「九月の葬奏」(1作目「友だちを~」と共に、作者の出生の本懐です)

上松 煌(うえまつ あきら)

「九月の葬奏」(1作目「友だちを~」と共に、作者の出生の本懐です)



       1


「上松煌(うえまつあきら)か。ふ~ん?、ケヘヘッ」

シメ(締め)と呼ばれる主任が、サシ(指し)の現場監督にあごをしゃくる。

「こいつ、お坊ちゃまと同じ学士様で空手マンだとよ。甘ちゃん抜かしたら、かまーねぇから、手足ふん縛ってぶちのめせ」

初対面から、大変なご挨拶だ。だが、こういう世界なのだろう。金鉱堀りなど昔から『山師の類』で、ろくな人間たちではない。

「承知しやした。じゃ、しょっ引きますぜ」サシ(指し)が手で合図する。「ほら、ご挨拶だ」

「よろしくお願いします」

気持ちよさげにふんぞり返るシメ(締め)に無表情で頭を下げて、無骨なプレハブ飯場の2階に案内される。

入り口なのだろう、内階段を上がってすぐ、一畳ほどのむき出しの床に、きたない安全靴が脱ぎ散らかしてある。

そのほかは汚れまくったコンパネが敷きつめられて、20畳ほどの畳がわりになっていた。

5人ほどのムサイ男どもが、興味なさそうにこっちを見ている。

「みんなして面倒見てやってくれ。おめえ、あだ名は?」

「はぁ。上様です」

「上松だから、うえで上様か。ちげえねぇが、ここで上様はマズイ。そうだな、シモってのがいるから、おめえはカミだ。セットでカミシモだ。カミシモコンビだ」

これでここで働く2ヶ月間のあだ名とパートナーが決まった。

「靴の文数(サイズ)はいくつだ?シモに言って出してもらえ。軍靴は10万、鉄兜は8万だ。買い取りだから給料から差っ引いとく」

「えっ?やけに高いですね」

バブルのころならまだしも、平成26年のいまどき、ブランドものだって10万じゃ目が飛び出るのが庶民感覚だ。

「相場だ。つべこべ言うな。同じ露天(露天掘り)の三井は正社員でも20万が最高額だ。こっちは40万出すってんだから、文句はあるめえ」

「はぁ…」

「そうそう、お仕着せ(作業着)も10万だ」

「ええっ?そりゃ、ボッタクリだ…」

「いちいち、うぜぇぞ。ここは夜明けから日暮れまでがお仕事だ。

今は夏時間だから、朝は4時前から作業する。消灯は20時だ。シモ、坊主にいろいろ教えて黙らせろ」

サシ(指し)は言うだけ言うと、バタンと鉄板のドアを閉めた。

ガチャガチャと音がする。イヤな予感がしてドアノブに飛びついたがびくともしない。

厳重に鍵がかけられていた。

「ウソだろ?」

愕然とした。監禁されたのだ。

このプレハブ飯場は2階に窓はない。

これでは1階で火事でも出されたら、作業員は全員蒸し焼きだ。

冗談じゃない。現に雇い主が保険金目当てに、従業員を焼き殺す事件は、過去に何件も起きている。

やつらなら、やりかねない。

「まあ、まあ、カミくん、テン張ってもはじまらないよ」コンビを組んだばかりのシモさんが口を開いた。「あんたが今、なに考えてるかわかるが、それはない。保険屋もこのごろはうるさくなってね、うっかりしたことはできないんだ」

「そうですか?」

「請合うよ。だが、殺しはある。用心しな」

殺し?

確かに、こういう男ばかりの殺伐とした世界ならあるかもしれない。金鉱なんかに流れてくる連中の多くは、ワケありの過去に肉体労働者特有の短絡思考、不遇の人生にゆがんだ性格でストレスを他人にぶつけるのに慣れている。

ちょっとしたいさかいが、いとも簡単に殺人に発展するだろうことは、素人が考えても納得できる。

「だけど、あんた、なんでこんなトコに来るハメになったのよ?」

毎日の労働で姿形だけは労務者だが、昔はいかにも胃弱のサラリーマン風のシモさんがたずねる。

「はぁ。大学の部活を抜ける交換条件です」

「…??」

そうなのだ。

大学入学と同時に入った空手部。2年生に、中学のときに引っ越してしまった憧れの先輩がいた。空手は先輩がいなくなると同時に、年少部黒帯で止めていたけれど、あの先輩がいるならまた学んでみたい。

躊躇なく入った部は、意に反して卑劣にゆがんでいた。3年で主将の比留間涼二、こいつがすべての元凶だった。

肝心の空手は弱く実力もないくせに、人の上に立ちたがる見栄っ張り。土建屋の親父の財力に物をいわせて顧問や部員の歓心をかい、気に入らない者にはゲシュタポなみの差別と排斥、いじめと暴力で支配する。

口先がうまく、気弱な媚びるような目つきで人をたぶらかし、裏で何人もの女の子を冷酷にやり捨てていた。日常的な暴力、小さな交通事故、駐車違反ももみ消して、決して表ざたにはならなかった。

2年生でありながら比留間に意見した先輩は、通り魔のようなわけのわからない事件によってひどいケガをさせられていた。当然のように、犯人はあがらない。

だが、内情を知るものには薄々わかるように仕組まれている。

もう、がまんはできなかった。選択は退部しかなかった。

いつもは取り巻き連中とつるんでいる部室で、比留間はなぜか人払いまでして、この金鉱の話をしたのだ。

「だからぁ」ヤツは甲高い声で言った。「夏休み前から2ヶ月だけ行け。それで退部、認めてやる。場所は住友金属の菱刈鉱山の北側の山奥だ。親父が土地持ってて、出るんだぜぇ、金がよ。えへへへ。い~だろ。ロマンだよなぁ。人里はなれてっから、人がなかなか集まらねえ。おめえが行きゃ、親父も助かる。人助けだよなぁ~。金鉱だから、給料は月40万だ。おめえは口堅いからいーけど、他人に言うなよ。…頼むよぉ、行くだろ?な?ここまでしゃべったんだぜ、顔立てろぉよぉ」

人をたぶらかすときの媚び媚びの目と、へつらうイヌ畜生のような卑劣な態度で比留間は甘言を弄したのだ。

「う~ん、カミくん、だまされちゃったねぇ」シモさんが言った。わが身に引きかえたのか、いかにも残念そうだった。「ここの実態はブラックもブラック、タコ部屋だもの。『寝具あり、1日3食ロハ』ってウタってるけど、部屋代が月10万って知ってた?まるで都内のマンション並みだよね」

えっ?それじゃ詐欺だ。同じ金鉱の三井や住友は住宅手当だって出る。

それをこんな飯場に押し込めて、10万は悪辣すぎる。

「比留間なにだって?」

大柄のがっちりした人が聞いてきた。シモさんが40歳ぐらいだから、そのちょい上くらいだろうか?

「カワさんだよ。もとは中堅の企業主。御時勢でペショってさ、債権者に借りを返そうとここに身を落としたんだ。立派な人だよ」

シモさんがささやいた。

「あ、どうも。お世話になります。そいつ、比留間涼二ってんです」

カワさんは侮蔑的にニヤッと笑った。

「お坊ちゃまだ」シメ(締め)と同じ物言いをしてシモさんに目配せする。シモさんがチラッと笑った。

「気色の悪いクズだよ。たまにここにも来るが、ガキのくせにいっぱしの顔役気取りだ」

さもありなん、涼二はそういうやつなのだ。

比留間という名も『蛭魔』にかえたほうが名は体をあらわして相応

だろう。

「さ、そろそろ電気が消える。便所の脇にフトンがあるから好きなの取りな。ここは山奥だから、夏でも明け方は寒いよ」

シモさんにうながされてフトンに近寄ったが、なにやらこの世のものならぬ臭いがする。ホームレスの人たちのほうが、よっぽどリッチで清潔なフトンにくるまっているくらいだ。

