに宝だった。アカウミガメは、ときには汚くときには優しすぎて頼りない輪郭を取る人間の感情を真珠のように光る小さな玉のようなものとして捉えていた。


 やがて、記憶は途切れ、後にはさびしい暗闇だけが残った。


 青白い火をガラス板の中に閉じ込めたカンテラ番が、右にゆぅらり、左にゆぅらりと近づいてきた。見上げると、いつかガラス板越しに見つけた少女が柔和な笑みを浮かべていた。

 目が合ってからお互いに数秒間固まって、逆らうことのできない外からの力によって引き動かされたあの瞬間に、また逆らうことのできない外からの力によってときを戻されたような感じだった。

 水槽の外に見つけたとき、この少女にはなにかを感じたのだ。胸の内に埋まっていたパズルのピースが、彼女の胸の内に同じく埋まっているらしかったピースと完ペキな一つのカタチに合わさりたいというようにもぞもぞと動いた。


 彼女が照らすカンテラの下で、アカウミガメはこれから自分がどこへ行くのかを、氷の解けるような速度で悟った。


 カンテラにぼんやりと青白く照らされた少女は、艶やかなおかっぱ頭をしていた。



 私は目を閉じ、そして覚ました。

 夏の真っ新な陽光に目が眩んだ。人間が見る世界は極端に鮮明すぎているようにいまは思えた。


 なにか話そうと思っても、私はまるで局所麻酔をかけられたひとのように口を利くことができなかった。目の前で蒸され途中の目玉焼きの白身のようなものが揺れていた。次第にそれはひとのかたちを取り、あの少女の姿を取った。

「わたしの復興の火を灯し分けてあげました」

「あれっ、どうして涙を流しているの?」

 私は目の周りを手で覆った。たまに指を開いたり閉じたりして、適度な量の陽光を入れた。こうしたほうがより早く目を慣らすことができそうだったからだ。

「アカウミガメの記憶が、私の感情の容量から溢れちゃったの。すごい。他の生き物はあんな風に世界を捉えることができるんだね。脳みそなんていらないみたい。理屈とか、理由とか、そんなのばっかり重んじてきたいままでが可哀想に思えてくる。あぁ、私、可哀想」と私は手の甲で頬を擦った。

「ふうん。よく分からないや。人ってよく涙を流す生き物だよね」

「あっ」

「人?」

「うんっ? 違う!」

「もういいよ。この子は人間に敵意なんて抱いていないでしょ。嘘をついてごめんね。私は人間。死を自然に受け入れられるみんなと違って、もの凄く生に執着してるの。ようは、なんとかして生き返りたい。そのための方法を鯨と一緒に探してるんだけど、なにか知らない?」と私は単刀直入に聞いた。昨日からあんまりに涙を流し過ぎていて、誰にともなくむかついていた。というより、投げやりな気持ちになっていたと言った方が正しいかもしれなかった。

「ど、どうでしょう。やっぱり、とも思いましたけど、ほんとうに? と疑ってしまう気持ちもぬぐいきれません。だって、人間は少なきものじゃないはずなんです」

「そうらしいんだけど、でも、現に私はこの町でこうして戸惑っているんだもの。そんなことを言われても余計に戸惑っちゃうだけでなんにも進展しやしないの。ねぇ、なにか知らない? どんな些細なことでもいいの」

「僕らのいまの状況はまさに手詰まりって感じなんだ。急に打ち明けたせいできみまで戸惑わせてしまっていたらごめんね。なんでもいいんだ。ほんとう、頼めないかな」

「そう言われても……。あなたたちは善良そうだし、力になりたいのはやまやまなんですが、なにせわたしも昨日この町に来たばっかりなので……。残念ですが、わたしからはなにも……」

 私はあからさまにしょげた。がっくりと首が項垂れたのと同時に、ニィの肩がびくっと跳ねた。アカウミガメの記憶の中で感じた切実な痛みに満ちた気持ちが籠められているような心地いい視線が私の頭辺りをくるりと回った。

 ニィは食い下がって、アカウミガメのほうに一歩踏み出した。

「うーん。ほら、その黒い拳の少なきもののこととかさ。その少なきものは、きみが巷で言うところの誇りなきものだって知ってすごく怒ったんだろう? 風の噂で聞いたって言っていたけれど、人間が紛れ込んでいるなんて突拍子もないこと、誰が最初に言い出したんだろう。その少なきものは、希望が元の世界に帰るためのなにかしらのキィに思えてならない」

「あっ、そういえば!」

 アカウミガメが照らす記憶のフィルムの位置を変えるため、ぐぅいっと動いた照合のライトの勢いに驚いたように両手をあげた。私はニィの横顔を見やって、すごい、と思った。幸一くんも頭がよくキレたのだ。私が事を成り行きに任せることに対しての抵抗感をなくしているのは、幸一くんが私の側で上手いこと問題を解決し続けている様を常に横目で見ていたからだった。こんなところでも、私は幸一くんにもたれていたのだと気づいた。


