day1深夜 鯨:住処
朝というのは、始まりだ。
私は布団に寝転がりながら、うーん、と伸びをした。途端、昨夜セットしておいた携帯のアラームが七時半の時刻を報せた。瞬時に電源を入れて、黙らせた。携帯アラーム早切り全国大会なんかがあったら、私は優勝するだろう。そして世界に羽ばたく。我ながらつまらない減らず口だ。
義務教育制度に振り回されている真っ最中の私は、小、中と毎朝同じ時間に起きていたせいか、どうしてか、アラームが鳴る五分前に目を覚ます体質になった。じゃあアラームをセットしておく必要はないじゃないかと考えるひとはもちろんいるのだろうけれど、そう言われて実際にセットしなくなるひとが現れるだろうとかわいく信じ込んじゃっているひとはその中に果たしてどれくらいいるのだろう。
私は私の体をそこまで信用してやっていないから、一応の保険としていつまでもアラームをセットさせておくつもりだ。ひとの体は本来あまのじゃくだから、どうせアラームをセットしなくなった途端に便利な体内時計は消滅して、朝早くに起きるのに苦労する寝坊助に早変わりしてしまうのだ。
私はのそのそと起き上がって、レースカーテンを開けた。新鮮な陽光が私の部屋により明度を上げて降り注いだ。かんぬき式の鍵を解除して、ガガガッ、という骨に悪い音を立たせながら窓を開けた。
海辺の朝の町の生ぬるい空気が私の肺をいっぱいに満たして、すぐに追い出された。潮風は吹き込んでこなかった。私の髪がもう幾日も水を与えられていない植物みたいにだらりとただ下を向いて、ぴくりとも動かなかった。今朝もやっぱり凪いでいたからだ。
結局、私は一日も冒険をすることなく帰ってきてしまった。しかし収穫はあった。というか、最終目的を達成した。幸一くんと一緒に、私たちを育み、そして隔てた家庭に帰ってきたのだ。
しかし──私は特大のため息をついた。昨日一日で巻き起こったたくさんの訳のわからないことが私に与えてきた膨大な量のストレスは、当たり前と言えば当たり前だけど、たった七時間やそこらの睡眠では消滅してくれなかった。ハゲが広がりそうだ。
ぶるり、と未知への恐怖でカラダが震えた。憂鬱な朝。哲学的に言うとメランコリーな朝だ。どうして哲学的に言おうと思ったのかは分からない。むりにひねりだそうとして考えてみるなら、昨晩、幸一くんに似た彼に明かされたこの町についての様々な事実が、まるで哲学みたいに難解で、神とか火とか、そういう抽象的な言葉をいっぱいに使って言い表されていたから……なのかな。
物干し台に出て、昨晩から干しておいた選りすぐりの冒険服を取り込んだ。雨に濡れただけだし、手洗いしなくてもオッケーだろうとキレイにしわを伸ばしてからただ干したのだ。私はこういうところ、けっこうずさんだった。几帳面でA型の幸一くんとは思わず頭を抱えたくなるぐらいに違った。私はО型だった。О型じゃあずさんですわ、と、いま笑んでいたそこのきみ、たぶんB型でしょう。
雪色のTシャツの上からショート丈のオーバーオールを着て、右側のポケットに絆創膏を三枚、左側のポケットに勉強机の引き出しから取り出したカッターを入れた。新幹線の中で摘発されたら怖いなと思って、昨日は持っていくのを躊躇った代物だ。
べつに、むやみやたらに振り回そうってわけじゃないけれど、ただ……すごい。カッター一つを持っただけで、なんだか強くなれた感じがした。自信を持つって、冒険に出る子どもにとってはとても重要なことだ。
部屋の片隅にあるドレッサーから予備のヘアブラシを取り出して、鏡の私と向き合ってから、粛々と髪を梳かした。うるうると潤んだ黒目がちの目の周りがうっすらと赤らんで腫れていた。いつもは綺麗に蒸された目玉焼きの白身みたいな純白をしている白目の部分にも幾本か痛々しく赤い線が走っていた。泣いたひとの翌朝の目だ。
