決意


 徳島県徳島市は、夏の四日間だけ阿呆みたいに騒がしくなる、ちょっと虚弱な蝉みたいな町だ。

 七月に入ると、町の住人たちが目に見えて浮き足立つ。八月十二日から八月十五日にかけての四日間のために、その他の三百六十一日を捧げていると言ってもたぶん過言ではなかった。市内には阿波踊り会館なんていうのがあって、そこではほとんど毎日、阿波踊りの有名連が「ヤットサー、ヤットサー」と踊っていた。


 私の通っている中学校は県道にぴっちりと面していた。体育館で器械体操なんかをしていると、マットに身体を叩きつけた瞬間に喧しいバイクの音なんかが聞こえてきたりして、まるで窓を突き破って轢かれたひとみたいな気分になってくることがあった。

 市が市なので、当然のことながら海にも近い。教室の窓を開けると、潮の香りが風と共に吹き込んできた。だから窓際の席の私は窓の開け閉めを管理する潮風管理人になって、潮風の通過をなるべく許さないようにしていた。なぜならば、私のことを言う悪口に歯止めが利かなくなってくるからだ。


 これは海の近くに住んでいるひとにしか分からないことなのかもしれないけれど、海はひとに対して最も有効的な自白剤だ。


 白く泡立つ渚を見つめていると、そこに真っ白な足が交互に差し出されていくイメージが脳裏に浮かんでくる。追いつこうと駆けだすと、その足は波にさらわれて消える。

 一寄も同じ音がしない波の音を聴いていると、ぼんやりしてくる。

 骨からまでも塩が吹いてきそうな強烈な潮の香りを吸い込んでいると、母なる海にはなにもかもを吐露してもいいのかなという気分になってくる。


 ようは、そういうこと。ひとは海に正直になる。


 ひとはかわいい(皮肉!)生き物だから、海という壮大な物を前にしてようやく自らのちっぽけを思い出す。そして、そんなちっぽけから生み出される思想のよりちっぽけさ。だから教室に海を入れてはいけない。あえてもう一度言う。ひとはほんとうにかわいい生き物だから、いまいち早く切り替えができない。海に対してはちっぽけだった思想をひとに対してもちっぽけなんだと錯覚してしまって……。ああ、教室に海を入れてはいけない! 意地悪なハイエナのクラスメートたちがますます悪意をなんでもかんでも、横向きに垂らしたベロからだくだくと滴る涎みたいに、外に排出してくるようになるからだ!


 その日の休み時間は最悪だった。二時間目と三時間目の間に挟まれた十分休憩に、珍しく、ハイエナたちは女子トイレに連れ立って行かなかった。私の悪口でよほど盛り上がっていたのだ。まるで四人で囲う机の上に指揮棒を振っている妖精がいるみたいに、一斉に黙ってはこっちをチラチラ、クスクス……きゃはは! クスクス……また喋りだす、といった具合だった。ちょっと感心したぐらいだった。

 悪意の糸は、連携が取りやすいようによく震える素材でできている。だからそのぶん、ほどけやすい。

 潮風管理人が心の痛みに耐えていると、クラスの男の子が隙を見てさっさと窓を開けた。

「あっ……あの、閉めていいかな」

「なんで?」

「寒くて」

 よく考えるとおかしな答えだ。だって、いまは七月。どれだけ難しそうな専門気候用語、発音のしにくいカタカナ語で言い訳したって、夏でしょ、の一言で一蹴されてしまうような、もちろん、夏だ。私は半袖から伸びていた両の腕をさすりながら答えていたけれど、その摩擦熱だけで汗が滲んだ。はたから見ても寒そうな感じではなかったはずだ。

 それでもその男の子は、ああ、と低く唸って、窓を閉め直してくれた。

 そのときだった。ハイエナの一人が大きく吠えた。

「えっ、海斗なんで閉めたのー?」


 ──やめて、答えないで! めんどうなことになる!