 もうぼんやりと午前十時の朝靄のように消えつつある、カンテラの青白い灯りに照らされたかわいい少女の顔の記憶。ところどころ見受けられる印象は違っていたけれど、目の前でほとんど初対面である私たちの進展を喜ぶように笑んでくれているアカウミガメの女の子の顔とそっくりだった。


 アカウミガメの女の子は、いままですっかり忘れていたことを恥じているのか、それともただ単に大事そうな記憶を思い出せたことに興奮しているのか、みかんの皮の裏側のように淡く黄色めいた頬を紅潮させて言った。

「黒い拳の少なきものは人間を探していると言っていました。探し出してどうするつもりなのかは聞きませんでしたが、でも、探しているということは、きっと探し出したあとになにかしらやろうと思っていることがあるからなんでしょうね。探しただけでおしまいだなんて、そんなかくれんぼみたいにたのしげなことをあんな怒った風な顔で言うわけないですもの」

「ほんとうに? その黒い拳の少なきものは、人間を探している、って、確かにそう言ったんだね?」

「はい。聞き間違いじゃありません」

「希望。これはきっととても重要な情報だよ。この町には少なきものしかこれない。それはみんな当たり前に知っていることなんだ。誰がどう数え間違えても少なきものにはなり得ない人間を探しているなんておかしいよ。その少なきものは絶対になにか知っている。会いに行こう。これはもしかすると一気に解決までこぎつけちゃうかもしれないよ」

「重要そうな情報だってことは私にもなんとなく分かったけれど、でも、これから早速のんきにその少なきものに会いに行って平気なのかな。アカウミガメの話を聞いた限りだとものすごく人間を嫌っているみたいじゃない? それに、昨日、ニィにも聞いたよ。たいていの少なきものは人間にいい印象を抱いていない、って。そういう話を聞いたあとだとなんだか不安になってきちゃうよ」

「確かにその通りですね。これは、こっちのほうが驚くほどのレアケースです。鯨さんが言った通り、たいていの少なきものは人間のことを憎み、恐れ、嫌っています。……そういえば、鯨さんはどうしてこちらの人間の方と一緒にいるんですか? 鯨を放り入れることができるほど巨大な水槽が世界のどこかの〝すいぞくかん〟にあるんですかっ?」

「いやっ、そんな大きな水族館は、さすがに世界のどこにもないんじゃないかな」

「じゃあ、どうして?」

 アカウミガメの女の子が一歩、二歩……と、ニィが後ずさりするそのたびに踏み出した。ニィはしどろもどろといった様子で、ふにゃふにゃと返答を呟いた。

「えっとほら、だからっ、その……僕らは、訳ありなんだ」

「その訳が気になります」

「でも、とにかく会ってみたほうがいいよね。アカウミガメから貰った情報のほかには、有益そうな手がかりがなにも無いわけなんだし」

「そうだよ。うん。とにかく会ってみたほうがいい。僕らがこの町で復興の火を灯し合える期間は四日間で、つまり、ほんとうに短い有限ってことなんだからさ」

 私が出した助け舟にニィが速攻で乗ってきた。鯨が人間用の救命ボートをひっくり返すイメージが脳裏に浮かんだ。アカウミガメも二人乗り用の助け舟に粘着するほど、私もよく分かっていないその〝訳〟とやらが気になっているわけではないみたいだった。引き際がいいんだ。


 一つ、目的を達成するための道に続く確かな道しるべを発見して喜ぶ私たちに、心優しいアカウミガメはふわりと微笑んでくれた。


 ──あれ……?


 私はしばし、アカウミガメの首元を凝視した。


 階段のステップから見上げたとき、彼女の腕にガラス細工のタイルをはめ込んだような菱形模様が浮かんでいるのを見つけた。それは覚えている。腕に菱形模様が浮かんでいたというのはハッキリと覚えているんだけれど……。


 私はかくんと首を傾げた。果たして、首元には浮かんでいただろうか。雲間からさす天使の梯子のような微笑みを浮かべているアカウミガメの首元に、赤茶色の菱形模様がうっすらと浮かんでいた。

「喜んでもらえたみたいで、よかったです」とアカウミガメは言った。

「うん。ありがとう。それじゃあ、黒い拳の少なきものと出会った場所を教えてくれる?」

「ここから少し距離がありますけど、目印になる大きな建物がすぐそばに建っているのでそれなりに分かりやすいと思います。薄い黄色をした箱型の建物と、その近くに浮いている〝はし〟のちょうど中間辺りで出会いました。黒い拳の少なきものは薄い黄色をした箱型の建物に入っていったようでしたよ」