とにかく真っ黒な毛布を2枚引き抜いて一枚を敷き、もう一枚を何とか体にかけた。べたべたのまくらはどうにも使う気がしなかった。

嫌悪感でゾワゾワしているうちに電気が消え、オレンジのちっぽけな常夜灯がともった。便所は山小屋なみのポットンで、そこにもごく小さな明かりがあった。

今まで弱くついていた冷房も切れ、5人の男たちのイビキと歯軋りがひびきわたるだけの世界になった。

2ヶ月だけの辛抱だ、そう思うしかなかった。


         2


いきなり、ガンガンガンガンとブリキを叩くようなひどい金属音がした。

バターンッとドアが蹴り開けられ、

「野郎どもっ、起きやがれぃっ!」と、サシ(指し)のわめき声がする。

まだ薄暗いが、とにかく朝なのだ。

「さっさとしやがれっ、バカどもっ」

怒鳴り散らされながら身支度を整える。

シモさんに見繕ってもらった作業着は一応洗濯はしてあったが、洗いざらしでポケットはすべて切りはずしてある。金鉱石を盗まないよう、ということだったがほかにも理由がありそうだった。

これで10万とは本当に恐れ入る。

が、軍手とセットの安全靴はもっとひどかった。誰が使ったかわからない腐臭まみれで、水虫の巣窟のような古いものだ。

ヘルメットも中古で、フケと人間の油、ホコリと汗、カビと経年の異臭がし、クモの巣とゴキブリの卵がいくつもひっついている。

とにかくマトモな神経では頭にかぶれるしろものではなかった。

この靴とメットで18万がふんだくられるのだ。

「ただ飯食わせてやる。喜べっ」

と言われて、1階に下りる。

きのうはどこにいたのだろう?姿の見えなかったチンピラやくざ風 の若造が4人、給食当番よろしく小汚いズンドウのまえに立っている。こっちは箸とラーメンどんぶりを2つ持って列を作り、チンピラやくざによそっていただくのだ。

盆などはないから、大の男がどんぶりを両手に持ったマヌケな姿で毎日の飯にありつかなければならない。

外米と古古古米あたりで炊いたベージュがかった飯の上に、片栗粉かなにかでトロミをつけた野菜屑が乗っている。もう一方の器には、そのへんで取ってきたような野蒜をいれた味噌汁が入る。

「いただきます」

幼稚園児のように手を合わせて食事が始まる。

まあまあ平等なのはシメ(締め)もサシ(指し)もチンピラ他数人も作業員も同じ飯を食うところくらいか?

だが、やっぱり歴然と差別があった。

おかずの盛りはあきらかに彼ら支配層のほうが良く、おかわりも許されている。

一番体を使う労働者階級は、旧軍のように一膳飯で盛りも悪いのだ。

これで体が持つのだろうか?

いくら露天掘りでも、金鉱堀りは重労働だ。

朝食時間はたったの10分だった。

まさに『早飯、早糞、芸のうち』を地で行く世界だ。この時間内に飯を食い、どんぶりと箸を洗い、1階の10個ほど個室があるトイレで用をすませ、サシ(指し)の点呼を受けるのだ。

今は作業員6人だが、このシステムが残っているということは、昔はもっと大人数だったのだ。東京オリンピック誘致の影響で、土方不足というのは本当らしかった。

ここで慣れないせいか、ちょっとした失敗をやらかした。

腹は減っているのだが、環境の激変のせいか飯がスムーズに入っていかない。

ため息混じりにちょっと脇を向いたスキに、右側から手がニュッと出た。

どんぶりをムンズとつかむと、そのまま人の飯をかきこもうとする。自分の分は5口くらいでもう、とっくに食い終わっているのにだ。

汚いごま塩頭の50代のオッサンで、きのうの対面でもろくにこっちを見もしなかった。便所のそばのフトンの前がお気に入りらしく、そこから動かない。

いつもソッポを向いていて、他人に関心がないんだか、愛想が悪いんだかわからない人だった。

図体だけは大柄で、腹の出たグリズリーのような印象があった。

たとえて言えば、性格の悪いダイダラボッチが言い得て妙だろうか。

当然、飯は取り返す。

グワッシーンッとリミッターを超えたものすごい張り手が来て、受けも払いもあったものではない。

とにかくパワーが違う。

一瞬でパイプ椅子から吹っ飛んでいた。

腹が立った。いくら知障っぽいオッサンでも、やっていいことと悪いコトがある。

一歩で間合いをつめて、懲戒の一発を横っ面に叩き込んだ。もちろん、十二分に手加減してある。

3秒ほど、キョトンとしていて何事もおきなかった。

次の瞬間、ブンッと音がして空どんぶりが2つ、瞬速で目の前を掠め、遠くのシメ(締め)のソファあたりまでぶっ飛んだ。

やはり、タガのはずれたパワーは常人の域ではない。オッサンはちょっと手を動かしたに過ぎなかったのにこの有様だ。相手にすべきではなかったと思ったが、もう遅い。

「ぐぉるあぁっ、クマあぁっ」

サシ(指し)のものすごい怒声があたりをつんざいた。

さすがはこの稼業の人だ。グリズリーオヤジが一瞬でちぢみ上がった。おびえたイヌのようにキョドって、ビクビクと体を震わせている。

「おい、学士様よ」シメ(締め)がはるか上座から、陰険な声をかけてきた。なんとなく残忍なひびきがある。「おめえ、『松葉』って知ってるか?昨日今日のトーシロにしちゃ、おいたが過ぎるぜ」

「ちょっと、そりゃ…」

サシ(指し)が割って入ろうとする。

「いい!黙ってろ!」言いつつ、口元に引きつった古傷のような笑みを浮かべる。据えたまなざしにはゾッとするものがあった。「あ?聞いてんだよぉ」

「はぁ…。やっぱり松の葉っぱですか?」 

「そうだ。葉っぱだ」

「ちょっと、待ってくださいや」サシ(指し)が強引に割り込んだ。「カミにゃ、バリバリ働いてもらわんといかんです。これ以上の操業の遅れは懲戒もんでさぁ」

「そんなに遅れてんのか?」

「はい、明日にでも発破かけねーと丸一週間、掘り進んでいねーことになりやす」

「マズイな」

シメ(締め)も上層部連中が怖いのだ。

「じゃ、ピッチ上げろ。おい、カミ。ここは娯楽がないからなぁ、日曜あたりに泣くほど楽しませてやるぜぇ。ありがたく待ってろ!」

どういう意味かは知らないが、お決まりのセリフだ。周りの雰囲気からしてあんまり楽しいコトではなさそうだった。ニヤニヤしているのは支配層だけで、労働階級は火の消えたようになっている。

サシ(指し)が手早く点呼を取り、全員がすぐそばの作業小屋に移動した。

金鉱の採掘手順はどこの鉱山も似たり寄ったりだが、ここはオープンピットという鉱脈が地表に露出しているケースなので、坑道を穿つ必要がない。

その分、コストもかからないし、第一、労働者をタコにして使っているのだから人件費もタダ同然だ。

慢性的な人手不足ではあるが、トン当たりの含有金が菱刈をしのぐ50グラムという比留間の言が正しければ、世界最高の産出量を誇る鉱山ということになる。

作業は鉱脈に穿孔機で穴を開け、発破を仕掛けて爆破し、砕けた石をトロッコで作業小屋に運ぶ。

そこで人力により、金鉱石と廃石の『ズリ』に選別され、鉱石のみがトラックで運び出されていく。

クラッシャーと呼ばれる破砕機は所有していないようだから、南側の菱刈鉱山あたりに金鉱石を卸しているのかもしれなかった。

「野郎ども、死ぬ気で働けっ」

サシ(指し)にハッパをかけられて、手の平大の金鉱石の選別が始まる。こうした手選鉱は大手でも行われているので、けっこう有益な選別法なのだろう。

朝の4時前から、正午まで立ちっ放しの作業だ。

硬い金鉱石を3~5センチほどの小さな塊に砕いて、重さ別に分けていく。

鉱石、とくに自然金は見とれるほど美しい。石英や氷長石の微細な結晶の中に、帯状、あるいは塊状で産出する。

いっしょに取れる黄銅鉱や黄鉄鉱も金色だから、最初はまちがえるが、ごく小さなもの以外は慣れると別ものだということがわかる。

ちっぽけな水晶や方解石の結晶も目の保養だ。

ガンガンガンガンと、飯場のほうで金属音がする。

「おう、飯だ。早くしろっ」

怒鳴られて、すばやく移動する。さっきまで見張りとしてくっついていたチンピラどもが、また4人で給食係をやっている。

メニューは朝と同じだ。

飯場の飯炊き女らしきものはいないから、どうやら彼らが夕方に3食分をつくり、暖めなおして供するらしかった。

となると、次の夕食は別物がでるはずだ。ま、何が出るにせよ味は期待できないだろう。

それでもこの昼食は朝より盛りもよく、野菜屑の中華丼風のノリになっている。労働量を鑑みて、最低限のカロリーと栄養を考慮しているつもりらしかった。

話に聞く、明治大正・戦後混乱期のタコ部屋よりは人間的な扱いがなされてる気がした。

ケガをされては能率が落ちるからだろうが、ここの支配階級は5寸釘のついた棍棒は持っていても、やたらにタコを殴らない。

ま、いざとなればどんな非道を成すかは知れないが、厳しい金銭的搾取はあってもまじめに働いているかぎりは、それほど鉄拳制裁を恐れることはないようだった。

支配層の言う「死なれちゃあ、丸損」は、案外本音らしかった。

だから、シモさんのような普通のサラリーマンあがりでも勤まるのだろう。

ただ、一点だけ気になることがあった。

シメ(締め)のいう、『松葉』とは何なのだろう?

