少なきものの町

day1夜 幸一もどき:防波堤


 サイの角は、毛でできている。

 真横を向けば視線が幸一くんのお腹に刺さったほどの大昔、動物園に行ったような記憶がぼんやりとある。

 父親の不倫相手とその子どもと一緒に和気あいあいと楽しんでいる風を装って檻の中の動物たちを眺め回っていた幸一くんの気持ちは想像したくなかった。当時の私はそんな昼ドラの中でしかないような設定がまさか自分の家族にあるなんて思いもしなかった。

 幸一くんの手を引いて、あっちこっちにいる動物たちを見て回った。幸一くんは逐一ちくいち、私のときには面妖めんような質問にしっかと応えてくれた。はたから見ても、なんの複雑な問題も無さそうな、幸せな兄妹に見えたことだろうと思う。

 そのときの私が感じていた幸福はぜったいに嘘にはならないと断言できるほど、私の意思は固くなかった。私はぜい弱な女の子だから「死んだひとは心の中で生きている」なんていうおべんちゃらな説法に癇癪かんしゃくを起こしそうになるし、失くしたものの大切さに失くしてから気づくひとはへんだ、愚かだと思っていても、やっぱり、失くしてから私も気づいたりした。私はぜんぜん特別じゃなかった。私の意思は、吹けば簡単に飛ぶものぐさな綿毛のようだ。

 カラーテープが貼られた灯篭が両側に並ぶ坂道を上って、周りに茂った木から揺れ落ちていた木漏れ日を浴びながら歩いた。熱帯雨林を模したエリアには、確か、象がいた。川底に永い間沈んでいた小石を拾い上げてその滑らかな表面にニスを塗ったような、なにか底知れない茶色の瞳をしていた。

 その隣りの柵の中にはキリンがいた。あくまでぼんやりとした記憶だから、ほんとうにそうだったかどうかは分からない。ジラフという英名に──特にジとラの間に、妙ちきりんな首を持っている草食動物の彼ららしい神経質な性格が聞いて取れて、私はキリンを気遣うように、能のひとみたいに柵の前を慎重に歩いた。


 そして、その隣。地面と空の間になんの遮蔽物も無い、広場のような柵の中にサイはいた。


 私は日に焼けて焦げたような黒い色になっていた柵を飛び越えて、彼らの角を撫でた。隣には幸一くんもいた。バケツをひっくり返したような帽子をかぶっていたお父さんと、その隣で幸福そうに笑んでいたお母さんは柵の外側にいた。柵の中は雨が降った後の砂漠のようなにおいでむせ返るようだった。

 たぶん、知らずの内に記憶を改変しているんだろう。誰しもそういう都合のいい記憶を持っているはずだ。実際の映画とは違うエンディングを鮮明に覚えているような気がしていたり、言っていないことを言っていたと思い込んでいたり、それは逆もまたしかり。普通、動物園の柵の中に入ったら飼育員のひとにめっちゃ怒られる。それに、私をあくまで大事に思ってくれていた幸一くんが、危険地帯でのんきに危険動物の角を撫でる私の隣に微笑みながら立ってくれていたわけがない。私はどうしてだか、動物園でサイを見た記憶の部分だけを改変していた。

 角の感触は実際に触ったもののように憶えていた。それは最も粗い目の紙やすりみたいにざらざらしていた。古びた白樺の木の皮のように乾いてもいた。

「サイも絶滅危惧種なんだよ」と、改変された記憶の中の幸一くんが言った。

「絶滅危惧種って、動物園にいてもいいの? ひとが独占しちゃいけないぐらい、貴重な生き物たちなんじゃないの?」と、言ったような気がする私。

「ひとはとても自分勝手な生き物だから。自分たちがいいと決めたら、なにをしてもいいと思ってるんだ。絶滅危惧種になるかどうかの基準も、ひとが勝手に決めたものだ。その基準からはみ出なければ、なにをしてもいいと決めたのもひとだ。たいていのひとは、自分が決めたことに責任を持たない。責任のないところに正しさは生じない。絶滅危惧種は動物園にいてもいいんだよ。そうひとが決めたのなら」