「あぁ、それってもしかして、私が通っている中学校かな。薄い黄色をした大きな建物なんて私の通う中学校かそのすぐ近くにある小学校ぐらいしかないし、きっとそうかな。あぁ、よかった。いくら方向音痴の私でも迷わずにたどり着けるよ」

「チュウガッコウ?」とニィが聞き返した。

「毛を減らしに行くところ」と私は答えた。

「ふうん。だったら僕らは行く必要ないね」

 私は笑った。そうだね。鯨とウミガメには毛が生えていないものね。


 なんだか、なにかしら騒音を立てていないと気が済まないヒス持ちの同級生と話すときよりも遥かに楽しいようだった。心の波長が合っているのだろう。私はやっぱり彼らと同じく絶滅危惧種なのかもしれなかった。


 ふと、思い当たった。


 私が本来、地球にしつっこいカビみたいに蔓延るヒト属ヒト科であるにも関わらず、この少なきものの町にやって来てしまったのは、なんらかの自己暗示による作用なのかもしれない、と。或いは、私がひととして生まれたけれどもその中途で突然変異して、ほんとうの絶滅危惧種になっていたか。どちらが正しいのか、半端な私には判断しかねた。どちらも間違っていて、答えは神のみぞ知るという意地悪な問題なのかもしれなかった。それも私には分からないことだった。なんにせよ、私が絶滅危惧種の町のほうで楽しくやれているというのは、悲しいような、元の世界に戻る動機が失われつつあるような、そんなふわっと怖い感覚に包まれながらの確かな事実だった。


 かまぼこみたいにかわいい曲線を描いている短いトンネルの手前で、私とニィは目的地を変えた。夏の陽光がアカウミガメと出会う前よりも燦燦さんさんと降り注いでいるような気がした。太陽が一番強い力を放つ正午に刻々とときが迫っているようだった。

 アカウミガメは、この町にきた少なきものの本来の目的である復興の火の灯し合いに出向くと言った。見た目が見た目であるだけに、私は保護者的な目線で彼女を心配した。断片的に見えたぶん余計に恐ろしく感じたホホジロザメの灰色に揺らめく鋭利なナイフのような姿を思い返していた。

 だけど、私には私の大事な目的があった。それに、時間には厳しい制限があった。そして、私には優しい協力者がいた。手前勝手な行動を取ればニィにいま以上の迷惑をかけてしまうし、最悪な場合、そのせいで大いなる失望をされてしまうかもしれなかった。それら諸々のことをしっかりと踏まえていたが故の非常に苦しい葛藤に、決断力のないうじうじムシの私は苛まれていた。

 そんなわけで、気持ちのいいお別れも口にできないまま、いつまで経っても人見知りの子供みたいにもじもじとしていると、人間慣れしたアカウミガメがなにかを察したように、すっと穏やかな海流みたいな動きで私に近寄ってきた。そして海苔と潮の香りを霧散させながら、私の周りを元気いっぱいにぱたぱたと駆け回って、鈴を絹製の袋の中で転がしているようななんともかわいいソプラノの声で歌うように言った。

「大丈夫です。わたし、とても堅実で賢いんです。自分から危ないところに行くようなことはしません。のんびりと、生まれるまでの旅を楽しみます」

「きみは確かに堅実そうだし、じつに賢そうな面立ちをしている。だけど、ちょっと懐っこすぎる。次からは、きみが水族館で育ったことは内緒にしておいたほうがいいよ」

「でも、間違いは訂正したくなるんでしょ」と、私は笑みながら言った。視界を右から左に行き過ぎていく女の子は、白い陽光に照らされてとても神々しい生き物のように、もはや淡く黄色めいた肌の内側から薄ぼんやりと発光しているかのようにも見えた。

 上下に軽やかに跳ねるアカウミガメの首元には、濃い赤茶色の菱形模様が浮かんでいた。

「そうなんです。そういう性分なんです。だからもしも今後、誰かが人間のことを悪く言っているのを見かけたら、どうしましょう。そうですね。じゃあ、こしょりと静かに訂正することにします!」とアカウミガメは言葉尻を切ったのと同時に、軽いジャンプから軽い着地音でビーチサンダルの靴底を地面につけた。


 私は、この子は勇敢だ、と思った。「自分の信じることに乗っ取って、誰かのために戦える。それが勇敢なひとだ」いつか幸一くんが私に語ってくれた言葉をノイズもなく再生した。そしたらその後、すぐ隣りで、まるきり同じ声がした。