便器だけは豊富な1階トイレで、いっしょになったサシ(指し)に聞いてみた

「アハハ、気んなるか?死にゃあせん。安心しろ」

明快だが、その言い方がかえって気になる。どう考えても48手の『松葉くずし』ではないはずだ。

「まさか、…リンチですか?」

「うん、そのまさかだ。古典的なやつでな、よく昔話なんかでキツネやムジナを獲るときに巣穴を松葉でいぶすだろ。それだ」

「えっ?おれ、いぶされるんですか?」

「ま、そういうことだ。そうだなぁ、安田講堂んときの催涙ガスが一番近いな。目は傷めると困るから、しょっぱなから、しっかりつぶっとけ。ったく、シメ(締め)は言い出したら聞かんから」

「はぁ…」

ここでは人間はキツネやムジナ並みなのだ。

だが、安田講堂?

サシ(指し)は全共闘時代の人なのか?

だとしたら、年は若くても64、5だろう。

こういう世界にも、たまに東大生が身を落としているというから、サシ(指し)はその一人かもしれなかった。


        3


気の重い5日間が過ぎて日曜になった。

仕事は休みで自由時間がもえらえるが、チンピラやくざも休みになるらしく食事は出ない。3度の飯はシメ(締め)のソファのまん前にある棚から、自前で買ってまかなわなければならない。

棚は購買部と呼ばれていて、100円ショップで売られているような日用品や食い物が一律1,000円+消費税だった。

計算しやすいためだろう、なんと10パーセントの税率だ。

ここにも歴然と差別があって、支配階級は金も払わず好きなときに勝手なものを取って食べることができる。まあ、自分たちで消費しては上がりがないから、それなりにセーブはしているようだった。

「カミには飯を食わせるな。ゲロるときたねえから」

シメ(締め)の命令で、前の晩から水すら与えられていない。

昔の胃カメラを飲むわけじゃあるまいし、これも虐待の一環かと思ったのは、『松葉』がどんなものか知らない者の浅はかさだった。

あとから考えてみれば、これは吐寫物での窒息死を防ぐ知恵だったらしい。

ガチャリとふつうにドアを開けて、黄色と黒の虎ロープを持ったサシ(指し)が入ってきた。

「シメ(締め)がお呼びだ」

後ろでフゴゴーという、動物のような鼻息がした。

見ると、元凶のグリズリーオヤジで、あわてた様子で便所脇のフトン塊に這いずり込んでいくところだった。おそらく、オヤジは『松葉』をくらった経験があるのだ。

それでこんなにおびえるということは、容易ならないものらしかった。

自然に目が据わった。

「抵抗するな、カミ」サシ(指し)が一目で読んで牽制する。「ハンチクな武道は大ケガのもとだ。おめえ、立場わかってんのか?シメ(締め)はハジキ抱いてる。けっこう当たるんだぜ。腕もあるが、モノもいい。ニュー・南部は扱いやすいからな。穴のあいたヤツなんか、医者には見せねえ。2.3んち、痛え痛え言ってから、あの世行きだ」

安田講堂世代はおっそろしいことを平気で言ってくれる。やっぱり、ここは世界が違うのだ。

「おめえら、拝みにくるか?」

シモさんがまっぴらという感じで、顔の前で手をブンブンする。

ヤマさんとヒラさんという、他の2人は脇を向いて無反応だ。。

カワさんが憮然として口を開いた。

「ガキいたぶって、なんぼのものよ?」

「シメ(締め)に言ってくれ」

うながされて階下に降り、そのまま外に出る。

「おい、カミ、よく寝られたか?」

チンピラやくざ4人、見張り兼トラック運転手2人、その他、顔も知らない連中を10人ほど従えて、シメ(締め)が上機嫌で声をかけてくる。

グェヘヘヘ~とまわりがお追従笑いをしている。

「縛りつけるぞ。どこがいい?」

サシ(指し)に聞かれて周りを見回すが、縛っていただきたい所など、どこにもない。

「いや、縛らないでください。屈辱ですから。おれ、絶対逃げませんから」

「ば~かっ、3秒で逃げるワ。こっち来い。座れ」

そのへんの立ち木を抱くように、手足を器用に縛る。ささくれ立った虎ロープがザリザリと痛い。

「いいか、ケムが来たら、幹に顔おっつけろ。ジタバタあばれるな」

ざっとアドバイスして指をなめ、風向きを見る。

松葉だけでなく、正月の門松のような幹がついたままの枝も、かなりの量を積み上げる。火をつけたら熱気が来そうな近さだ。

サシ(指し)はどうやら味方らしいのだが、こういうところは容赦ない。

催涙ガス水平撃ち経験者世代は、軟弱な現代若者を鍛えているつもりかも知れなかった。

火がつくと刺激臭がツンとくる。だが、悪臭ではなく、さわやかな香りだ。

と、思ったのはほんの数十秒で、白くて濃い煙が猛然とあたりを覆うと怒涛のような苦痛と息苦しさが襲った。

目、鼻、口、耳、皮膚、粘膜がただれるように痛い。まわりじゅうから酸素が消え去ったような極度の呼吸困難と、嘔吐ガスもかくやの猛烈な吐き気で目がくらむ。苦しいからゲエゲエ胃液を吐くのだが、体の痙攣から来る制御不能の呼気によって気道に吸い込んでしまう。

そうなると気管支から肺にかけて、焼け火箸を突っ込んだような激痛で呼吸が止まる。

さあ、自分が今までどうやって息をしていたのかがわからない。

焚き火が近いから、火にもあぶられる。痛覚も知覚もマヒはしないから、焼かれるのは耐えられない。

木の幹にじっと顔を押し付けていることなど、神でもできない相談だ。

呼吸が止まり、それが戻るときが一番苦しい。息も絶え絶えにもがく姿を、シメ(締め)どもは大爆笑で眺めている。

やつらは他人の痛みなら、1,000年でもがまんできるのだ。

「ったく、このバカ。派手にあばれるから、モロに吸い込んでたぞ」

サシ(指し)の声が聞こえたときには、右を下にして寝かされていた。

のどから胸にかけて膨張したようなひどい熱感があり、マスタードでも塗りこめられたようなジリジリとした苦痛があった。

顔の下にはタオルが敷いてあって、息とともに熱くて痛いなにかがあふれた。

「ああ。こいつは呼吸器系弱いワ。症状でわかる」

催涙ガス経験者のご託宣で見ると、サラサラした鮮やかな赤で、時間がたってもなかなか変色しなかった。

喀血だった。

刺激性の煙で、ただれたり裂けたりした呼吸器からの、一時的な出血らしかった。

息をするのも、つばを飲み込むのも激痛を伴うのでつらい。両手首が真っ赤にすりむけていて、それもピリピリと痛む。左腕や肩が腫れ上がり、一部水疱になっていて、そのあたりのTシャツは焼けこげていた。

「焚き火が近かったな。ま、かんべんしろ」

今さら言われても困る。

なんとか悪態をつこうと試みるのだが、声帯が切断されたかのように声はまったくかすれて出なかった。

「明日から手選だ。出るか?」

サシ(指し)の言葉にウン、ウンとうなづく。こんなことで休んで、減給されてはたまらない。マイナスになれば、法外な利息がつくのだ。手選鉱なら、なんとかなるだろう。

シメ(締め)はバケツなんか貸さないから、シモさんとヒラさん、ヤマさんまで加わって、1階の水道でタオルをしぼって、やけどを冷やしてくれる。ここは湧き水を引っ張っているので、命の綱の水だけはタダだ。

サシ(指し)もどこからか軟膏を調達してきて塗り付けてくれた。

夕方ごろ、カワさんがぬるま湯を持ってきた。

「砂糖湯だ。少しづつ、ゆっくり飲め」

多少しみて痛いが、ただれて血だらけの口やのどにやさしい。すぐになおるという効果のほどは知れないが、みんなの親切が本当にうれしかった。せっかくの休日を台無しにしてしまったのに、誰一人として文句も言わない。