「ふうん」と、たぶんほとんど理解できていなかった私。

 幸一くんの手が、サイの角のてっぺんに触れた。まるで貫かれたいようにぐりぐりと手のひらを押しつけていた。サイは上からの力を嫌がって、斜め下に首をよじった。

「自分の決めたことに責任を持てるひとになってね、希望」

 私は幸一くんのお願いならなんだって聞けた。あの夜も「お母さんには内緒にしてね」とお願いされて、まんまと聞いてしまったのだ。それはちょっと後悔していた。だけど、ひとの性質というのはそうおいそれと変わってくれるものではない。お願いされるときは、まるで心から信用されているようで、とても誇らしい気持ちになった。


 ──おーい、とお父さんが呼んでいた。そして、私だけが振り返った。


 幸一くんとお父さんは似ていなかった。だから幸一くんは私たちの誰とも似ていなかった。お父さんは素敵な竹製の腕時計を手首に巻いて、三角と四角が重なった洗練されたデザインのブローチを襟元に飾っていた。感じのいい服装だった。

 その頃テレビで流行っていた、色気のある男のひと……通称フェロモン男子の俳優さんだかタレントさんたちだかは、そのたいていがお父さんに似ていた。ウィンクをされればめろめろと腰からくずおれていくような女のひとたちを、容姿の整っていない男のひとたちがからかったりなじったりする構図がテレビの向こう側だけで流行っていた。そういう、時期によってはとことん一辺倒な映像ばかりを映すようになるテレビ画面を、幸一くんは曇った眼で眺めていた。


 お母さんは幸福そうに笑んでいた。まるで『春の午後の幸せ』というタイトルのつけられた絵画みたいだった。


「お母さんは、お父さんのどこをすきになったのかな?」と私はふと気になって訊いた。幸一くんはいつまで経っても、柵の外側を振り返ろうとはしなかった。

「きっと、顔だろう」

 胸がどきりとするような、暗い声色だった。

 幸一くんが良くない暗闇に足を踏み入れているような感触が私の足に伝わってきて、私は必死に、私が隣りにいることを思い出させようとした。私がぞめけば、優しい幸一くんはしょうがなさそうにでも振り向いてくれると確信していた。私は半端者で、可愛げのない甘えっ子で、幸一くんの優しさにいつだって重たくもたれていた。

「私は、お父さんの優しいところがすき。前にインフルエンザにかかったとき、慌てて帰ってきてくれたことがあったでしょ? お父さんが背広を葉っぱまみれにしてきたの、いったいどこを通ってきたんだろうっておかしくて……。あのとき作ってくれたはちみつしょうが湯、ぜんぜん美味しくなかったけど、飲んだらたちまち具合がよくなった。しかめっ面をしてる私に、隠し味は優しさだろうって幸一くんが笑ったとき、気づいたの。ひとのやさしさは、ひとにいい働きをするんだ、って。ひとに好かれるのはいいことでしょ?」

「あぁ、そうだね」

「だから幸一くんは、いいひとなんだよ」

「……うん」

 幸一くんがやっぱり振り向いてくれたのがうれしかった。サイが土埃をあげて、私たちの背後に回った。

 背中に近づく角の気配を感じながら、質問した。

「サイはどうして絶滅危惧種になったの?」

「密猟だよ。この角は純粋な少年たちだけじゃなく、歪んだ大人たちにも人気があるんだ。希望は知ってる? サイの角は毛でできているんだよ」

「毛? 毛って、髪とかの毛?」

「うん」と幸一くんは私の肩を優しく押して、私が立っていた場所に立った。

「知らなかった。きっとほとんどの人が知らないよ」

「そうかもね。たいていのひとは表面だけを見て、中身を見ようとしないから。顔についた目で見るより、心についた目で見ることのほうがよっぽど難しい。難しいことをすると、疲れる。疲れることに億劫になって、退屈を受け入れるひとのことを、世の中では怠け者と呼んでいるんだ」