 絶望的な気持ちで見上げた。海の近くで育ったにもかかわらず、私と同じく色白な肌をしていたその男の子は、私の切実な視線に気づいてくれなかった。どころか、あえて私に注意を向けないよう心掛けているように見えた。

 親密さを感じていたひとに裏切られたときの絶望感が私の心に重たく垂れこめた。さわやかな青空をバックにしてまっさらな入道雲がもくもくと発達していた。

「寒いんだって」

「えっ、寒いわけなくない? 夏じゃん」

「海斗に話しかける口実じゃない? それにしても下手!」

「不思議ちゃんを演じてる感じ?」

「前もさー、あたしたちでふざけてるときにさ、斉藤の声真似して止めてきたじゃん。ほんとう、空気読めないよね」

 私はこみ上げる恥ずかしさに耐えきれなくなって、下唇を噛んだ。生徒たちが呼び捨てにしている斉藤という先生は、怒ると金剛力士像みたいに険しい顔つきになって、もちろん、怖かった。

 私はひとの机の中身をぶち撒いてゲラゲラと下品に笑っていた彼らをちょっと震えあがるぐらいには驚かせてやろうと思って、お得意の声真似で怒鳴った。彼らはまんまと騙された。一瞬で真っ青になったあの顔は、落ち込んだときにくすりと笑うためのいいネタになっていた。

 それまではよかったのだけれど……彼らが仕返しに、斉藤先生本人にこのことを告げ口したと知ったときには、してやられた、と今度は私が真っ青になった。斉藤先生は男子担当の体育教師なのだけれど、女子合同で授業をするときにいちいち私のほうに注意を向けるようになった、ような気がした。ハイエナたちはこびを売るのが上手いから、大人は曲解された話も愚かなことに鵜呑みにするのだ。緊張して、いままではできていた競技も失敗が目立つようになった。私の心配事には、次回の成績表の体育欄のことも含まれるようになっていた。

「なんか動物すきーとか宇宙がどうのーとか言って、ひとを避けてさ。不思議ちゃんポジションを取りたいのかどうか知らないけど、イタいんだよね。偽善者」

 俯いた。長い黒髪が天蓋のように私を囲った。

「ねえ」

 ドスン、と、心が真っ逆さまに落っこちた。私のカラダをすり抜けて、溝に消しカスが化石みたいに固まっている白タイルの床に空っぽの鈴のような音をカラカラと立てて、心が落ちた。

 そう錯覚してしまうまでの衝撃だった。ただ肩を小突かれただけのことなのに、その指先に悪意が纏わされていればこんなにも重くなるものなのか。これは兵器だ!

 私は愕然として、瞬時に「ああ、これは耐えきれそうにない」と戦意喪失した。

 恐る恐る見上げると、絶対に死体には間違われなさそうに爛々と輝く二つの目玉が、黒い天蓋を透かして意地悪な三角のカタチに浮かんでいた。

「いまちょうど話してたとこだったんだけどさ。雪村の母親って、愛人なんでしょ」

「え?」

 豊かな髪を後ろで一つに結んだ、どこか遠くの町で見かけたら軽く会釈でもできそうな女の子が、ここでは意地悪なクラスメートだ。この狭い箱のせいなのかな、とぼんやり考えた。ハイエナはアイひどジンく苛立っアイジンアイジンた様子で、私にアイジン肯定アイジンアイジンアイのイエスをジン求アイジンめた。

「ねぇ、雪村ホープちゃんは愛人の子どもなんでしょ。いやだね。いやらしいねぇ」とハイエナが愉快そうに笑った。

「やめろよ。よくわかんないけど、そういうのってなんか複雑な事情があんじゃないの」

 海斗と呼ばれていた男の子が真顔で制止してくれた。シーガラスのように澄みながら煌めく彼の瞳に、私もそれ相応の透明度で応えなければいけないような気がした。でも、そんな気力は砂漠に吸い込まれていく水のように、いつまで経っても溜まらなかった。

「なんか言いなよ。黙ってたら、それは認めたってことになるんだよ。いいんだ? 認めたんだ? うわっ、やらしい!」

「うそだよ」と私は蚊の鳴くような声で言った。私自身でさえもよく注意していないと聞こえないぐらい小さな声だった。

「は?」けれど、ハイエナには聞こえたようだった。彼女たちは誰かに対して悪意を振るうとき、まるでマグロのように生き生きとして、色んな能力を最大限にまで発揮できるみたいだった。

「そんなのうそだよ」と私はもう一度言った。

「嘘じゃないでしょ、噓つき! 二年前にあんたの家から出て行ったあの綺麗なお兄ちゃんとは綺麗に血が繋がってないんでしょ!」

「なっ……!」


 ──ふ、ふざけるな!


