準備

 

 潮風が体温の高い女のひとの手のひらみたいに私のカラダを撫でた。高い建物があんまりないから、のっぺりと青い空が果てしなく広がっているように見えた。

 じりじりと湿った熱を霧散させているアスファルトの上を歩いて、ふと、立ち止まった。手をひさしにして空を見上げた。重い鉄でできているはずの飛行機が一機、快適そうに白い飛行機雲を引いていった。

 空模様さえ変わるだろうけれど、この空自体は一続きなのだ。それこそ果てしなく広がっている。

 幸一くんと同じ空の下に立っていることを、私はたまに忘れてしまった。だって忘れることに違和感が生じなかった。物忘れしたときとは違う、どこにも引っ掛かりがない、綺麗に蟹の身がほじくりだされたあとの殻の穴みたいな、ぽっかりすっきりとした忘れ方をしてしまった。

 きっと、当たり前のことすぎるからだ。お母さんのおなかの中で育ったことや、ストレスを連れて排出されてくれるのが涙であるというようなことと同じように、たいていのひとは、昔は大事にしていた当たり前のことを、そのうち「当たり前なんだからどこにも行きはしないだろう」と見向きしなくなる。でも、そっとしておくこととないがしろにすることは、同じように思えてもじつはぜんぜん違うことなのだ。ちゃんと注意しておかなければいけない。だってこれも、当たり前すぎてすぐに忘れられてしまうようなことだから。


 ──優しいひとになるためには、まず、丁寧に生きるべきなんだろうね。


 真性に優しい幸一くんが言っていたことなんだからまず間違いない。私の言葉じゃないよ。だって、私は半端で、凡庸な、弱虫の女の子だ。大切なことを上手く言葉にできもしない。


 私はポニーテールを仔馬の尾みたいに揺らしながら、お小遣い稼ぎに向かった。


 私は、あの屈辱の日からよく考えた。

 東京に行くにあたって、まず必要になるのはお金だ。あとは、揺るがない決意とか丈夫な勇気とか、空間把握能力とかコミュニケーション能力とか、そういう抽象的なものたち。そういう輪郭があやふやなものはどれだけ遅くなってもどうとでもごまかせるから、やっぱりいま私が得るべきはお金なのだ。

 そう眠れない夜に結論づけた私は、中学生でもお小遣いを稼げる方法を考えた。

 そして、結論。漁港の倉庫で蟹の甲羅を掃除したりエビの殻を剝いたりしているパートのひとに混じって、ちょこまかと働くこどものお手伝いさんとして、大人のに比べたらおこぼれ程度のお給料をもらうのが一番だ。


 ミーンシャワワと蝉が鳴いていた。求愛行動をしているんだって考えると、なんだか気持ち悪くなってきた。夏の熱気もむわっとして、私のカラダをべたつかせた。


 いまは夏休みに入ってちょうど一週間目だった。東京に行くのは、お金やその他いろいろな都合があり、夏休みの始まりの七月十八日から一か月程度進んだ八月十二日になった。阿波踊りが始まる日に、わんさかと湧き出てくるひとひとひとに紛れて、私は電車(正確に言うと汽車だけど)に乗って、新幹線に乗り継いで、晴れて幸一くん探しの冒険に出るのだ。


 完ペキな計画を練った私の足取りは、しかし重たかった。働くのが嫌だってわけじゃない。ただ、夏休み前にハイエナに吐かれたあの言葉が、私の心に呪いみたいに取りついていた。