まるでうさぎみたいだった。白い肌に黒い髪。マーブル模様のちっこいうさぎ。
そう。昨日のあれこれは決して夢ではなかった。こんな風に泣き腫らした目を見せつけられては認めるしかなかった。寝て起きてみても、幸一くんに似た彼の死んだ魚のような手の感触と、ころころと目まぐるしく変わる表情と、その中でも一等素敵だった優しい笑みは生々しい鮮度で記憶に残っていた。
私は目を閉じ、まだ新鮮で、
私はあれから、幸一くんに似た彼に手を引かれたまま、乳白色の月光の下で行進を続けた。
私は月を見上げて、日中とはまるで違う表情を見せる深夜の町の風景に驚きながら、囁くようにそっと尋ねた。
「ねぇ、私たちはどこに向かっているの?」
「さっきまでは、少なきものの目につかないところ。それで、いまはとりあえず、巨大な復興の火のところだよ」と幸一くんに似た彼が答えた。
「そこにはあとどれぐらいで着くの?」
「夜が明ける前には」
私はくらり、とした。季節のことを計算に入れていなかったならまだしも、幸一くんに似た彼はちゃんと夏の日の出の時間を考えたうえで言っていた。私は大股で歩いていく幸一くんに「もうそんなに長くは歩けないみたい。なにがなんだか分からない。気持ちがへとへとだよ」と白状して、なぜだか実家の場所を忘れちゃっていた幸一くんの手を今度は逆に引っぱって、家に帰った。
鍵穴に差し込んだ鍵を静かに回した。玄関のドアの取っ手を赤ん坊にもここまではやらないだろうというぐらい、慎重に、ゆっくりと引いた。幸一くんに似た彼はそんな私を不思議そうに見つめていた。
「きみ、ほんとうに人なんだね。住処に入れるんだ」
人一人分が通れるぐらいの隙間を苦労して作った私は、先に幸一くんに似た彼を玄関に入れた。そしたら、勢いよくドアを開けられた。私は今年一番啞然とした。
「ちょっと! お母さんにバレちゃうよ! こんなに遅くに帰ってきたら絶対に怒られちゃう。もしかしたら警察だって呼ばれてるかもしれないんだよ!」と言ってから、私は慌てて口元を押さえた。なんて間抜けだ。
幸一くんに似た彼は、困ったような顔をした。
「さっきも言ったでしょ。この町に人が来たのは初めてなんだ。きみの仲間はこの家にも外にもどこにもいない」
私はちょっとドキリとして、廊下に蔓延する闇に溶け込んでいく大きな背中に手を伸ばした。
「そんなわけない」
私は家中を探し回った。家も電気が止まっていた。
幸一くんに似た彼が言った通り、灯りの灯らない家はまるでただの住処に思えた。私たちを外から隔てるための壁と、雨を防ぐための屋根。その他の家具や備えつきのキッチンなどは闇の中で沈黙して、いつものあの何かしらの騒々しさを失い、ただの木、または金属と化していた。人間味を得るためには、まず光が必要なのだ。私は初めて、朝に焦がれた。
三十分やそこらで現実逃避を諦めた。
私は大人しく居間のソファに座りこんで、ターンテーブルの上でゆらゆらと揺らめくキャンドルライトの火を眺めた。幸一くんに似た彼はライトブルーのカーペットの上にぺたりと雄の人魚みたいに座りこんで、私の顔を心配そうに見上げていた。
「大丈夫?」
「……ねぇ、これはいったいどういう状況なの?」と私は訊いた。幸一くんに似た彼が夜の海のような空気を吸ったのと同時だった。
「ここは、少なきものの町なんだ」
彼はそれから、涙の国の海の底にずっと寂しく沈んでいた物語のような話を悲しいぐらいにとつとつと語ってくれた。
「僕ら少なきものは復興のために集まるんだ。人間たちが神さまにお祈りするのと同じように、僕らは人の姿を取って、町に復興の火を灯す」
「少なきものって、動物? さっき見かけたのはホホジロザメで、あなたは鯨?」
