座礁
町はざわざわと草木がこすれ合うような音を立てて、紅葉よりも色鮮やかに色めきだっていた。
今日は阿波踊りが開催されるその一日目だった。歩行者天国用に封鎖された道路の上では、編み笠を目深にかぶった踊り子たちが一糸乱れぬ動きで、一斉に手のひらを反したり、利休下駄をカロカロと鳴らしたりしていた。
──ヤットサー、ヤットサー……。
ここは市の中でも比較的小さな町だけれど、阿波踊りの期間中は内側から湧き出てきたひとたちと外側から流れ込んできたひとたちとで溢れかえった。
山側にある神社では縁日が開かれて、屋台がずらっと並んだ。慣れ親しんだ伝統行事よりもジャンキーなフードを堪能したい少年少女たちは固い手触りの浴衣を着て、周囲の喧騒を
夕時の空にはところどころちぎり雲が散っていた。利休下駄の音が鳴るごとにぷつぷつとちぎれていっているように、その雲は見上げるごとに暖色系の点描画みたいに細かくなっているように見えた。
道路の両脇にはひとがいた。というか、ひとしかいなかった。たまにポストや鳩がいた。歩きながら、横目でちらりと有名連の踊り子たちの様子を見やった。まるでネジを巻かれたおもちゃみたいに、誰も背かず、乱れず、忠実で、あらかじめ決められた動きをただ
私は一人、静かにため息をついた。私には到底できない芸当だ。だってあんな狭っこい教室の中でさえも、ズレてばっかりで、邪険にされてばかりなんだから。きっと、立派な踊り子にはなれません。
なれないものばかりが見つかって、なれそうなものは一つも見つからなかった。なりたいものは……分からない。でも、なにかになるための可能性は残しておかなくちゃならなかった。あの屈辱の日から未だに立ち直れていない私は私の中で泣きながら立ち尽くしたままで、その内満潮になる海に浮かんで、どこかへ向かうための足を地にもつけられなくなってしまう。それだけは、ダメなんだという予感がした。
子どもが持てる素敵な持ち物の中には、可能性や夢や未来がある。子どもはたいていの場合において無力だから、奪われることは、悲しいけれど、普段私たちの目につかないところでたくさんあるし、それは奪われた子どもが悪いわけじゃ決してない。ようは、理不尽というやつだ。そういうことがあるということを少しでも知っておくと、もうだめだぁと挫けそうになったときにしゃんと身が引き締まるような思いにさせられた。
せめて、私自らの手でほっぽり出すようなことはしないようにしよう──と、祈りのような元気が泉のように湧いてくるのだ。この世界はそういう不思議な見えない糸の繋がりでできていた。
……それにしたって、私には夢が無いし、なにより協調性が無い。と、大冒険の前に自己嫌悪のスパイラルに身を投じそうになったところで、周囲の喧騒に「うあっ!」と一声、決意の咆哮を投げ入れた。もう一度「うあっ!」。今度はカラダをしゃきっとさせるためだ。
誰も、私の声に気づいていなかった。だから結局、少ししょんぼりした。
私は、自分で言うのもこっぱずかしいけれど、自他共に認められるけっこうな寂しがり屋で、六つ歳の離れた兄がいる妹らしくなかなかの甘えっ子だった。
それなので、私たち家族を金銭的な面で支えるためとはいえ、幼少の頃からあまり構ってくれなかった父に対してはずっと複雑な感情を抱いていた。十二歳の誕生日に秘密を明かされてからは、顔を合わせてもどう接したらいいか分からないようになるまでその複雑な感情が悪いほうに進化してしまったわけだけれど。