人の情けをこんなところに来て知るとは、世の中は不思議なものだった。


      4


小柄なヤマさんは面白い人だ。

製造業ではあったが、シモさん同様貯金もなく、ローンを抱えてリストラされたクチだ。高一の一人息子が中退して働き、同居の父母や妻、一家総出で稼いで何とか返せていると言っていた。

「ここに借金はねえから、そろそろ足を洗えそーだ。おれがカワさんみたいに経営者だったら、みんなを社員として引き連れてやめるんだがなぁ」

口数は決して多くはなかったけれど、暗さはなく、こんなところに落ちても仲間思いの人だった。

いつも冗談めかしてものを言って、『松葉』で喀血がとまらず、薄い安タオルでは間にあわなくなったとき、

「労咳じゃあねーよな」

と笑いながら、快く貸してくれた。

あとで、それをきれいに洗濯し、新しい1本を買い足して返したときも

「お、いーことはするもんだなあ。倍になった。ありがてえねぇ。わらしべ長者だ」

と喜んでくれたのだ。

たまに菓子などを買うと「あ~ん」と言って他人の口のそばにもってきて、グルグルじらしてから、最終的に口の中に入れてくれる。

ヒラさんはじらされかたがうまくて、ひょいっと食いついて奪ってしまう。

時々、勢いがつきすぎて指を噛んでしまい、

「いてえっ。ヒラ、あとで罰としておごれよ」

と怒られていた。

あの夜もそれをやっていた。

グリズリーオヤジの番で、甘いものに飢えているようだった。

フーフー鼻息を荒らげていたが、面倒になったのだろう、いきなり手を出して菓子をひったくろうとした。

これでは遊びにならない。

「クマぁ、ズルはダメだっ」

ヤマさんは怒鳴りながら、奪われまいとして自分の口の中にパクリと入れてしまった。そんなことはしたことがない人なのに、なにか魔が差したのだろうか。

「グォワラガァ!(クソが)」

グリズリーが絶叫した。

カワさんが飛んで止めに入った。

「おめえがズルするからだ」

ヤマさんが非難したが、こと食い物に関しては、そんな言葉が通じる相手ではなさそうだった。

「…わかったよ。じゃ、あとで食わしてやる。今はない。さっきのが最後だ」

なだめるしかなかった。

これで一件落着のはずだった。

だが、それ以降、3日たっても4日たっても、「あとで」はなかった。月末が近かったから、ヤマさんに先立つものがなかったのかも知れない。グリズリーオヤジのへんに血走った恨みがましい目が、ヤマさんを追うようになった。

サシ(指し)が発破の技師だったから、鉱脈を爆破して石をトロッコで運んでいるときだった。

ガンガンガンガンと飯場で昼食を知らせる音がした。

「早くしやがれっ」

サシ(指し)のいつもの罵声をあびて、だれもが作業を中断しようとした。

いきなり、ゴワシャッというような妙に水っぽい音がして、ヤマさんが声も立てずに吹っ飛んだ。

「え?」

振り向くと、グリズリーオヤジが仁王立ちになっている。採掘したばかりの漬物石くらいある鉱石をつかんでいた。

何がおきたのか、一瞬で理解できた。オヤジはヤマさんに復讐したのだ。

カワさんが猛然と飛びかかる。が、一撃で振り飛ばされる。屈強なこの人が子ども扱いなのだ。

頼みの綱のサシ(指し)はダッシュで飯場へと走っていく。

逃げたのだろうか?

シモさんとヒラさんが両脇から、ブラブラになったヤマさんをかかえ、ズルズル引きずって逃げる。

こうした一連のことが、一瞬で行われた。

グリズリーオヤジがこっちへきた。でかい、こうして見ると本当にでかいオヤジだ。禁じ手だが、金的か目潰しを食わせるしかないのだろうか。

「カミ、どけいっ」

サシ(指し)が突き飛ばすように踊り込んできた。

「ほれ、これやる。うまいぞう。ほれ、ほれ」

猿にでも餌をやるように、菓子袋をガサガサさせる。

ニタアッと満面の笑みでオヤジがそれをひったくった。もう、ヤマさんのことは忘れたらしい。

飯場から駆けつけたシメ(締め)が意味ありげに見守る中、オヤジは次のお楽しみの昼食に向かって突進していった。

グリズリーの頭の中では多分、昼食→食い物→お菓子→堪忍袋ぶち切れ→ヤマさん→制裁となったのではないだろうか。少なくとも今日の昼食の合図をきっかけに、もらえなかった菓子の怨念が噴出したことは確かだった。

救急車と警察が駆けつけると思っていた。

だが、どちらも来なかった。

被害者のヤマさんは、一撃で頭の鉢が割れていたそうだ。

夏は蒸れるから、作業中断と同時に、メットは真っ先に脱ぎ捨てる。

その直後に襲われたのだ。本当に運も悪かった。

もうすぐ足が洗えると心待ちにしていたヤマさん。

元のように一家水入らずに戻れると本当にうれしそうだったヤマさん。

その笑顔も声もあの冗談も、2度と聞くことはないのだ。

たった一つの菓子のために…。

そんなもののために、過酷な人生にもめげず、常に明るく希望を失わなかった、一人の人間の善良な命が奪われたのだ。

畜生!

代価として不当すぎる!

グリズリーオヤジは、少し頭の足りない気の毒な障害者だと思っていた。

だが、違う。

善悪すら理解できない、自分の気持ちもコントロールできない、人の形をしたチンパンジーだったのだ。

そのサルが、温かい人の心を持った人間らしい人間を殴り殺したのだ。

これほどの悲しい憤りと衝撃はなかった。

運命は常に、善良な者にぼど過酷だ。

神は常に、自ら助くる者にこそ冷酷なのだ。

ヤマさんがその後どうなったのか知らされることはなかった。おそらく人知れず、どこかにうずめられてしまったのだ。帰りを待つ家族の元にすら連絡は行かないだろう。

一人の人間が、無辜の市民が、真相を告げられることもなく、行方不明者になり果てるのだ。

たとえ告発したところで無駄だ。そもそも契約や誓約書のある雇用形態ではない。ここに誰がいようと、その存在は無なのだ。

グリズリー親父の姿もなかった。どこかに隔離されているのだろうか?

「グリズリー?ああ、クマか」サシは(指し)は世間話のように言った。「アレは支邦だ。体で働いてもらう」

支邦、体で働く?ピンと来た。

「支邦って、中国ですよね、臓器ですか?」

「あ?ったく、このごろの学士様は、なんでもご存知だな。クマは薬やってねーから体がきれぇだ。いい人助けになる。アレはバカ力でものの役にゃ立つが、2人殺っちゃあ、かばいきれねぇ」

「2人…」

そういえば、ここに来た第一日目に、シモさんが言ったのだ。「殺しはある。気をつけな」と。

脅しでも冗談でもなく、正しくこのことだったのだ。

世間でよくある、一度人をかんだイヌ畜生がそれを繰り返すように、オヤジもまた人殺しを繰り返したのだ。

イヌは次の犠牲者を出さないために、殺処分が飼い主の責任と義務であり、世間の常識だが、人の皮をかぶったチンパンジーはどうなのだ?

この、仲間を殺すことで知られるサルと同様の精神構造しか持たない人非人を、人権の名のもとに処罰しないなら、人間たる被害者の人権はどうなるのだ?