「うん。他にも色々な種の少なきものがいるはずだよ」
「他の絶滅危惧種たちも同じようにひとの姿を取っているの? そうならどうして?」
彼はちょっと動きを止めて「ああ、人間たちは少なきもののことをそう呼ぶんだね」と納得したように頷いた。
私も頷き返した。やっぱりそうだ。十中八九そうだろう。なんの種かは分からないけれど、鯨はそのほとんどが絶滅に瀕しているし、彼が勘違いしたシロイルカも、さっき見かけた彼曰くホホジロザメもそう。色々まともに向き合うことをやめにしてこの町のことを推察すると、ここは彼の言う通り少なきもの、つまり、絶滅危惧種の町なんだろう。ううん、意味わからないけれどね。でも、いいの。私は世界に対してまともに向き合うことはやめにしたんだ。
「人は神さまのお気に入りなんだ。なにせ、自分の姿に似せて創ったぐらいだからね。僕らは僕らの祈りがこの世界を
「きっと、って、あなたたちが決めて、すきでそうしてるんじゃないの?」
「分からないんだ。元々決まっていることだから。ちょうど人間たちが僕らの一挙一動にそれらしい意味をつけたがるように、僕らもそうしてみただけさ。人間たちはいちいち意味づけをしたがるだろう? きっと、こんなそれらしい話を思いついたのもより人間に近づけば自分たちの種が復興するだろうと考えたどこかの少なきものなんだろう」
それはそれは信じがたいお話だった。幸一くんが知ったら落ち込みそうだ。
絶滅危惧種が絶滅危惧種たる所以は、そのほとんどが人間のせいでだった。そんな彼らがひとの姿を取って種の復興を祈っていただなんて、そんなお話はなんだかとても残酷で、下品な表し方をすると、胸糞が悪いように感じられた。やっぱり私はまだ、フィクションとしてこの状況を捉えていた。実際に、ひとらしいひとがどこにも見当たらなくて、暗くなっても灯りが灯らない、まったくおかしな町に身を置いているというのにだ。
私はやはりあの屈辱の夏の日から、世界にまともに向き合うそのことになんの価値も感じられなくなってしまったんだろう。
「朝陽が四度弧を描いて、月が三度弧をなぞるまで」
そんな私の葛藤なんて露知らないような顔をして、彼が目を閉じ、歌いだした。
私の胸が、まるで中枢で悲しみの種が発芽したように、じくじくと痛みだした。
昔、満員のバスの中、誰ひとり席を立たない空間に悪寒がしていた。ほんの些細な気遣いのつもりでお婆さんに席を譲ったら、涙を流して喜ばれた。皺くちゃの手が合わさって「ありがとう」と草を煮つめたような呼気がこぼれるたびに、茶色く伸び切った手の皮が震えるようだった。
バスを降りて、お婆さんから貰ったハッカ飴をころころと舌で転がしているとき、ちょうどいまと同じ気持ちになったのだ。胸糞が悪くて、じくじくと痛むように悲しくて、そのくせ白々しいほどにスースーしていた。他人事の私と、純粋な私と、人間本来の気持ちが綯い交ぜになっていた。
私は綯い交ぜの気持ちを払いきれないまま、だらだらと彼の顔を見つめ続けた。
それにしても、いままで二度とは思い出されなかったような記憶のフィルムの一端が、こんな生涯通して何度も思い出すようなシーンで照合のライトを当てられるなんてちょっと不思議だった。記憶というのは果たして私たちの支配の手が及ぶところにはないのかもしれない。
ときが経って、記憶のフィルムが膨大な量にまで増えて、それに反比例するように照合のライトの機能が衰えるだけなのかもしれない。ひとが真になにかを忘れることなんてないのだ。ただ、かさばる記憶のフィルムがどんどん暗い影のほうに押しやられて隠れていってしまうだけで、思い出せなくなるだけで、その記憶自体が無くなってしまうわけじゃない。そう考えたほうが、これから先色々なことを思い出せなくなるだろう私たちにとって幾分か救いになるような気が、ふと、した。