「私は、ちゃんとしたひとになりたいな」

 幸一くんがふふっと笑んだ。夢見る病弱な乙女のような笑い方が、私はとてもすきだった。

 記憶の中の幸一くんは、窓辺に置いておいた花瓶の花が成長している様子を発見したときのような、愛と少しの感動を混ぜた目つきで、私と心についた目を合わせてきた。

「希望よりちょっと長く生きている僕が言えることは……いいかい。大切なことは、心についた目で見るんだ。深いところにあればあるほど、見つけることが難しくなる。でも、サボっちゃいけないよ。汗だくになって、どろどろに血まみれになるほど傷ついて、みっともなく泣いたとしても、その姿は決して醜くなんかないんだから」

 幸一くんは、世界に定められた常識の対岸に立って、澄んだ瞳で良いとされるものも悪いものも受け止めるようなひとだった。

「うん」と私は笑顔で頷いた。

 サイの角が、幸一くんのカラダを貫いた。

「それが、美しいひとなんだ」

 幸一くんは美しかった。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「あっ……!」

 海辺の街に降る雨は、しょっぱい味がする。

 私はあくび途中の猫みたいにぽかりと口を開けながら、仰向けに倒れていた。たったいま追憶の航海から引きあげて、天に向かって手を伸ばしかけたところだ。ぬらぬらと赤く濡れた鋭利ななにかが目の前にあるような気がしたのだけれど、私の頼りなく小さな手はただゆらゆらと宙をかいただけだった。

 状況整理をしなきゃいけません。

 さっきは晴れていたのに、いまは雨が降っていた。地べたに倒れ込んでいた。私を誘うように階段がずらりと並んでいた。ああ、ずっこけたんだ。いったいどれだけの時間をここで浪費していたというんだろう。誰にも見つからないまま伸びていたということは、そんなに経ってはなさそうだけど、でも、それじゃあどうして雨が降っているのか。私はとりあえず上体を起こして、辺りを見回してみた。なんだか不気味なぐらいに静かだった。

 しばらくは恐ろしくて、後頭部に手をあてることができなかった。顔全体がしっとりと濡れはじめた頃になってからようやく、それでも恐る恐る、ぜんぜん痛まない後頭部に指の腹を押しつけて……三、二、一、パッ! ホッとした。血は出ていなかった。

 足をルの字型に曲げて座りこんだ姿勢のまま、途方に暮れたように階段を仰いだ。一、二、三、と……上から純に十四段目まで数えたところで、鼓膜を震わすテノールの歌声に気づいて、じっと耳を澄ませた。

「この歌声、さっきも聴こえた……」

 足の片側から、木の根が反乱を起こしたように、じわりじわりと体温が奪われていった。


 ──ル  リィ ラ  ンー ッタ……。


 私はのろのろと立ち上がって、歌声の出所を突き止めることにした。心の表面がぱりぱりと割れてまた中に吸い込まれて、新しい心の一部が表面に薄く張って出来上がるような、そんな優しい懐かしさが秘められた歌声だった。

 階段を上がって、道路を横切った。

 私は驚愕した。とんでもないことに、人っ子一人いなかった。早朝の町みたいだった。誰もいないような気がしているけれど、誰かがいる気配もした。

「みんな、どこに引っ込んじゃったんだろう? こんなことってあるのかな。いや、現にこんなんなっちゃってるわけだけど……」

 キャスケットを目深にかぶり直した。いま誰かに見つかったら、猛烈に咎められてしまうような気がした。ぜんぶがうるさく聞こえたり見えたりするほどの静寂は、破られることを布団の中で死という観念にねちっこくまとわりつかれた子どもみたいに恐れているのだ。そしてそんな静寂をこよなく愛しているひとがいて、そういうひとが静寂の代わりに、破った人を咎めるのだ。たとえば、図書館の司書さんとか、みんなの学校にもいるであろう○○教科担当の□□先生なんかがそうだ。たぶん、伝わったと思いたい。

 駅とは反対方向に向かって歩いた。とにかく歌声だけを追ったから、狭い路地に入ったり、ひとの家の屋根によじ登って辺りを見回したりした。不思議なことに、凪いでいた。雲が流れ、天気が変わっているというのに。