日本社会では現在、心神耗弱者による、こうした事件は日常茶飯事ではないか。司法は人たる権利と義務を履き違え、公然と人に非らざるモノを保護しているのだ。

世間の人が恐れ嫌う、ここ、タコ部屋の人権感覚のほうがマトモかも知れなかった。

中国に送られたグリズリーオヤジは、少なくとも自分でまいた種を、自分自身で刈り取ったのだ。


       5

 

シメ(締め)は機嫌が悪かった。

人手不足の中、2人も欠員を出したのだ。周旋屋と呼ばれる斡旋業者に払う金や、上層部のお憶えを考えると心中穏やかではないようだった。

こんなところにも中間管理職の悲哀があった。

作業員4人のまま月末になり、給与が出た。シメ(締め)のまえに一人ひとり並び、「おありがとうございます」と挨拶していただく。「ありがとう」にわざわざ「お」をつけるのが滑稽だった。

ペナペナの茶封筒には一応、明細が入っていた。

内訳は

給与\400,000

仕度代ー\280,000

部屋代ー\100,000

風呂代ー\50,000

足代ー\50,000

消費税ー\48,000

計ー\128,000

これには仰天した。内心、マイナスが出るのでは?と思ってはいたが、これほどまでとは思わなかった。

ちなみに仕度代は、あのゴミ捨て場から拾ってきたような軍手、安全靴、ヘルメット、作業着で、足代はここに来るとき地元駅に迎えに来たワゴン車代、風呂は週一で入れる浴槽、シャワーつきのことだ。

マイナス\128,000には、7日で10パーセントの利息がつく。これは初っぱなから、誰でも赤字になるよう仕組まれたシステムなのだ。

細々した日用品や嗜好品には、あらかじめ持ってきた現金を充てていたのにもかかわらず…。

これがタコ部屋の本質、実態だったのだ。

搾取の方法はまだある。

ここは月一で風俗のお姉さんと遊べる。

多分、大手の菱刈と合同なのだろうが、希望者はワゴンに乗り、どこかに出かけていく。警備が手薄になるから、居残り組みは2階に監禁される。

風俗は空手部主将の比留間にそそのかされて経験していたけれど、愛もトキメキもない行きずりの女性とコトに及ぶのは、あとの空しさがハンパない。

いくらか値段は知らないが、安くはないだろう。金を巻き上げるための罠にはまることはない。がまんできなければトイレがある、臭気にさえ耐えれば、豊富な個室があるのだ。

忘れもしない、8月の一日だった。

1人の労務者がやってきた。

本部から送られた人で、若いときからこの業界を渡り歩いているそうだ。サシ(指し)に言わせると、いわゆる『離れ猿』『一匹狼』と呼ばれる種類の人間らしかった。

こんな世界でも人をまとめたり、うまく使う才能に恵まれていれば、狭き門だが地位は上がっていく。

だが、本人にその気がなかったり、性格や素行が悪かったりすると、いつまでたっても労務者のままだ。

このタチさんは後者だった。カワさんと同じくらいの体格と年齢だが、筋肉質のカワさんに比べて、ぽっちゃりと肉がついている。プロレスラーによくある体形で、スタミナがありそうだった。

この人はどうやら、本部からの派遣というお墨付きが自慢らしかった。

さすがにシメ(締め)やサシ(指し)には従順だったが、こっちのことなどは頭からバカにしているのが透けて見えた。

来た晩から1本\1,500+消費税のビールを2本、これ見よがしに飲むリッチマンで、夜中にトイレに必ず行く。

それはいいのだが、そのたびに踏んだり蹴ったりされる。20畳のコンパネはあちこち広々と空いているのにだ。

一番の若造のため甘く見られたのだろう。ついでにこっちの結束度合いも測っているに違いなかった。

望むところだ、やってもらおうじゃないか!

3日目の夜中の3時、もう少しすれば起床というころ、ゴソッとやつが起きた。わざわざ弧を描いてこっちに来る。片足をあげたのを見すまして足がらみをかけ、引き倒して正拳…の寸止め。

途端に、他の3人がガバッと跳ね起きた。感動もののすばらしい団結だった。

「イチチチチッ、おめえ、茶帯だな」タチはあわてず騒がず言った。「トーシロのオジサマ相手に何のまねだ?」

盗人猛々しいオヤジだ。

だが、一目でこっちの力量を見切ったのはすごい。年少黒帯は、一般の茶帯なのだ。

多分、このオヤジの人生の大半はケンカ人生で、さまざまな武道家崩れの相手をしてきたのだろう。

「こういう兄ちゃんがいたんじゃ、あぶなくってしゃあねぇや。おめえ、カワとか言ったなぁ。場所かわれや、あ?」

凄みはなかなか堂に入っている。

これが目的だったのか。

カワさんの場所は入り口のすぐ脇の壁際で、コーナーになっている。長方形の部屋を見渡せ、人の動線からもはずれた特等席だ。最上格の人の座るその場所を取得するための口実に使われたのだ。

カワさんがもし断れば、こういうやつはシメ(締め)やサシ(指し)に哀れっぽく泣きつく。そしてあることないこと耳打ちする。

こうして離間工作をしたあげく、格上らしい本部臭をちらつかせて仕上げだ。とくにシメ(締め)は本部に弱いのだ。

「あんた、おれがおっかなくて言えなかったのか。気の毒だったなぁ」カワさんがニタッと笑った。おまえのやり口など、先刻承知という目つきだ。「いい~とも。ただし、便所から遠いから、3日で音を上げんなよ」

シモさんとヒラさんが無遠慮に吹き出した。

「チッ!」

オヤジが舌打ちした。

ざまあみろだった。こっちは大人なのだ。本部オヤジの挑発に乗って、やすやすとレベルは落さない。

何か一騒動ねらっていたのかも知れないが、とんだ肩透かしだったろう。

カワさんは堂々と席を譲り、オヤジはいばりくさって座り込んだが、ちっともシックリこなかった。おかげでこっちの結束はいやがうえにも固まり、最高の人間関係になった。

それでもタチはめげない人だった。

労働者階級に相手にされないとわかると、支配階級に食い込んだ。

こういうところではお決まりの博打だった。

チンチロリンが得意らしく、チンピラやくざや運転手、その他、支配層のほとんどを引き込んで熱くなっていた。

自由時間のもらえる日曜日に、それこそ朝から晩まで1日中やっている。

チンピラどもは早くこうしたお遊びに精通したがっていたし、他の連中にとってはかっこうのひまつぶしだった。サシ(指し)まで加わっていたが、これは人となりを見すます戦略だったようだ。

「イカサマはやらん、今のところはな。遊んどくなら今のうちだぞ」と笑っていた。

しんねりむっつりのシメ(締め)は1人だけ、そばにも寄らなかった。まぁ、どう見ても博打なぞにうつつをぬかすタイプではなかったけれど…。

山は夕方が早いのに加え、10日もするとだいぶ日が短くなって、20時の消灯まで余裕ができてくる。そのころには支配階級が2階にやってきて、毎晩、車座になっていた。

これが本来の飯場の姿なのだろう。

「おい、カミシモコンビは解消だ」サシ(指し)がいきなり言った。「カミはタチと組め。シモはヒラだ。カワは単独だが、また新兵が来たら付けてやる」

シモさんは残念がって、ちょっと不満げだった。それでも命令では否応なかった。

タチさんと組んで気がついたのだが、この人には微妙にやりづらい部分があった。

ここでの風呂は週1回、日曜だけだ。肉体労働で周1はきつい。

山奥でもさすがに夏の日中は暑いし、粉塵にもまみれる。やむなく労働者は、作業小屋の裏にある水場で体を洗う。

男どもばかりだから、遠慮なくすっぽんぽんになる。そんなとき、タチさんは異様に自分の衣類を気遣うのだ。

基本、さしあたっての現金などは、ビニールに入れて身につけたり、ベルトなどに縛って四六時中、自分で管理する。

本部に手癖の悪いやつでもいたのだろうか?

流れ者の労務者人生が長いと、他人に対して疑心暗鬼になるのだろうか?

コンビを組んで間もないから、こっちを信用していないのはわかる。

同情の余地はあっても、やはり感じが悪い。自然、タチさんとはいっしょにならないように気をつけ、タチさんはタチさんで、一番最後に手早く水を浴びていた。

毎回、サシ(指し)に、

「早くしろっ、遅せえんだよ、バカッ」

などと怒鳴られていたが、まぁ、本人が選んだ道だった。

「またあ、そんなにタチをイジらんでい~でしょうよぉ」

見張りのチンピラやくざの1人が、変に馴れ馴れしく声をかけるのが聞こえた。

「あ?おめ~、だ~れに指図しとる?」

サシ(指し)に凄まれて、チンピラはすぐにペコペコ逃げていった。

いくら本部からの派遣とはいえ、タチさんはずいぶん博打仲間の支配層に食い込んだものだ。

サシ(指し)が労働者をどのように扱おうと、彼らは一切、関知したことなどなかったのに…。


       6


「臭えんだよ。あれ、絶対アレだワ」

カワさんとサシ(指し)がボソッと話してすぐに離れた。

ちょっと気にはなったが、すぐに忘れる程度の話だった。

いよいよ、8月31日まで1週間を残すのみとなったのだ。

主将、比留間との約束が履行されるなら、2ヶ月の年季が明けて、晴れて東京に帰れる。

思い出深い飯場だったが、やはり心が躍った。

ここでの最後のパートナーのタチさんとも、今はずいぶん慣れてきていた。

この人はさすがに、ものすごく仕事が速い。ただ乱暴で、自分のペースでしか物事を進められない。

採掘した鉱石をトロッコで運ぶときなど、こっちが向かいで作業をしているのに、ビシバシ石を投げ積みする。当然、破片や小石、時には鉱石そのものも容赦なく飛んでくる。

砕片が目などに入れば危険きわまりないのに、ゴーグルなどの贅沢品はないのだ。

最初のうちは、なんてヤツだと思った。あぶなくってしょうがない。

こういう人間は1人で作業をさせないと、しまいに相方に怪我をさる。何があっても自己責任の世界だから、痛い目にあっても文句は言えない。

だが、ものは考えようで、これが間合いや反射神経を養うのにいい訓練になった。相手の動作を見すましたり、予測して次の行動をとる。作業手順の対角線上ないしは正面には、安易に身を置かない。

日課にしていた空手の型の反復は、

「やめろ。これ見よがしになる」

とサシ(指し)に禁止されていて、内心、勘が鈍るのを恐れていたのだ。

どんな人からも学ぶものはあることを実感した。

そんな感慨からだろうか?