彼がほしがりの目つきでむんっと黙ったので、私は不安定な音程でも頑張ってハモった。
「朝陽が四度弧を描いて、月が三度弧をなぞるまで……これはつまり、四日間ってこと?」
「人間の暦で言うとそうだね。僕らは四日間、この町で復興の火を灯すんだ」
「あっ!」
ソファの上でちょっと跳ねたら、キャンドルライトの火が大きく揺らめいた。彼の山形の影も揺らめいて、一瞬、壁の白と円形型に混じり合ったその影が、まるでこの部屋にいつの間にやら潜んでいた鯨の一部のように見えた。
私は再びあの完全な闇が訪れることを恐れて、身じろぎ一つせず続けた。
「いや、ちょうど阿波踊りの期間と同じだなぁと思ったの。現実世界で毎年行われる祭りのことでね。こことは正反対に騒がしいんだよ」
「へえ。なにか関係があるのかもしれないね。神さまはお祭りが好きだから、よく注目してもらえるように僕らはこの町に来るのかも」
「かも、かも、って……ほんとうになにも分からないのね」
「なにもかもを分からないだけで、なにも分からないわけじゃないよ。僕らは生まれたとき既に少なきものの町のことを分かっていた。少なきものになったらどうすべきなのかも分かっていた。大切なことは最初からぜんぶ分かっているものなんだ。人間だってそうだろう?」
「まさか。それはきっと動物だけだよ。人間は最初はなにも知らなくて、成長していくうちに色んなことを知っていくの。数字の数え方とか、言葉の使い方とか」
「そうなんだ。じゃあまだ少ししか生きていなさそうないまのきみは、あまり大切なことを知らないようだね」
私はむっとした。そして、たったいま私自身が間違えたことに気づいて、ドキリとした。
「ううん。私たちもほんとうは、大切なことは最初から知ってる。大切なことを知らないひとは長く生きている大人のほうにむしろ多いわ。ほんとうに、幸一くんと話してるような気分になってくる。幸一くんも、よくそうやって諭すように話してくれた」
「サチイチクンって、きみにとってどんなひとなの?」
「とても大切なひとだよ」
「お兄ちゃん?」と幸一くんに似た彼が首を傾げた。
「なんで知ってるの! あっ、あなたやっぱり幸一くんでしょ!」
「違う! 初め、きみが僕にそう呼びかけてきたんだろう?」
「あぁ、そうだった」
がっくりと項垂れた私に、また心配そうな視線を投げかけてくれた。そういう動作もいちいち幸一くんっぽかった。動揺して、ふいっと顔を背けた。
「ねぇ、きみが人間であることは内緒にしておいたほうがいいよ。ほとんどの種は人間に仲間を殺されたり、生息域を追われたりしているから。神さまの見ているところで争いなんて起こさないだろうけれど、人間が来た前例なんていままでにないだろうし……うん、やっぱり、さっきも言った通り、気づかれないに越したことはないよ」
「あなたたちも、人間のせいだって気づいているのね」
「そりゃあね。僕らもそこまで間抜けじゃない」と彼はにこやかに言った。
背後から不意打ちを受けたようだった。同じく人間である私でも、動物たちを手前勝手に減らし続ける人間にいい印象を抱いていないのだ。実際に被害を受けている動物たちなんてよっぽどだろう。人間の言い方になぞらえると……それこそ、殺したくなるぐらいだろう。
そう考えた途端、目の前の彼のことが余計に分からなくなった。私が人間であるということを知っても、鯨の彼は私に協力的な姿勢をみせてくれていた。私はちょっと背筋を伸ばした。
「それにしても、現実世界から四日間も動物が消えるんだね。動物園の動物たちが突然消えたら、みんな驚いてしまいそう」