 ──愛人の子どもなんでしょ。


 蝉の声が、遮蔽物のない町を空高く抜けていった。

 いったい、どこで知ったんだろう。あんな下品なハイエナに、ひとの家庭のあれこれを調べる能力があるとは到底思えなかった。


 ──ミーンミーン。シャワシャワシャワ……。


 蝉はまるで、一人ぽつんと歩いている私の家庭事情を噂しているようだった。


 ──やっぱり、大人のゴシップのおこぼれなのかな。


 一度それっぽい答えにたどり着いたらそこを離れたがらなくなるという性質を持っている私は、たくさんの大人に紛れながら倉庫で働くときも常に気が休まらなくなった。耳鳴りがよくするようになって──霧笛のような、ピィィン、という音だ。歯医者さんで奥歯を治療されているときの音にも似ている──夜はますます眠れなくなった。私のこのガタガタの体調を回復させることができるのは、唯一、幸一くんという特効薬だけだった。

「つらいのは、いまだけ。いまだけだよ。蝉が私のことを噂しているなんてわけはないよ。そんなこと考えられる脳は蝉にはないよ。だって蝉は自分がどこに向かって飛んでいっているのかもよく分かっていないようなんだし……きゃっ」

 ぶつぶつと呟いていると、道端でひっくり返っていた蝉が嫌な羽音を響かせて急に飛び立ち、私の足首にぶつかってきた。

「ひぃっ」

 蝉は、いてっ、というような感じで〝ミッ〟と鳴いたあと、やたらめったらな方向に進路を変えて、二つ向こうの電信柱に頭からぶっつかり、またアスファルトの上に落ちた。

 蝉に生まれなくてよかったと心から思った。自分よりも劣っていたり不幸そうななにかを見るとほんのりと落ち着くひとの心は、幸一くんが言っていた通りとても醜いものでしかなんだろうか──私は頭を振って、蝉に生まれるのも悪くないかもしれない、と、ほんのりと落ち着いた心の中で三回唱えた。

 

 そんなこんなで、私は睡眠不足と人間不信によるストレスで、哀れ、ハゲた。

 円形脱毛症という立派な病名がある。頭頂部辺りの後ろ髪が、ほんのわずか、まるで手癖の悪い小学生が抜いたように、不格好な丸の形でなくなっていた。十円ハゲともいうらしい。私のハゲは一円玉ほどの範囲だったけれど、それでも思春期の乙女にとってはどんな多くのお金をかけてしても耐えきれられないぐらいの痛手であるということに違いはなかった。

「希望、ちょっと見せて」

 魚介臭い手を念入りに洗ってから、シャンプーとリンスで髪を洗い終えて、ドライヤーという髪のキューティクルにとってとても重要な工程をついテレビ視聴にすり替え中だった私に、お母さんがそっと近づいてきた。

「希望……!」

 そして片手に持っていたにぎにぎボールを落とした。手のひらの血行をよくするというちょっと疑惑の健康用品が、とーん、とんとん……と床の上で力なく跳ねたのを見て、私は「なにか不吉なことが起きたのだ」とカラダを固くした。

「……夏休み、お父さんと三人で出かけましょうか」

「えっ、なんでそんな優しい口調で言うの! なにを見つけたの、お母さん。正直に言って!」と私は急き立てた。お母さんはうーん、と人差し指の先を頬に当てて

「ハゲ」

 と言った。

「ハゲ」

 私はオウム返しをした。

「ハゲ……?」

 二人で一緒に、首を傾げた。

 途端、綺麗に洗われたばっかりの私の背中に冷や汗が滲んできた。私はみっともなく動揺して、あちこち身体を打ちながら廊下を駆けて、洗面所の三面鏡を、右を曲げたり左を曲げたり、私が鏡に近づいたり、やっぱり右をもっと曲げて今度は左を戻したり、と……ようは、パニックを引き起こしていた。

「どこ! ハゲってどこ!」

「落ち着きなさい、希望。希望ったら。濡れた髪が房ごとに分かれやすくなったからようやく見つけられたのよ。大丈夫よ。ほら、写真で撮って見せてあげるから」

「落ち着けないよ、だってハゲなんだよ!」

 パニックを起こしているひとを前にしてちょっと面白そうに笑っちゃってるお母さんに苛立って、私はもっと凄まじいパニックを見せつけてやった。目がぐるぐると回って、血圧が高くなって、鼻血が出たほどだ。とうとう真面目な顔で心配しだしたお母さんに、私はようやっと留飲を下げてあげた。