今夜も支配層と博打に興じるタチさんをなんとなく見ていた。

だれもが酒のコップを前に置いていて、タチさんが作業着の襟から、なにかをさりげなく出すのが見えた。キラッと光る板状結晶の切片みたいなもので、それを酒に入れている。

そういえば、この人はいつも消灯まで作業着を着っぱなしだ。寝るときはそれを丸めてまくらにする。

なんだろうと興味がわいて、ちょっと腰を浮かしたときだった。

いきなり顎をつかまれ、顔を反対方向にねじ曲げられた。

「??!」

カワさんだった。妙に真剣な目で、首を横に振る。

当然、疑問符がいくつも涌いたが、状況から質問は差し控えた。

やがて消灯時間が来て、支配階級が鉄火場の興奮冷めやらぬ様子でどやどや降りていく。

サシ(指し)が鍵をかけに、いつもどおりチラッと覗いた。

一瞬、カワさんが親指を立てるのが見えた。

「臭えんだよ。あれ、絶対アレだワ」

小耳にはさんだ会話がうかんだものの、何を暗示するのか、皆目見当がつかない。

そっと見回したが、いつもと変わらぬ就寝風景だ。

そのまま何事もおきずに、次の朝になった。

食事は夕飯を温めなおした小麦粉くさいカレーだ。こんなものでも6日後にはオサラバかと思うと、いつもより数段美味い。

まったく、人間とは勝手なものだった。

いの一番に食べ終わったヒラさんが、皿を洗おうと立ち上がった。

「おい」さし(指し)の声が飛んだ。「後にしろ」

「???」

顔中を疑問符にして腰を下ろす。

「タチぃ、おめー、い~もん持ってんだってなぁ?」

いきなり、シメ(締め)が言った。冗談めかしているものの声は酷薄だ。

しばらく沈黙があった。

「あれ?ど~して知ってんのぉ?いやだね~。張ってたってことか」

タチは本当に人を食ったオヤジだ。

まあ、こうでなければ『離れ猿』や『一匹狼』は気取っていられない。

「比留間のおやっさんが、嫌ってるよなぁ。付き合ってるのは大手だ。クリーンでないと三行半だとよ。せっかく地元ともナシ(話し)はついてんのに、お互げえに面目丸つぶれだぜぇ。あ?出せや」