「いや。いまここにいる僕らは思念体だよ。肉体はちゃんと向こうに残っている。そりゃ、いつかは消えるだろうけど。骨と皮になって、朽ち果てて、大地や海に還って、目に見えなくなることはあるだろうけど、そのときがくるのはまだもうちょっと先だと思うよ」
「なんの話?」
「僕らの正体の話」
「そうじゃないの。思念体ってなんのこと?」
「言い換えると、魂かな」と彼はちょっと考える素振りをしてから答えた。
「あなたたちって魂なの? そっか。だからひとの姿を取ったりできるのね」
「きみもだろう?」
私はぽかんとした。私の影が大きく手を振った。
「え? いやいや。私は違うよ。だって魂ってカラダから抜けたら一番ダメなやつでしょ? だって、魂が抜けたら、つまり……」
「死ぬね」と彼が間を置かずに言った。
「そうだよね。死ぬよね」私も間を置かずに二度頷いた。
私は探偵ぽく、チェック型に伸ばした人差し指と親指の間に顎をのせて唸った。ピンと閃いたら頭上に浮かぶ空想の電球が実際に辺りを明るく照らしてくれたら楽だったのに。
私は否定の言葉だけが欲しくて、訊いた。
「あなたは死んでるの?」
鯨の彼は少しの情緒も滲ませずに答えた。
「うん。僕の命はもう尽きたんだ。僕らはこれから生まれる僕らのために、復興の火を灯して逝くんだ」
今晩はもう、私の涙腺がふやけていた。私は顔を歪ませて、まるで栓を閉め忘れた蛇口のように仕様もなく涙を滲ませた。なにかが死ぬということは、言葉もいらない悲しいことだ。
幸一くんの姿で、僕の命はもう尽きた、だなんて言わないでほしかった。すべてを達観したような姿勢で、しゃんと、死んだ、と、なにを考えているのか分からない孤独な瞳で、幸一くんなら絶対に言いそうなのだ。
私はいま、心臓に虫が這っているような心地でいた。背中に嫌な冷や汗が滲んだ。自分の中で整理をつけるためにも、浮かんできた疑念を口に出した。できることなら、不気味な輪郭を持ったその疑念たちを、目の前の話し相手に粉々に打ち砕いて欲しかった。
「私、ここに来る前に階段で足を踏み外したの。たぶん、頭を打った。それで起きたら、雨が降ってた。ぼうっとしていたら、どこか懐かしいような素敵なテノールの歌声が聴こえてきて、私は光に吸い寄せられる羽虫みたいにふらふらと歩いていった。そしたらそこにあなたがいた。幸一くんとまるきり同じ姿形をしていたあなたは、再会を喜ぶ私に戸惑うように鯨と名乗った。そしていま、こんな嘘みたいな世界について嘘みたいなことばっかり言われている。もしもあなたが正直者なら、ここは間違いなく、現実の町じゃないってことになるのよね?」
「うん」
私はしばし固まった。たったの二文字だけで、ぜんぶを肯定されてしまった。
頭を抱えようとして、宙に上げた腕をピタリと止めた。あれだけ強く打ったのに、頭はまったく痛んでいないというのがずっと謎だった。痛覚のあるカラダを置いてけぼりにしてしまったというなら説明もつくような気がした。
「私も死んでるの?」
鯨の彼はなにも答えなかった。肯定を肯定する沈黙が、この部屋の天井から静かに降る柔い雪みたいに、重たく、やがて固くなるほど大量に積もった。
──そうか、と思った。
私はまだフィクションの世界にいた。現実味が無くて当たり前だった。だって、ここはフィクションの世界だ。そうとしか考えられなかった。こんな突拍子もない話が現実にあっていいわけがないのだ。だけど、あっていいわけがなくてもあるというのがこの世界の不条理なところだった。
「死ぬって、もっと真っ暗で寒いことなのかと思ってた」と私は呟いた。
「白むほどに明るくて、火のようにあたたかいことだよ」と幸一くんに似た彼は言った。
「幸一くん、帰ってきてくれたのかなぁ」