 方向音痴極まりない私だけれど、どんどんフレーズが聞き取りやすくなっていく歌声のおかげで、ちゃんと目的地に近づけているんだと分かった。

 私たちのような生き物──体内方位磁石ナクシ──は、東西南北で考えないほうがむしろ良いのだ。体内方位磁石ナクシには、東西の方向にどうだとか、こういう特徴の建物が見えたらあっちのほうに見える信号をどうだとかじゃなくて、もっと単純明快に、ただひたすらに右を行けだとか、同じく左を行けだとか言ってあげたほうがいい。それで失敗しても、体内方位磁石ナクシは癇癪を起こしてナビのせいにしたりはしない。体内方位磁石ナクシは自分の能力の無さを知っていて、迷うたびに誰よりも残念がっている、身の丈にあった謙虚さを兼ね備えた生き物だからだ。


 ──孤独さ 幽閉さ 太陽も沈まぬ海の中


「この世界は 多きのもの

 割を食うのはいつだって 僕ら……」


 ──あくる日は 絶滅さ 背後には海が広がる


「涙が太陽に吸われてしまった

 カタチの残らないものは大切だ だけど弱くて仕方がない……」

 もの悲しい歌声だった。私が悲しい気持ちでいるから、そう聴こえるのかもしれなかった。歌声の主を見つけて、私はどうしたいんだろう。考えてなかった。止まりそうになる足を無理やり動かした。

 歌声の主を見つけたら、なんて声をかけようか。



「こんにちは。お歌中にごめんなさい。えっと、町のみんなはいったいどこに?」

 ──溶けて、海になった。

 歌声の主は塩の彫像だった。表面を飴細工でコーティングされているから、雨に濡れても溶けていかないのだ。

 暖色系の灯りばかりが一斉に町に灯って、にぎやかな声が灯りを包み、もっと、もっと、と激しく震わせていた。夕時の騒がしさとはそういうものだ。

 小麦色の肌をした少年が、りんご飴のように照っていた。苺のワッペンがついたお気に入りの髪ゴムで仔鴉の羽毛のような黒髪をひっつめにした妹が、少年の背中を追いかけていた。ようやっと熱い手のひらを掴めたと思ったら、ざらざらりとすかされた。妹はびっくりして、ざらつく手のひらを口にあてた。


 ぺろり。

 とてもしょっぱい。


 少年は塩になり、たちまち崩れた。


 ──君は頭を打って気絶した。塩の悪魔は、君の沈黙する意識に気がつかなかった。やがて雨が降り、ひとびとは屋根の下にいたの以外、みんな海に流されてしまったよ。明日の朝には、塩分中毒で死んだ哀れな魚たちの死体が海面に浮かんでくるだろう。

「幸一くんは、無事ですかっ」

 ──はぁ?

 私のおかしな妄想の産物──いままで散々神秘的な雰囲気を崩さないように起伏のない声色で喋っていた塩の彫像──が、呆れたように顔をしかめた。

「私、こんなとんでもない状況になっても、自分より幸一くんのことが気になるんです。おかしいかな。でも、それが愛ってやつなんじゃないですか? 地球よりも大事なひとのほうを救ってほしいと思うことが、愛、なんじゃないですか!」

 塩の彫像が、ぼろり、と崩れた。ガラス片のような飴細工が砕け散った。

 ──君はまったく、エゴイストだなぁ!

 幾片もの塩の塊が、濡れた道路の上にごろごろと転がった。私はそのうちの一つに重たいリュックを立てかけてから、さっさと防波堤によじ登って、凪の中で海を見た。

 幾匹もの魚の死体が、自然由来の塩漬けの状態で、灰色の海面にぷかりぷかりと浮かんでいた。



「裏では騒く、ひとの町。ルゥリィラルラッタ。ああ、もうこんなに覚えちゃった。どうしよう。頭打っておかしくなっちゃったんだ」

 私はリュックを揺さぶりながら歩いた。幾粒もの水滴をのっけて輝く金色のニワトリマークも、夏の夕雨に赤らむ手のひらも、もしかすると妄想の産物なのかもしれなかった。この町だってそうだ。「日本で一番騒がしい祭り」と、たぶんいい意味で言われていてほしい阿波踊りの初日にこんなにしんとすることが果たしてあるだろうか? あるんだけど、あってはいけなかった。


 ──これは、私の夢の中ではないのかな?