「ヘヘッ、そんなこたぁ、そちらさんのご都合でしょ。おやっさんがどういうご了見かは存じませんがだ、こっちのお仕事はこっちで仕切る。ま、当然でがしょ」

「ふ、口が減らねーな。お仕着せの襟、見せろや。本部のはずいぶんご大層じゃぁねーか」

「アハッ、お見とおし~じゃあしゃ~ねぇ」

襟口に極細のマジックテープでもついているのだろうか、ズルズル引き出したのは、昨晩よりかなり大きな透明袋だった。

「ただの氷砂糖でさ」

「セーザイか。やっぱりな。本部が2度のガサ入れ受けたんで、取引先もおやっさんも、いいかげんピリピリしてる。きれーなあんよでなけりゃ、イメージ壊れるってよ」

「飲んでよし、打ってよし、吸って良し、塗って良しってね。ケヘッ、世間様じゃ、ひっぱりだこ。イメージ最高だワ」

タチはヘラヘラするばかりだ。シメ(締め)は潮時と思ったらしい。

「さてと、おしゃべりは打ち止めだ。タチには少しおとなしくしてもらえ」

ガタガタッっと支配階級が全員で立ち上がると思った。

怒声が飛び交い、タチが思うさまぶん殴られるはずだった。

だが、誰一人として動かない。

チンピラやくざ4人、腹心のサシ(指し)、見張り兼運転手2人、その他複数の連中が、まるでツンボになったかのように静止している。

「な~るほど。…これじゃ、タチのお口がお盛んなわけだ」

さりげなく言って、目の前のセンターテーブルの引き出しを開ける。

そのとき初めて、シメ(締め)の顔にわずかな動揺が走った。

用心深く顔を上げ、支配層を見渡す。

クックッとチンピラやくさたちが失笑した。

「これ、お探し?」その1人がわざとらしい高い声で言って立ち上がる。「『油断大敵、火がぼうぼう』よね~ん」

古い消防庁の標語をわざと言って、小ばかにしたようにニンマリする。

つや消しの黒いニュー・南部がその手にあった。

チンピラとはいえ、さすが裏社会の人間だ。

きちんと撃鉄を起こし、両手にしっかり握り、軽く腰を落とす。

腕はピンと張らず、多少の緩みを持たせて、体の中心線からまっすぐに照準を見る。

至近距離だし、これは撃てば当たりそうだった。

「こっちとら、長いものも呑んでるんだ」タチがゆっくりと、わきの下あたりから匕首を取り出す。

幾分小ぶりだが、深い血流しのついた良いものだ。

軽く振り回して冴えた光を反射させ、無言で労働者階級を脅しつけてくる。

「おれがチクりましたっ」いきなり、カワさんがガタッと立ち上がった。タチの左隣だ。「ごめんなさいっ」

猛然と頭を下げる。一瞬の動作だった。

ゴキッと骨っぽい肉弾の音がして、タチがすっ転がる。

頭突きだ。斜め上からモロにくらって、意識が飛びそうらしくジタバタしている。

きれいな弧を描いて床をすべった匕首は、はしっこいヒラさんが飛びついて拾った。

こっちはあいかわらず末席だ。

チンピラまで距離は5メーター強。目測の瞬間、テーブルから跳ね跳んだ。

蹴撃。

高く跳んだ放物線の着地点で、南部を叩き落す。暴発してもこの角度なら、床に穴が開くだけだ。

いきなり上から降った人間に両手首を蹴られ、チンピラの腰が砕ける。拳銃は回転しながら、テーブルの下に消える。

ソイツは意外に気が小さい。、しりもちをついたまま、あせってアワアワしている。

サシ(指し)が悠然と動いた。

ワンステップでモノをつかむと、チラッと弾奏を見て、弾の所在と数を確認する。

「おい、おハジキはこっちだ」

全員の動きが止まった。

この間、20秒少々。

支配階級代表のシメ(締め)とサシ(指し)に、労働者階級が一体化した、感動の瞬間だった。

だが、相手はさすがにケンカ慣れした連中だ。

11対6で数に勝るのを十二分に生かして、手ごわいカワさん、匕首を拾ったヒラさん、そしてこっちにはそくざに2人がかりで応じたのだ。

サシ(指し)がすばやく銃を確保しなければ、場数を踏んだ連中に、いづれ1人づつ撃破されていただろう。


       7


とうとう月末がやってきた。

別れの前の晩には、シメ(締め)とサシ(指し)、カワさん、シモさん、ヒラさんらが合同で送別会を開いてくれた。

シメ(締め)は購買部と酒を無料開放し、サシ(指し)は自分用のキャビアや鯨の缶詰、フォアグラのパテなどを持ち出してきた。

ともに戦った同志たちだ。

宴は梁山泊のように見た目は粗暴だったけれど、しみじみと心に残るものだった。

人間は捨てたものではなかった。

金鉱堀りへの最初の偏見はくつがえされた気がした。

クズは実際にいる。だが、どこの世界にもゴミは付き物だ。

労務者の多くはまじめな元納税者で、それぞれの事情を抱えながらも、現実と果敢に戦う戦士たちだった。

ある 意味、雄々しく美しかった。

消灯の20時はきちんと守られた。

労働者階級は、明日も日課をこなさなくてはならない。

もう鍵をかけられることはなかったが、サシ(指し)は規則どおりに2階に上がってきた。

この人にも本当にお世話になったのだ。

思えば、朝からいつも怒鳴り散らしていた。でも、その声こそ眠気を破り、やる気を引き出す覇気の声に違いなかった。

5人は万感の握手をかわした。もう、だれも口をきかなかった。

次の日、7時に地元農家の軽トラが来た。裏切り分子の見張り兼トラック運転手も一掃されていたから、運転手付で駅までレンタルしたらしかった。

その前にシメ(締め)から給与を受け取っていた。5千円札5枚とジャラジャラした小銭だったが、別に腹も立たなかった。

本当にこの2ヶ月、得がたい経験をつんだのだ。

これからの人生において、必ず良き指針となるだろう体験の、教授料と思えば安すぎるくらいだ。

「お坊ちゃまから連絡があったぞ。退部届け出しに来いと。ま、けじめはきちんとつけろ」

「はい。そうします。お世話になりました」

心をこめての最敬礼に、シメ(締め)はもう、ふんぞり返ることはしなかった。

軽トラに乗り込み、最後の曲がり角で飯場を振り返った。

入り口のところにシメ(締め)が小さく見えた。

手を振るとちょっと手を上げるそぶりは見せたが、すぐに肩をそびやかして去って行った。陰険に見えるこの人も、案外、内気なテレ屋かもしれなかった。

東京に帰ってものんびりはできない。

大学の空手部は9月4日から、合宿に入ってしまう。その前にきちんとけじめをつけなくてはならない。

主将の比留間に連絡を取ると、2日の午後いちで部室に来るようにとのことだった。

部室は古めかしい和風建築で、学内の逍遥の森の中に建っている。

入り口は昔は引き戸だったが、さすがに今は玄関ドアに改造されていた。

そのノブに手をかけたとき、奇妙ななんともいえない感覚に襲われた。漠然とした恐怖とも不安ともつかない感じで、生まれて初めてのものだった。

すぐ気を取り直して、誰何される前に名乗り、畳敷きの室内に入った。

比留間とその取り巻き連中が顔をそろえていた。

主将は伝統的に前に文机を置いている。その正面にあぐらをかき、こぶしを握って親指だけを畳について上体をささえ、深く礼をする。

基本的に正座はせず、他流の空手道と違って目線は相手からはずし、畳を見る。

あなたに敵愾心はありませんという表明だ。空手はあくまで防御であり、こちらからの攻撃はない。

そのかわり、全身を研ぎすませと教えられる。

「押忍」

と主将に声をかけられて始めて上体を起こし、丹田に力を入れて背筋を伸ばし、両手は自然に股の上で組んで結跏趺坐に入る。

蓮華座の上の阿弥陀如来坐像を思い起こせば正しいだろう。

だが、比留間はいっこうに声をかけない。

しかたがないので礼をしたまま、

「退部届けをお願いします」

と言った。

それでも返事はない。比留間特有の嫌がらせだった。

しばらく待ったが、埒があかないので同じ言葉を繰り返した。

そのとき、取り巻きの一人が立ち上がって、カチャッと入り口に鍵

をかけた。

ドアノブに触れたときの、あの違和感が背筋にさっとよみがえった。本能が何かを警告している…。

比留間が主将になってから、部員数は激減したのだ。いきおい、やめさせないために退部条件は厳しくなる。

普段は禁止の顔面や頚部、金的を標的とした自由組み手くらいはやるだろう。無傷で帰れるとは思わないし、その程度の苦痛なら覚悟の上だ。空手は危険だが殺人技ではない。つねにルールの管理下にあるのだ。

だが、やはり不安だった。鋭敏になった感覚が、周りの7,8人の気配と動静を探る。

「上松、おめぇ、やけに元気そーじゃん」

比留間が初めて声をかけてきた。

瞬間、気配があった。左斜め後方!

あぐらを解いて横っ飛びに逃れた。

背後をとられないために、造りつけの書類棚を背にする。

「へ~?この1年坊、デキルぜ。そんでも、ふつー這って逃げるかぁ?」

ぎゃははははっとまわりじゅうが侮蔑してくる。

礼をしている者を後ろから狙っておいて、よく言うワ。

「ウヘヘッ、な~にビビッてんだ?あ?ジョークだろ。ま、ここ座れや」

比留間がもとの場所を指差した。

「いや、ここで失礼します。同じ状況に再度身を置かないのも、うちの流派の心得です」

「ウタってんじゃねぇや!おめえ、生意気なんだよ。はなっから気にいらね~ワ。だれに口きいてんだ?おれが座れといったら、座りゃいいんだっ」

声にドスをきかせてくる。

「上松ぅ、おまえ、退部届け出しにきたんだろ?じゃ、言うこと聞いて、早く書いて帰れ」

3年生の一人がとりなすように言った。

まわりは、礼儀がなってねーだの、叩っ殺せだのの大合唱だ。

「これが用紙だ。ここに名前書いて、判突け。な~に怖がってる。ひょっとして、おめぇ、鍵ぃかけられたんでビビってんじゃね?」比留間は甲高い声で爆笑した。「イヒャヒャヒャ。おい、鍵あけてやれ。お子ちゃまがダダこねてるぜ」

別に交換条件ではなかったが、文机の前に座った。この上、壁の花をやっていても、状況は進展しないからだ。

取り巻き全員が立ち上がり、人垣をつくって覗き込んでくる。

定型文をざっと読み、書名して三文判を押した。

「うん、手続きはおしめーだ」比留間が嗤った。「だが、これでけえれると思~か?」

そら、来た。

結跏趺坐のまま、比留間の取り巻きたちを見回す。どいつもこいつも指南には加わらないから、実力のほどは不明だが、総じて黒帯を締めているからには、その程度の力はあるだろう。

いきなり、複数の前蹴りが来た。

とっさに倒れ込んで掃腿する。はやく立ち上がらないと踏技がくる。

多勢に無勢だ。連環を使うが、いつまでもつか?

逃げたい、この状況を回避したいと痛切に思うものの、囲みを突破できない。脚や拳を食らって口の中がズタズタに切れる。

唯一の救いは多人数過ぎて攻めが混み、やつらの技にキレがないことだ。

猿臂に触れたやつがいた。瞬時に引き寄せ、そいつを踏み台に八双飛びで囲みを逃れるはずだった。囲みの外にはドアがある。

ガッシャーン!

盛大にガラスの割れる音がして、周囲がどよめいた。一斉に攻撃が止み、変に音が消えた。

つられて動きを止めたのは、自分のとりかえしのつかない失策だった。

比留間が書類棚に突っ込んでいた。

ガラスで額や頬を何箇所か切ったが軽傷だ。きちんと腰を入れないと、反動を食らってこういうことになる。主将として、本人は自戒すべきだった。

「恥かかせやがったな!」醜態を演じたことを自覚したのだろう。怒りで顔が赤黒く上気している。「わざとだな。許さねえ…」

まったくの言いがかりだ。八方から襲われて、いちいち個人の特定ができるなら、むしろ名人級だ。

後頭部に砕けそうな衝撃がきた。ビイイイイイ~ンとものすごい耳鳴り。

目の前が暗転し、それがもどらない。視神経がマヒしたのだ。

ガシッと硬いもので脛を払われ、昏倒した。

複数の手が乱暴に引き据えてくる。

「ねえ、関節やっちゃいましょうよ」

雑談でもするかのように、考えられない提案か聞こえた。

「そういや、こいつ、左利きだ。やるなら左だ」

視力の回復しない暗闇の中で、身の毛がよだった。

関節をやるということは、そのまま肘か膝の関節破壊を意味する。

普段は関節を狙うと言うのだ。

これは決して特殊な技ではない。抜刀撃破をはじめ、相手の経絡経穴を打撃して即死させる技すら、理論として習うのだ。

それだけに徹底した基本反復と、仏教を基調とした高度な精神修養を旨とする。

強大な破壊力をもつ技を、慈悲仏心をもって制御し、掌握し、精神の薫陶鍛錬へと昇華するのだ。

繰り返し叩き込まれる、その理念すら理解しない者の空手は、浅薄な暴力であり、空虚な破壊であり、尊貴たる生命への冒涜なのだ。

主将でありながら、比留間はいったい何を学んだのだ?