こんなときにも、思い浮かぶのは幸一くんのことだった。
どっと悲しみの津波が押し寄せてきた。白い肌のどこかが破けて、悲しみの水がそこから放出されて部屋を満たすイメージが脳裏に浮かんだ。
息苦しかった。私は私の内部いっぱいに満ちた水に溺れていた。陸に打ち上げられた魚みたいに口を開けては閉じて、開けて、もっと開けては半端に閉ざした。「きみ」と幸一くんの声が聞こえた。苦しげな魚みたいに口をハクハクさせているくせに、息は疲れ切った老犬みたいに浅くなっていた。さっき浮かんだ大層なイメージとは反するように、私はちびちびと涙をこぼした。
幸一くんの姿は二年前のあの日からなにも更新されていなかった。私は二年もの間、幸一くんに会っていなかった──私の知っている幸一くんの姿を取った鯨の彼に会ってから、その事実が氷柱のように冷たく鋭い凶器になって、私の心を突き刺した。
いまを更新するのが生きるということだ。もしも私が死んだら、幸一くんとのいまを更新する機会がなくなってしまう。ほんのわずかに見えた希望を掴もうとすることすらもできなくなってしまう。それはとても恐ろしいことだと思った。死はそういう意味で、とても恐ろしいことだった。
「まだ、諦めるには早いよ」
ふと顔を上げると、鯨の彼が前のめりになっていた。ターンテーブルに手をついたら、火がぶわっと揺らめいた。私はよっぽど悲壮感あふれる表情をしていたのだろう。なにも悪くないはずの彼はとても申し訳なさそうに黒目をうろうろさせていた。
「何度も言うけど、少なきものの町に人間が来たことなんてないんだ。きみも知っての通り人間は多きものだから」と、彼は右手の人差し指を一本、左手は親指から小指までの五本をぜんぶ立てて言った。
「だから、きみが少なきものの町に来てしまったのはなんらかの手違いなのかもしれない。根拠はないけど自信はあるよ。きみはきっと大丈夫。絶対に元の世界に帰れるさ」
絶滅危惧種の町のこと──成り立ちやそのルールについて──をほとんどなにも知らない私にも、そんな希望的観測が未来になる可能性はほとんど0に近しいんだろうと分かった。
それでも、私は安堵した。まるで約束事や真心ある励ましに生じるようなあやふやな安心感が、冷たかったり棘のある根を張られて痛んだりしている私の胸に、満潮のように穏やかな速度でやさしく満ちた。
「どうして協力してくれるの? 私はあなたたちが忌み嫌う人間なんだよ?」と私は訊いた。至極まっとうな疑問に思えた。急に現れて「お兄ちゃん!」と盛大なひと違いをかました人間に協力する理由は、気まぐれや悪巧み以外ないように思えた。そして、実際にそうなのかもしれなかった。
「僕はうれしいんだ。ずっと独りぽっちで海を泳いできた。僕の歌は誰にも届かないように創られていた。ほんとうにさびしかったんだ。それで、とうとうこの町に来ることになって……僕は復興の火を灯すつもりなんてなかったんだ。僕に仲間がいるとは到底思えなかったし、僕のようにさびしい思いをする仲間を増やしたって余計に辛いようだと考えていたから。これからどうしようかと途方に暮れて、ただ海を見つめて誰にも届かない歌を歌っていたら……驚いたよ! きみが僕に歌い返してくれたんだ! そのときから、きみは僕の特別になったんだよ。僕はきみを大事に想う。大事なきみが困っていたら、僕は助けてあげたい。きみは正真正銘、神さまのお気に入りの人間なんだ。どんな願いだって聞き入れてもらえるさ」
「ありがとう」
私はすなおに感謝した。私のしたことが誰かの胸にうれしさの火を灯していたのだ。うれしい。心がほっこりした。
「これから冒険を共にするあなたのことは、なんて呼べばいいかな」と私は彼の手を取って訊いた。
「なんでもいいよ。人間は名前をつけるのが好きだね」