 誰でもいいから、ピーンポーンでもブッブーでも、なんでもいいから言ってほしかった。

 もう十分に暗くなってきたけれど、どれだけ待っても、街灯がつけられることはなかった。雲で月が隠れているから、そのうち足元さえもおぼつかなくなるぐらい真っ暗になるだろう。一人での冒険に浮足立って、周りの大人たちからしたらきっと無駄なもの、余計なもの──懐中電灯──をリュックの脇についたメッシュのポケットにくくりつけておいた過去の私を、いまの私はぐりぐりと撫でまわしてやりたくなった。


 歌声が止んだ。私が歌声の主の背中を見つけたのと同時だった。海辺の町の雨は、しとしとと降り続けていた。

 なんとなく納得がつくことに、塩の彫像がいた場所と同じ場所に、歌声の主は座っていた。もう海がすぐそこに広がっている防波堤の上。私がお小遣い稼ぎをしていた海辺の倉庫とは、少し離れたところだった。


 墨を滲ませたようにぼやけた輪郭をした頭が、かくん、かくん、と二回、揺れた。私はあくびをした。眠気というのは親しいひとの間だけで感染するらしい。なるほど。歌声の主の背中には確かに見覚えがあった。とても強い感情を伴った懐かしさがあった。私は彼を知っているのだろうか。

 かかとから土踏まずを通り、つま先まで。私は丁寧に、足裏に籠める力を進行方向に移しながら、濡れたアスファルトを踏みしめ踏みしめ、彼の許に歩んでいった。


 と、彼が緩慢な動きでこっちを向いた。

 私はしばし固まって、後方に二歩か三歩かよろめいた。


「あっ、あーっ!」

 私はお行儀悪く指をさして、叫んだ。

「お兄ちゃん!」

 どうして分からなかったんだろう。二年という歳月は、ひとの記憶を十分に褪せさせることができてしまうらしい!

 アドレナリンと、なにかハッピーな気持ちになる物質が脳みそから大放出された。私はリュックをずり落とした。恐らく懐中電灯のレンズから発せられたと思われる、パリン、という音も私を引き留めることはできなかった。

 逸る気持ちを落ち着かせようと試みるだけ試みて、防波堤に上るために備えつけられた銀色の梯子を探した。

「おにいちゃん?」

「あっ、やだ、ちがうちがう! 幸一くん!」

 恥ずかしい呼び間違い(間違いっていうのも悲しいけれど)をしてしまったことに気づいて、後ろ向きに小走りしながらバタバタと手を振った。幸一くんはぽかんとした表情でこっちを見ていて、私はちょっと小首を傾げた。

 さっきから気にかかっていたのは、私が呼びかけたときの幸一くんの反応だった。銀色の梯子まで駆けながら、記憶を反芻した。

 幸一くんはまるで私の呼びかけを「あっ、一番星!」とでも空耳したかのように、私の指さす先をくるりと振り返って見ていた。当然、そこにあるのは重たく垂れこめた灰色の雲だけだった。

 空耳したならしたでべつにいいのだ。問題は、私の姿を認めたのにも関わらず、二年ぶりの再会に対してなにかしらのアクションすらも起こしてくれなかったということだった。

 幸一くんは気の短いひとには「優柔不断」という不名誉なレッテルを貼られてしまうぐらい真面目だ。こんな感動的なイベントの最中に、そんなおちゃらけたことはしないはず。二年という歳月は、ひとを大きく変化させてしまうということ? なの? それはちょっと、嫌だなぁ。私は真面目な幸一くんがすきだ。

 防波堤の上に足裏をのせて、上体を引き上げた。クラウチングスタートのような姿勢から、ロケットみたいに駆けだした。幸一くんは目をまん丸にしながら、猫みたいにじっとしていた。

「き、きみ!」と幸一くんが言った。

「きみぃ?」

 私は幸一くんのすぐ手前で、ザパァンッという波の砕ける音に気圧されたかのように急停止した。久しぶりに身軽になったからか、勢いの加減ができなくなっていた。前につんのめって、幸一くんの目の前に手をついた。手のひらが熱い。皮がちょっと剥けたようだ。