 私は食堂の椅子にぐったりと座り込み、ひどい写真のモデルになった。

 スマホの液晶画面を見つめながら、私はちょっと泣いた。


 ──ノゾミの髪は絹の糸みたいで、綺麗だね。図鑑の特徴にはきっとこう書いてあるんだろう。綺麗な黒髪を風になびかせ、肌は雪のように白く……。


 うきうきと、空想の図鑑の説明文を読み上げていた幸一くんの姿は、どんなときよりもただの少年めいていて、これもほんとうに素敵だった。幸一くんの図鑑に間違った記載なんて不名誉なものが付与されないよう、私はこの黒髪と、海育ちのくせに色白な肌は守っていこうと決意したのだ。


 ──決意した……のに。


 私はがっくりと項垂れた。テレビ画面の中であまりぱっとしない顔をした若手のタレントが笑っていて、私は名前も知らないそのひとを大嫌いになった。


 ──髪を生やすためにも、幸一くんに会わなきゃ。私はしょげながら、憤然と燃えた。


「だから帽子をかぶって行きなさいって言ったでしょう。日光が頭皮を焼いちゃったのよ」

「ほんとうに? そんなことってあるのかなぁ」

「あるのよ。現にハ……そうなっちゃってるじゃない。ねぇ、どこに行く? 京都なんていいんじゃない?」


 ──お母さん、うち、東京に行くんどす。それでもう帰ってきまへん……なんて、打ち明けられるはずもなく。


 私はやる気と悲しみをカラダの内で綯い交ぜにして、燃える氷みたいになった。溶け消えては凍り、溶け消えては凍り……そんなんじゃ、余計に気が休まらない。気が休まらないというのはひとという生き物からしてとても重大な損害なのだ。本を読むときには同じ行を何度も目で追わなきゃならなくなるし、睡眠の質は悪くなるし、とにかくとことんダメダメなのだ。


 結局、私は臨時の処置としてお母さんに白のキャスケットを買ってもらい、外出時にはそのキャスケットをかぶることにした。


 私が夏休みの前半に体験した理不尽なことは、それぐらいだ。あとはハゲを気にしながら、着々と東京出奔のための資金集めにいそしんでいた。




 言うなれば、ここまでは「お兄ちゃんが衝撃の秘密を明かして海辺の町を出て行ってしまって、人生に絶望しちゃった女の子のお話」だ。よろしくないことだとは思うのだけれど、ようは、物語的にはちょっとありがち。だって、最近の世に出てくる物語の登場人物たちはたいていが人生に絶望していた。


 ──ひとから生み出された創作物はそのひとが生きる時代を鏡みたいに映している。


 お母さんが言ったことだから、まあまあ信じてもいいことだ。そしてそれになぞらえて考えると、やっぱり、人生に絶望した女の子の話がありがちなのはよろしくなかった。


 もうひとりの幸一くんも、私と同じ意見だった。


「だったらいつかこの物語がありがちになるといいね。希望を見つけた世界の海を僕も泳ぎたいよ。きっと、素敵だろうなあ!」

「なにか違うの?」

「心に触れる水がね。柔らかくてあたたかくて、とても心地いいんだ」


 八月十二日から八月十五日までの四日間にかけて、私はまっこと不思議な世界にいた。いまはありがちじゃないけれど、いつかありがちになってほしいと願うような希望と復興の物語の中を、私、人生に絶望しちゃった女の子、雪村希望は駆け抜けた。

 はやった気持ちでネタバレしちゃうと、私は東京には行けなかった。でも、幸一くんには会えた。


 東京じゃなくて、太平洋に、幸一くんはいたのだ。


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