きっと、いまはだいぶ世間ズレしている私がもう少し大人に近づいて、嫌でも世間に目を向けなければならなくなったとき──まるで涼やかな秋が急に激しい寒さを孕んだ冬に姿を変えるように──私は自然に、猛烈な嫌悪感を父に抱くんだろうという予感はした。私の予感はたいてい当たった。だから子どもから大人に近づきたくはないのだ。さっきも言った通り、私は寂しがり屋で甘えっ子で、何度も言うように、半端で凡庸な十四歳の女の子なのだ。親を嫌悪するなんていうことを進んでしたいわけがなかった。
だって、それは切ないし、なんだか疲れそうだ。過剰に親を嫌う同級生なんかを見かけると、私は〝はぁ、お疲れ様でございます〟とお勤めしているひとに対してかけるように労いたくなった。
空が夕暮れどき特有のぼんやりとした橙色に染まりはじめていた。踊り子たちは水色と白のグラデーションが水彩画みたいに施されている、とても美しい着物姿で明け方の雲みたいに踊っていた。
よその県から訪れてきたんだろう観光客が、年に一度の特大行事を余すところなく楽しもうと、手を叩いてもっともっとと自分のテンションをあげようとしていた。まるでゴリラのドラミングみたいだった。その様子からはどこか野蛮な印象が見受けられた。大人が楽しそうにはしゃいでいる姿というのは、私の目にはどうも胡散臭く映った。これが偏見というやつかもしれない。でも、ちゃんと経験が積み重なったうえでの偏見だから、それはもはや価値観と呼んでもいいのかもしれない。とにかく、その姿は野蛮で胡散臭かった。そして、大冒険に出発する前の私の士気を下げてきた。
私の背後から同年代の女の子たちが歩いてきて、そのままどこかへ進んでいった。少なくとも東京ではないんだろう。山の方面に歩いていったから、縁日に行くのかもしれない。じゃがバター食べたいなぁ。でも、こんなところで無駄な出費なんてしてられないし。
私はキャスケットのつばを手持無沙汰にさすりながら、喧騒の合間を縫って歩いた。リュックサックから垂れ下がった懐中電灯が、歩を進めるたびに重みを増してくるようだった。
騒々しいところにいると、まるで自分が透明人間にでもなってしまったような気分になった。とても投げやりで、さびしい気分だ。
なにか大きなことを成し遂げようとする前は、決まってへんな事ばかり思いつく。世界から私が消えても、世界はなにも変わらない。世界がいないと、私は変わる機会すらなくなるのに……そんなへんなことを考えちゃうような、へんな気持ちになってくる。
私はまったく情けないことに、ふいに、泣いた。透明人間の涙もまた、誰にも見つからない透明だった。
幸一くんがいないと、私は幸せに生きられない。私がいなくても、幸一くんが幸せに生きれていたらいい。幸一くんが幸せかどうかを確かめるためにも、私は行かなきゃいけないのだ。
くじけたり、奮起したり、完ペキに情緒不安定だった。
私はきっと、不安だったのだ。一人で遠出するなんて初めてだった。夜が更けたらどこで眠ったらいいのか、ちょっとでも油断すると厄介な手で足を絡めとろうとしてくる世界でどう立ち回ればいいのか……。答えが出ないなら考えたって無駄だけれど、私は周囲から無駄と言われるようなことばかりしながら生きてきた。今さら無駄なものをさっさと切り捨てられるような人間には……十四歳、もうギリギリなれない。
二粒ほど涙を零してから、ひとりぽっちの悲しみになんてお構いなしの非情にうるさい町を駅に向かって歩いた。
私がいなくなったら、お母さんが心配するだろうな。でも幸一くんの話をするとたちまち沈んでしまうんだもの。沈んだひとと一緒に冒険ができるほど、私は底抜けに明るくも短気じゃなくもなかった。お母さんは幸一くんの居場所を、明言しないにせよ知ってはいそうだったから、できることなら仲間にしたかった。だけど、無理だった。仕方がない。自分で決めたのだ。突き進まなきゃ、かっこう悪い。