 恐る恐るといった動きで、幸一くんの指先が私の手の甲に触れた。クラゲの回遊動作みたいにふわっと浮いて、また触れた。枯れる寸前の花弁のようにしとやかで軽い感触をした指の腹だった。

 途端、心のダムが決壊した。涙腺を猛烈な勢いでポンプアップして、涙がぼろぼろと溢れてきた。顔をあげてみると、幸一くんはまだ驚いた顔をしていた。暗い暗い喉の奥から、ひしめいていた言葉がとめどなく溢れた。

「会えてうれしい。いままでどこにいたの。いつの間にこの町に帰ってきてくれていたの? ひとの海で仲間が見つからなかったから、諦めてほんとうの海に帰って来たの? それでもいいよ。もう行かないで。私、血は半端でも、ちゃんと幸一くんの妹でいたいの。私も絶滅危惧種なんだ。どうか認めて。とても悲しいことだけれど、私たち、きっとこの世界で二人だけの仲間なんだよ」

 波の音が、ざざん……ざざん……と沈黙をこそぎ落としていった。

 私と幸一くんとの間に、もうずいぶんと褪せた沈黙が降り積もっていった。幸一くんがあんまりに呆然とした様子でいたので、私は少し不安になって、二年前までなんの躊躇いもなくそうしていたように、ほそっこい首に腕を回して抱きついてみた。

 なにも変わっていなかった。変わったのは、肩にあごを乗せられるぐらい伸びた私の背だけだった。二年前と比べて、幸一くんの体はどこも変わった様子が無いように思えた。十八歳から二十歳にかけての成長なんて、中学二年生にとっての月曜から金曜にかけての五日間での成長とそこまで違った意味を持たないのかもしれなかった。

 幸一くんが私の背に手を回した。鯨のヒレみたいに大きくて平べったい、青年の手だった。

「僕も、ずっとこうしてみたかった」

「う、ん」

 私は軽く頷いてから、ちょっと小首を傾げてみた。

 幸一くんの様子がところどころへんだった。だって、二年前まではしょっちゅうやっていたことなのだから「こうしたみたかった」と言うのはおかしい。もしかして、幸一くんもどこかで頭を打ったのかな?

 しとしとと降っていた雨がさめざめと降る小雨に変わった。

 幸一くんが、私の肩に手を置いて、心に目を合わせてきた。

 私はたちまち安堵した。深淵のような瞳。絵の具の白に青を少し垂らして塗ったような頬。筋の通った小鼻。花弁のように柔そうな唇。どこからどう見ても、私の大好きな幸一くんだった。

 幸一くんの目が細まった。右の眉を斜めにして、困ったように微笑んできた。懐かしい表情だった。私も微笑み返そうとして

「きみ、僕と同じ種なの?」

「へえ?」

 顔をしかめた。種? しゅって、なんのシュ?

「きみ、さっき、この世界で二人だけって言ったでしょ。ふふっ、二人じゃなくて二匹なのに。もうすっかり人間になり切っているんだね。僕はそういうの嫌いじゃないよ。むしろ好きだし、尊敬するよ」

「さ、幸一くん? なに言ってるの? 冗談はやめてよ、もう。さっきのは比喩だよ。ほら、幸一くんはよく自分のことを絶滅危惧種とか52Hzで唄う鯨になぞらえて話していたじゃない」

「うん。僕は絶滅危惧種だし鯨だよ。じゃあ、きみは違うの?」

 濡れて少し灰がかったキャスケットを見て「シロイルカかな?」と首を傾げていた。

 私は、二年という歳月はすごいんだなぁ! と、まともに向き合うことをやめにした。

「そんな冗談を言うようになったんだね。うん、面白いよ。あはは、は……。でも、あの……もうそろそろいいよね? 私はひとだよ。分かってるでしょ?」

「冗談を言っているのはきみのほうだろう? まっさか。人だなんて!」

「ちょ、ちょっと幸一くん、いったいどうしちゃったの?」

 幸一くんが戸惑ったような表情をした。そうしたいのは私のほうだ。そして呆れたような笑みを浮かばせた。そっちも、そうしたいのは私のほうだ。

 きょろきょろと私のカラダを点検しだした。そして「サチイチクン」と呟いて、さっと顔色を青くした。

「きみ、人なの? ほんとうに?」

「うん。幸一くんもそうでしょ?」

「それ! サチイチクンって、人が人につける名前だろう?」

「そう。親が最初に子に押しつけるものだよ」

 幸一くんはひどく慌てた様子で、あっちに二歩、と思ったらこっちに三歩、と……うろうろうろうろ、まるで心配事ができた老人みたいに落ち着きを失いだした。私はその様子を引きつった笑みを浮かべながら眺めていた。