私は考えた。彼は気にしないのだろうけれど、ひと違いの名前で「幸一くん」とこれから先も呼び続けるのはなんだか失礼なような気がした。とは言っても、彼は青年期の人間だ(鯨だけど)。愛玩動物じゃあるまいし、私がじきじきに彼の名づけ親になることだってなかなか失礼なことのように思えた。
それなら、既存の名称をつけたらいいのかな。コードネームみたいに、そのひとの特徴に合わせた名称で呼べば──たとえていうなら、ナイフ、とか、マウス、とか。以前、お昼のロードショーで放送されていたスパイ映画の中で、スキンヘッドのグラサン男とグラマラス美女がそんな風にお互いを呼び合っていた──違和感はまだしも、こっぱずかしさぐらいならどうにかなるかもしれなかった。
彼の顔を隈なく眺めまわした。鯨から連想した名称で呼ぶには、あまりに幸一くんに似すぎていた。
私は混乱して、オーバーヒートしたロボットのように、ぶつ切りの言葉を口に出した。
「うーん……おにぃ……に、に……ニィ!」
「ニィ? 発音しやすくていいね。きみの名前はなんていうの?」
私は迷った挙句、当て字でない本当の名前を名乗った。
いくら幸一くんに似ていても、彼は鯨で、そんな気はぜんぜんしないけれど、でもまったくの初対面なのだ。善良で、正直者で、真摯に協力的な姿勢で向き合ってくれている初対面のひとに偽名を名乗るというのはあんまりにも思い上がりが過ぎていて恥ずかしいことのように感じられたし、それにのちのち、善悪の手酷いしっぺ返しを食らわされそうにも思えた。
「ふうん。希望っていうんだ。いい名前だね」
「逆境の中でより強く輝くような子に育ってほしい、って、私のお母さんがつけたんだよ」
「へえ! ますますいい名前だね」
こっちはまともそうな由来だよね、という皮肉の言葉をぐっと飲み下した。まんまと照れたけれど、ま、鯨だからキラキラネームなんて知らないんでしょ……とむりに心を冷めさせた。名前を褒められたのなんて、小学二年生の頃、真性にテキトーだった担任の先生に教壇から名指しされたとき以来だった。どういう経緯でそんなことになったのかは忘れたけれど、そのときに受けた衝撃はいまでもはっきりと覚えていた。遠い時間を隔てていても比較の対象にできるぐらいだ。いまさっき受けたのはそのときの倍を軽々と越えていくぐらいの衝撃だった。
言葉の輪郭の純度とそこに内包された真心の総量がぜんぜん違った。あの幸一くんでさえ、ぶーたら文句をタラしていた私にのっかって「苦労するね」と苦笑したぐらいのやばい名前を「いい名前だ」と、海の底で小粒に光る宝物を発見したときにでも浮かべるようなうれしげな笑みを浮かばせて褒めてくれた。
私はうれしかった。そして同時に恐ろしくもあった。引け目も感じた。世界に対して他人事になっているいまの私の目には、彼のまっすぐさはとても眩しく、時おりそのあんまりの眩しさにぼやかされて、とても鋭利であるように見えた。
私たちは握手をした。
主に最後のほうの一連のやり取りで、私は彼と打ち解けられたような気がしていた。だから精神を消耗した。誰かと打ち解ける過程では脳がいわゆる一種のハイ状態になって、まるで調子のいい酔っ払いみたいに疲労を感じなくなるけれど、打ち解けることができれば途端にどっと疲れが出てくる。ソファの上に寝転がってうーうー唸る。お母さんは一週間に三日のペースでそうなる。二日酔いみたいな感じだ。
いままでこんな時間帯まで起きていたのは一年の中でも大晦日ぐらいしかなかっただろうというぐらいの遅くに、私は自分の部屋に行って、まったく図太いことにすやすやと眠った。
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