あの夜に幸一くんが背負っていったのよりも一回りサイズの小さいベージュのリュックサックを揺さぶりながら、スニーカーに刺繍された金色のニワトリマークを見下ろした。くるぶしまでの靴下を履いた足はあんまりにほそっこかった。まるでカモシカの前脚みたいにすらりと伸びて、私を遠くに連れていくために休みなく動いてくれていた。
──ピィィィィン……。
顔をあげた。誰かが笛を吹いたというワケじゃなかった。また、酷い耳鳴りがしてるのだ。
──ル ィ ラルラ ……。
耳鳴りが、強弱を帯び、音程を持ち、鼻歌らしきものになった。
「……あっ、雪村さん」
声がしたほうを向くと、私と同じく色白な肌をした少年、クラスメートの……海斗くんが立っていた。
私はこの人混みの中で顔見知りに遭遇してしまったことに少し驚いて、物は試しに尋ねてみた。
「海斗くん。いま、なにか言った?」
「うん。雪村さん、って」
「そうじゃなくて、その前。鼻歌みたいなの口ずさんでなかった?」
海斗くんが首を傾げた。真珠みたいな歯がうすぼんやりと光った。
「いや、してないよ。俺、そんなに浮足立ってない」
はて、と首を傾げた。確かに、耳鳴りの後にテノールの歌声が聴こえたような気がしたんだけれど。
「そんなデカいリュック背負って、どこ行くの。まさか家出?」と海斗くんは大人の三歩ぶんぐらいの距離を私との間に置いたままで訊いた。
「家出じゃなくて、冒険」と私は正直に答えた。どうせ信じるわけないと舐めきっていたのだ。
はは、と乾いた笑い声ですかされた。ほら。何度も何度も練習した果てに発されたような擦り切れた笑い声だった。
私はクラスメートがよく発するこんな笑い声がすきじゃなかった。オブラートをぜんぶ取っ払って言うと、気持ち悪かった。面白くもないのに、どうしてむりに笑うんだろうか。心の通りに笑ったら、きっともっと素敵なひとみたいになれるだろうに。
ノリが悪いだとか無愛想だとかいう悪口は、私の心をまるで別次元のものみたいに通過した。私がそれらに価値を感じていないからだ。だってそんなのがよくても、意地悪なクラスメートが意地悪であることは変わりないし、私が悪くないことだって変わりない。私が教室で笑わないのは、面白いことがないからだ。自然だから、さびしいことだ。
先を急ごうとする私を引き留めるように、海斗くんが言った。
「雪村さんって、変だよね」
私はまんまと引き留められた。陰でちくちく刺されることはあれど、こんな真正面から豪速ストレートをぶつけられたのは初めてだった。
私は海斗くんの目をしっかと見た。悪意の気配はそんなに感じられなかった。
「普通がいいことだとは思えないわ」
「その感想が、へん」
私はむっとした。そうらしいってことは自分でも分かっていた。だから外れ者にされたんだってことも、納得はできないけれど理解はしていた。
海斗くんは、笑っているような怒っているような、胸に迷いの渦が巻いているひと特有の複雑な表情で言った。
「あのとき、俺のために怒ってくれたでしょ」
「う、うん」
酷い耳鳴りがしていた。
このとき、無視して駅まで突っ走っちゃえばよかったんだ。私はなにもかもが半端だから、たとえクラスメートにどんなにつっけんどんな印象を抱いていたとしても、どうしても、呼び止められたらうれしさを感じてしまうし、話しかけられたら心が躍った。
そして、私は期待していた。
海斗くんが、私の善から、偽を取っ払ってくれることを。
「あんなの、ダメだよ」
「……ダメ?」
二文字の否定をオウム返しした。
「俺、ほんとに平気だったんだ。あんなの、いつものおふざけが仲間内でちょっと盛り上がっただけのことでさ。雪村さんみたいにクラスで浮いてる子が、しかもあんなヘンテコなやり方で俺を庇ってきたらさ……分かるかなぁ。そっちのほうが面倒くさくなるんだよ。ねぇ、ああいうのって誰のためにやってるの?」