 どうしたらいいか分からないとき、私はこうして笑んでしまう。ふざけてるの? って、これもひとに嫌われる要因の一つであります。かしこ。

「おかしいなぁ。人は少なきものじゃないはずなのに」

 くるりとターンして、じっと私を見据えた。灰色のl《エル》パーカーに黒のジーンズ。その上から大手の黒い羽織を羽織っている幸一くんは、鯨……みたいにも見えた。

 それにしても、なんて優しい眼差しをしているんだろう。幸一くんの前では誰の心のどれほど膿んだ部分も、まるでその優しさに麻酔をかけられたみたいに、なにが痛む暇もないまま、さらさらと冷めた砂のように崩れ去っていってしまうのだ。

「きみは、復興の火のことを知ってるかい?」

「ううん、なにそれ。新しい小説のタイトル?」

「小説って、昔、太平洋を泳いでいるときに見たことがあるよ。外の世界で出会えるいろいろなものを放棄してあんな小さな文字のほうを大事にするなんて、人間はまったくどうかしてる……って、ああ、そうじゃなくて!」

「幸一くん、小説を読むのが好きだったのに……」と私はぽそりと呟いた。

「さっききみは、二匹と言わずに二人と言ったよね。それは、きみがほんとうに人だからなの?」と幸一くんは訝しげに訊いた。

「だから、そうだってば。ちょっと、ほんとにどうしちゃったの。幸一くんはそんな冗談を言うようなひとじゃなかったはずでしょ?」

「きみは、なにか重大な勘違いをしているみたいだ」

 幸一くんが目を伏せて、町のほうを向いた。

 防波堤からふわりと下りて、なにか感嘆の声を漏らしながら私のリュックを持ち上げた。私もとりあえず後を追って、もたもたと防波堤から下りた。スマートに手を貸してくれるのも、間違いなく彼が幸一くんだからだと思うのだけれど、違うのかな。まさか双子? これ以上家族関係がどろどろになるのなんてご免だよ。

 靴裏をアスファルトの地面につけたのと同時に、幸一くんが私の手を引いた。凄まじい力だった。やっぱり割れていた懐中電灯のレンズの破片が、きらり、と混乱する私をあざけるように光っていた。

「もしもきみが人なら、いますぐここから離れたほうがいい」

「ど、どうして?」

「もうすぐここにも少なきものが湧いてくるからさ。近くで音もするんだ」と言って、幸一くんは私の手を二回、まるで漁船に結ぶ荒縄の強度を確かめる漁師さんみたいに引いた。私は抗わなかった。私の靴の下敷きになったレンズの破片が、パキキ、と耳にいい音を立てた。

 幸一くんがまた町のほうを向いた。まるで些細な物音に反応した猫のように俊敏で、どこか不穏な動きだった。

「嫌な音が近づいてきてる。行こう」

 幸一くんが私の手首を掴んだまま駆けだした。私は前につんのめって、半ば彼に浮かされているような格好で駆けた。


 辺りはもうすっかり暗くなっていた。幸一くんの輪郭がぼやけて光っているように見えるほどだ。人工的な灯りの灯っていない町は、まるで森の奥に潜む遺跡のようだった。或いは、深い海の底に沈む海中神殿のようだった。荘厳で、静寂で、意識のおりを震わしてくるかのような圧迫感があった。

「さ、幸一くん! スピード! スピード! んぎゃっ」

「西に曲がるよ」

「西ってよく分かんないけど、もう曲がったのは分かるよ! ねぇ、どこに行くの? せっかく帰ってきたんだからお母さんに会いに……あぁでも、もうそんな必要はない、のかな」

 幸一くんが減速した。私は頭がくらくらしてきた。

「やっぱり、きみはなにか勘違いを」

 している、まで言われなかった。幸一くんが見つめたまま動かなくなった先を、私もじっと目を凝らして見てみた。当然、暗くてよく見えなかったので、幸一くんのもう片方の手からぶら下がっているリュックから垂れた懐中電灯を手探りで探り当て、電源を入れた。暗闇の中でレンズという遮蔽物を無くした光が、驚くほどよく先のほうまで闇を払った。


 私の呼吸のリズムと同期してゆらゆらと揺れる、小さな白い光。

 電信柱、濡れて光るアスファルト、民家の外壁、闇、闇、あれっ……?