 ハイエナの目玉に映った私は、信じられない、というような顔をしていた。

 どうして他人のあなたにそんなことを言われなければならないのか。私がお母さんのことを悪く思おうが言おうが、それはまぁ、ひとまずいいのだ。だって家族なんだから。幸一くんのことはお前なんかが話題にも上らせちゃいけない。それは幸一くんと家族である私が、家族、かぞく……。

 私はたちまち、悲しみの海に深く沈んだ。心の内側に押し寄せた悲しみの津波は怒りの街も暴力の駅も吞み込んで、ついには私を攫って溺れさせた。


 こんなに酷いことを言われたのに。こんなに深刻に傷ついたのに。

 私はなにを言い返すこともできなかった。なんだか体中の力が抜けて、魂さえも抜けたようだ。


 ──ピィィン。


 耳鳴りがした。カラダの内側が重い水音を響かせてぶるぶると震えた。この振動で細胞が崩れて私がこの場でベッチャリと気持ち悪く溶けて椅子からどろどろりと垂れて変なゴミとしてちりとりに回収されちゃってもべつによかった。


 私はいま、このとき、ここで、世界のすべてに対して他人事になった。

 それだけは、絶対に避けなくちゃいけないことだった。


「ほら。図星だったから項垂うなだれてんだよ」

 ずっと黙っている私を不審がったように、ハイエナが覗き込んできた。私は溢れ出る涙をバカにされたくなくてそっぽを向いた。ハイエナは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「ふんっ。愛人だなんていやらしいっ。不倫をした奴のことをテレビの人やママやパパはなんでもかんでも好き勝手言うの。だからあたしたちも、不倫をした奴の子どもにはなにを言ったっていいのよ。この、偽善者。今後は、簡単に男の子をたらしこめられるなんて思い上がらないほうが身のためなんじゃなくって?」

 海斗くんがなにか口を挟んでいたけれど、それと同時にチャイムも始業を告げる音を挟んできた。

 ハイエナたちに繋がる悪意の糸は勝利の周波数で震えていたんだろう。向こうの席で甲高い笑い声が幾つも上がっていた。


 気弱で、なにか大切なものを守るためにも戦えない私は、だらりと四肢を脱力させた。


 これまで大事なひとと一緒に真心こめて創り上げてきた砂の城が、意地悪な波にさっと攫われてしまったようだった。なんて簡単で、そして、あっという間なんだろう。後に残ったのは、残骸と、途方に暮れてただ立ち尽くす弱っちい私だけ。


 ──幸一くんがいてくれたら。


 幸一くんの優しさにもたれ続けてきた私は、そう考えずにはいられなかった。

 幸一くんがいてくれたら、あのハイエナどもを叱ってくれただろう。私の頬を伝う涙を拭いて、優しく慰めてくれたに違いない。そして残骸を横目で見やってこう言うのだ。〝もう一度、創り直せばいいよ〟

 〝僕らの絆を再び結び直せばいいじゃないか……〟

 何度想像してみても、その台詞の解像度だけは荒かった。壊れたラジオのようにノイズがかかっていたし、波の音と共に遠くへ攫われてしまった。声が行き着く先は東京かもしれない。


 私は幸一くんが私に「もう一度やり直そう」と優しく語りかけてくれる様を上手く想像することができなかった。

 それは深い絶望と乱暴に背中を押してくるような焦燥感を私にもたらした。


 私は頬を伝う涙を手の甲で拭った。手が小刻みに震えているのが分かった。


 ──決めた。


 東京に行こう。夏休みをふんだんに使って、幸一くんに会いに行こう。それで、私が記憶や印象を継ぎ接ぎ合わせても上手く構築できなかったあの台詞を幸一くんの口から直接聞いて、私の不安は無用なものだったと安堵するのだ。

 そうじゃないと、救ってやれないような気がした。

 砂の城があったところを前にして泣きながら立ち尽くす私を、私は救ってあげなきゃいけなかった。

 入道雲がさっきよりも発達していた。決意の夜はいっそ気持ちいいぐらいの大雨の天気になりそうだった。


『最』が更新された、いつも通りに最悪な日に、私、雪村希望は、絶望のせいで濃くなった希望を掴み取った。



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