なんだか頭がくらくらしてきた。喉の奥で心から湧いてきた言葉が犇めいているようで、呼吸がしづらかった。目の前の少年から放たれた言葉が、呪い垂れ込む心の中枢に、棘だらけの銃弾として埋め込まれた。
仲間内。
私がえいえんに入ることのできない、内側の話。
瞬間、視界に入るもの全てがぼやけて、刹那、鮮明になった。
私は、私は……絶滅危惧種だ。
──ピィィィィ……。
「ありがた迷惑なんだ」
おまけに、偽善者だし。頭がいいわけでも、話が上手いわけでもない。私なんて、塵だ。あっという間に消え去っちゃうような絶滅危惧種なんだ。だから、幸一くんも嫌気がさして、きっと……。
自己嫌悪のスパイラルにずぶずぶと溺れた。海斗くんは私が泣きだしたことに気づいていないみたいだった。安堵したのか、落胆したのか、自分でもよく分からなかった。
謝ってほしいと思うだけで、察してほしいと願うだけで、なにも口に出せない私がほんとうに嫌だった。ひとはどうして、言葉にしないと伝え合うこともできないんだろう。どうせ誤解が生まれるのに、どうして言葉で伝えるんだろう。
──鯨は歌で、すべてを伝え合うんだよ。
──すべて?
──そう。蛇足も過不足もない。
──いいなぁ。鯨になってみたい。そして、歌で伝えるの。
──受け取り手がいないようじゃない?
──幸一くんも、一緒に鯨になるんだよ。
そう言うと、幸一くんは困ったように笑んだ。二年以上は前にした会話を、ふと思い出した。
「だからさ、雪村さ……あっ」
私はコミュニケーションを放棄して、踵を返して駆けだした。
駅への近道に繋がるトンネルに続く階段が前方に見えた。
足が熱かった。まるで熱されたパトスのようだ。
歩幅が広がって、歩調が早まっていった。
なにもかもが異常だった。世界はおかしくなっていた。
──幸一くんに会って、ぜんぶぜんぶを直さなきゃ……!
もう階段のすぐ手前まで来ていた。トンネルを抜けたところで、私は気持ちをどうにか切り替えて、東京に向かわなければいけなかった。
足を伸ばして、膝を曲げた。一秒前の視界がスクリーン型のまま私の頭をすり抜けて、少し経ってから霧散した。その繰り返し。金色のニワトリマークが刺繍されたお気に入りのスニーカーで、アスファルトを思い切り蹴った。
階段の手すりの銀色が、触ったらとても痛そうなどぎつい光を閉じ込めているように見えた。両手を宙ぶらりんにして、階段を駆け下りた。
ところで、階段には二種類ある。
一つが、止まれる階段。一段一段の高さが低かったり、段差の幅が広かったりするのがそうだ。
も一つは、止まれない階段。一段一段が高くて、段差の幅も狭い。止まれないぶん勢いがつくから、足を滑らせたりしたら一巻のおしまいだ。だから視界が悪いときなどには足元によく注意して、逸る気持ちを落ち着かせないといけない。ううん、いけなかった。
なんで突然こんな話をしたかっていうと……この階段は、後者の、止まれないほうの階段だった。
私は、まったく不注意なことに、足を滑らせた。
──ズリャッ。
ほんとうに驚いたときには声も出ない。ただ汗はどっと出た。
どうやら命の危険を感じてはいなかったらしく、流れる景色がスロウになったり、走馬灯が流れたりということはなかった。普通にこけたときみたいに、やばい、と気づいてからはもうなにもかもが手遅れだった。
──ゴズッ。
中身のぎっしり詰まったとても重いなにかが落ちたときのような、思わず片目を細めたくなる音が頭蓋に響いた。耳鳴りの音に乗って、私の中身が流れ出ていくような感触がした。
すぐそこで冒険譚が幕を開くのを待ち構えていた少女は、哀れ、コトンと意識を失った。
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