 違和感を感じた箇所に、さっと白い光を戻した。


「あっ? ……むぐっ」

 幸一くんの手のひらが口に当てられた。私はもがいて、むぐむぐと「どうしたの」からだいぶ退化した声を漏らした。幸一くんはひどく慌てた様子で、そのくせ「あれー」とか「うーん」とか低く唸りながら、ひどくもたもたとした動きで……ようやっと懐中電灯の電源を切った。


 記憶を反芻したら、私の心臓が激しく鼓動しはじめた。


 あの箇所。私が違和感を感じて照らした場所に、半魚人が立っていた。

 巨大な体躯がゆらゆらと揺れて、腰の位置が悪夢みたいに高い位置にあった、ような気がした。この町ではめったに見かけないような鋭利な格好をしていた気もする。間違いない。あれは半魚人だ。灰色の肌が湾曲した光を帯びていたのは、粘液を分泌していたから、ようは、ぬめっていたからだ。あの半魚人が、町のみんなを喰っちゃったんだ……!


「いまは夜だから、せっかく彼らの意識も鈍っているんだ。強い光なんて当てちゃいけないよ」幸一くんの声が耳から一番近い所でした。

「ど、どういうこと? 彼ら、って、あれはひとなの? まさか、幸一くんが東京で作ってきた知り合いとか?」

「ホホジロザメだよ」と幸一くんは困ったように言った。


 雲間から、乳白色の光を放つ月が覗いた。じわりじわりとサイリウムみたいに光りながらゆっくりと差し出されてきた幸一くんの手を、戸惑いながらも握った。


 ぞくっとした。

 濡れた魚の死体みたいに冷たい手だった。


「こわがってるの? 無理もないよね。ここに人が来るのなんて初めてだもの」

 私は黙った。何時かは分からないけれど、こんなに夜遅くまで一人で外にいたのは初めてだった。それも、ひとがいない町。夜なのに灯りが灯らなくて死んだように静かな町に、一人でいたのは初めてだった。

 とてつもない不安が小さな虫の大群のように私の心を襲ってきた。ここはどこなんだろう。どうしたらいいんだろう。私は誰かの悪夢の中の住人みたいに、なにも分からないまま、絶対にくるだろう恐怖をただ待つことしかできなかった。

 縋るように、薄ぼんやりとした光を放つ二つの目を見上げた。手に優しい力が籠められた。

「もう大丈夫だから。僕を信じて」

 私はまた、重たくもたれた。顔をくしゃっと歪めて、冷たくなった幸一くんの手を握り返した。

「ずっと、信じてたよ?」と私はほんとうを言った。

 私たちは、今度は静かに、しばらく歩いた。私の涙腺が再熱した。意味の分からないことばっかりだったけれど、幸一くんに手を引かれているこの時間が幸福なことは間違いなかった。


  復興の火を灯しに行こう

  裏ではぞめく 人の町


 風に吹かれるビニール袋みたいに動きの読めないスキップをしながら、幸一くんが歌った。あっ、と思い当たった。

 どこか懐かしい気がしたのは、幸一くんの歌声だったからだ。私はうれしくなって、ハモった。

「面白い歌だよね。東京のひとが作った歌なの?」

「ふふっ、ほんとうに驚いたよ。鯨の歌を人が歌い返してくれるなんて!」

 レンズのなくなった懐中電灯のどこかがカシャカシャと鳴り続けていた。凪の中で、私たちは二人きりの行進を続けた。頼りにできるのは、淡い乳白色の月の光と、幸一くんに似た優しい彼だけだった。




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