「博物館に行くといいよ。きっと、とても巨大な復興の火があるはずだ。なにかと不都合が生じそうだったから、僕らもそこで少しばかり灯して行こうと思ってたんだけれど、きみが灯してくれたからね。もうよくなったんだ。僕らはこれから希望のために、黒い拳の少なきものを探しに行くことにするよ」

「わぁ。教えてくれてありがとう。鯨さん。人間さん。あなたたちの復興を祈っています」アカウミガメの女の子はひらひらと手を振って、私が示した駅の方向に夏の音を立てながら駆けていった。

 アカウミガメがトンネルの作る影に飛び込んだ。進んでいくにつれて小さくなっていく背中に、私は夜の布団の中でふと覚えるよりも強い不安を覚えた。強い不安は、やがて心を裂くさびしさになる。


 青白い火で包まれたときの柔くてぬるい感触がまだ残っている手のひらをぎゅっと爪の先で刺激して、今すぐにでも引き留めたいと飛び出そうとする呼びかけの言葉を食道の奥に舌の根元を使ってねじ込んだ。

 アカウミガメの女の子はトンネルの出口にたどり着いた。そして、強風に舞い上がるコスモスの花弁みたいにまた手を振った。私が手を振り返すと、ふわりと満足そうな笑みを浮かべた。それから左に折れ曲がって、私の視界から姿を消した。なんだか全身からどっと汗が吹き出てきた。


 火には、不思議な力がある。

 火は、ひとを引きつける。

 火は、命だ。


 私はさっきアカウミガメの女の子がやっていたことの見よう見まねで、手のひらをお椀型に丸めてみた。どれだけ待っても、それっぽく念じてみても、青白い火が迸ることはなかった。

 だから私は平熱の手を祈る聖女のように組んで、アカウミガメの青白い火がどうか消えませんようにと、誰にともなく祈った。そして、アカウミガメが次に生まれてくるときもどうか人間をすきになってくれますように、とも。私は組んだ手を解いた。


 太陽がついぞ真上に到達しようとしていた。辺りは危うく思えるほどの静寂に満ちていた。凪いだ町に身じろぎ一つしない空気が、まるで型を取りたいかのように私たちのカラダに纏わりついた。

 私は踵を返して、足を一歩、二歩と踏み出した。空気の鎧を纏ったまま階段を上って、一番上に着いてからつま先立ちをして駅の方角を振り返って見た。

 トンネルの向こうには薄ぼんやりと白く平たい光を放っているアスファルトと、きらきらと輝く海が広がっていた。人間が建て上げた建造物は所有者を失って亡くなったように沈黙していた。すこやかな寝息が響いて聴こえでもしてきそうな景色だった。

 おかっぱ頭の女の子の姿はもうどこにも見当たらなかった。私は手でひさしを作って、しばし遠くに目を凝らしてみたりしたけれど、やがてなんの前触れもなくじゃれ遊びに飽きた猫みたいに、ハイブランドのヘルメットのように綺麗な丸型をしたおかっぱ頭を探すことをやめた。それは私が私のやるべきことに急かされたからでもあったし、単純に腕をあげっぱなしにしている作業に疲れたからでもあった。

 見渡す限りの町のものはみんな、厳しい白の陽光と柔らかな乳白色の月光を足して二で割ったような光を纏っていたり、或いは放っていたり、ときには閉じ込めたりしていた。白昼夢の孤独な世界を自由に渡り歩いているんだ、と思った。アカウミガメの女の子の姿もいまはまるで海が途切れたところに浮かぶ蜃気楼みたいに揺らめいていた。いま思い返してみると、そんなアカウミガメの女の子の姿しか私の脳裏のバックスクリーンには映し出されなかった。

 私はニィの半歩先を先導するように歩いた。首元に徐々に色濃く浮かんできていた赤茶色の菱形模様のことを思い返して、ニィの姿をちょっと振り向いて見た。

 暑苦しそうな大手の黒い羽織と、足首まで覆ったジーンズ。アカウミガメの女の子と比べると外界に晒された表面積が大幅に減っていたけれど、パッと見た限りではニィの姿に変化は見受けられなかった。


 ──アカウミガメの首元に菱形模様が浮かんだのは、復興の火を灯したあとだった。


 私は宇宙について考えたときのような漠然とした不安と言い表しようのない恐怖を感じた。それら弱った心に良くないものたちを見て見ないフリするように、幸一くんにそっくりなニィと他愛のない会話をした。

 私たちは年の近い兄妹みたいに、仲良く連れ立って、中学校までの道を歩いた。途中、汽車の音が遠くから聞こえてきた。幸一くんが一緒に学校に通っていてくれたら、私は途方もなく勇敢になれただろうになぁ。そう思って、浮かべた笑みに少しのさびしさを滲ませた。

 遠くから聞こえる波の音が、二年という長い年月に掘り深められた度し難い溝を優しく埋めてくれているようだった。


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