「いっそのこと、殺っちまうか。ウヘヘッ。無性に殺りたいときってあるよなぁ」

ヤツの提案に複数の声が答える。

「あ、いいっすね。若いうちに別荘いっときやあ、ハクばっちりっすよ」

「ツテもできるしな。まぁ、悪かね~な」

耳を疑うという言葉があるが、こいつらの精神構造を心底疑った。武道家が軽々しく、口にすべき言葉ではない。比留間はここまで世間を甘く見ていたのだ。

最悪の殺人ですら、やつらにとっては禁じられた武勇にすぎない。

ガンガンいう頭痛の中で、暗がりから戻るように視力が回復しつつあった。

平然と恐るべき会話を続ける一人の得物を見て絶句した。

鉄パイプだった。

しばらく視力が戻らないわけだ。

後頭部と脛の衝撃は蹴りではなかった。こいつらは恥ずかしげもなく、暴走族なみの武器を振り回したのだ。

「おい、殺るなら喉つぶせ。ギャアギャア喚かれちゃウザイ」

ドアノブの違和感が、三度、背筋をかけぬけた。

金鉱でのリンチにはルールがあり、手加減があった。

だが、残虐行為にまるで現実感のないこいつらは、未熟なだけに、とことん暴走する。幼児のように想像力がなく、常に無責任で遊び半分だ。

大学生であっても、おそらく自浄能力すらないだろう。

現代社会の病理は、こんな身近にも蔓延していたのだ。



        8

「もう勘弁してやってください。最後まで行っちゃうことはないでょう?」

退部届けを「早く書いて帰れ」と言った3年生だった。

多少なりとも人の心を持った者は、たいてい一人はいる、だが、その言葉が反映されることはまずない。

「怖いのか」

「いや。っつうか、日本は法治国家ですし」

「なんだ、やっぱ、別荘行くの怖いんじゃんか。ウシシシ」2年生が口を出した。「先輩、ケツメドちっちゃいんすかあ」

「おめえは世の中、知らんのだ」比留間が言った。「親父の業界にゃ、スネキズもんなんか五万といる。そのほうが腹ぁすわってるって重宝される。地位も上がる。おめえもいっぱしにノシて行きたきゃあ、早いとこ経験しておくこった」

「……はい」

3年生はそれで黙った。

取り巻きどもは、裏社会で生きることがどのようなことか、まるで理解できていない。

金鉱でチラリと見たが、浅薄な目先の利益で、平然と人や会社を裏切る。生き馬の目を抜くどころか、馬自体も本物か眉唾の世界だ。

若気の至りで修羅にあこがれ、まっとうな世界に背を向けても、それなりの地位を得ない限り、老耄すれば唾棄されるだけだ。

裏の人間には独特の臭気があるから、いつまでたってもそれをかぎわけて蛆どもが群がる。

一度苦界に身を落とせば、もうほとんど浮かぶ瀬はないのだ。

「もう、早くやっちゃいましょうよ」

さっきの2年生が催促する。

こいつはひょっとしたら、小さく愛らしい子猫をその毒牙にかけているかもしれなかった。

生き物をかみ殺すイヌはしばしば、醜悪に勃起していることが報告されている。それとまったく同様に、このイヌ畜生は今、殺人の快感に欲情しているように見えた。

「横からやれ。喉の前は気道があるから。すぐにクタバラねーように上手くやれ」

比留間を除く7人がかりで押さえつけられては、身動きどころか、呼吸するのがやっとだ。

髪をつかんだ1人が情け容赦なく肩に足をかけて引っ張り、喉を固定する。

鉄パイプが喉仏にあてがわれ、それに力がこめられたとき、全身の力で振りもぎっていた。

ふざけるな!だれがおめおめとおまえらの遊びに屈するか。比留間、

こいつだけは許さない!

「タイマン張らしてくれっ。比留間に挑戦する。受けろ、比留間っ。一対一でやろうっ」

必死の気迫に、臆病者が動揺するのが見えた。

「はぁ?こいつ、バカじゃね?」

「な~にトチ狂ってんだよぉ。みっともねぇ」

「いい。相手すんな。時間稼ぎのタワゴトだ」

周り中からヤツをかばう声が聞こえた。

無駄だ。わかりきったことではないか。群れて気が大きくなるイヌ畜生には、人の心はないのだ。

だが、押さえつけられて、何もできないままでは無念すぎる。応戦すらできないのはみじめ過ぎる。

あの3年生を振り仰いだ。

「先輩、タイマンさせてくださいっ。このままではいやだ。戦って死にたいんです。先輩も武道家なら、わかるでしょう?もし、おれが勝ったら殺していい。いや、自殺します。遺書も書きます。ぜったい迷惑はかけません。だから、どうか、タイマン張らしてくださいっ」

これ以上の本心はなかった。これ以上の叫びはなかった。

あたりは爆笑の渦になった。

それでも、彼は言ってくれた。

「挑戦、受けたらどうです。こいつ、間違ったこと言ってませんよ」

比留間は目をむいた。

「うぜぇワ。早くしゃべれなくしちまえっ」

言いざま、そばのやつから鉄パイプをふんだくった。3年生はとっさに払ったが、ビンッと痛そうな音がした。

運命は決し、もう変えようがなかった。

無意識のうちに身もだえするほど悔しく情けなかった。眼前に突きつけられた逃れようのない現実。信じられないし、信じたくなかった。全神経で拒絶してなお、自覚しなければならない、抗いようもない戦慄的事実。

懊悩を含んだ激しく強い感情が一挙にあふれて息が詰まり、体がガクガクと震えた。

静かな涙が、知らないうちに頬を伝っていた。

この総毛立つような感覚を強いて言葉にするなら、混乱、恐怖、絶望、悲嘆、愛惜、虚無、虚脱となるのだろうか。

「ケッ、こいつ震えてら」

「泣いてるぜ、あ~あ、かわいちょ」

人非人どもの嘲笑が聞こえていた。

心優しい猫を胸にかき抱くように、つかの間、殺されるものは自らの命をいとおしむ。

諦観にも似た悲痛な覚悟の姿を、だれが嘲り笑い侮辱できるだろう。

押さえ込む手に、ふたたび容赦ない力が込められた。

痛みより、なんとも言えない強烈な苦悶がきた。喉仏は軟骨だが、

早々には砕けない粘り強さをもっている。

体の反射で唾を飲み込むと、ぬるりと動いて破壊を逃れてしまう。狙いすまして力を込めては、何度も失敗される。耐え難い苦痛がそのたびに繰り返されるのだ。

この尋常でない苦しみから逃れるためには、加害者に自ら加担し、協力しなければならない。

さもなければ、苦悶が長引き倍加するだけなのだ。

これは殺されるもののみが知る、驚愕の絶望的事実だった。

生々しい蟹の甲羅でも壊れるように軟骨が肉とともに砕けたとき、全身は流れしたたり落ちるほどの脂汗にぬれていた。

「イヒェヒェッ、な~んだ、たいしたことないっすねぇ。次、肘、肘っ」

あの2年生だった。

顔は妙に弛緩し、目だけは異様にギラギラしていた。

射精でもしてるのか?この異常者め!

こういうバカはいづれ猟奇犯罪を犯す。前頭葉の一部未発達で善悪、倫理、他者に対する慈悲同情が全くないのだ。

ねじ上げられた左肘に衝撃がきた。

「いっ痛う」未熟者が自分の拳を傷つけたらしかった。

「おめーら、柔道の『松葉がらみ』できるやついるか?できなきゃ、蹴りか踏みでいけ」

苦悶ではなく、純粋な激痛だった。

骨がきしみ、腱がひしゃげ、神経の束がねじれ曲がった。さっき砕けた喉の骨が呼吸を阻害し、引きつるような呼吸困難がきた。

不意に金鉱の仲間たちが浮かんだ。

わずか数日前の懐かしい顔々が、まるでそこにいるかのように展開した。脳の作用なのか、耐え難い痛みと窒息の恐怖がそれで軽減される気がした。

あのころはまだ、普通の毎日が続くと思っていた。いつもの人生がそこにあると思っていた。

それが、なぜこんなことになったのだろう。

「な~にやってる。テコの原理使えよ、あったま悪り~な」

いきなり、髪をつかんで引き起こされた。

文机に肩が引き据えられ、そのまま腕が伸ばされた。

一撃で肘を形成する骨頭がすべて破砕し、腱が断裂した。神経をかきむしる凶暴な痛みが、目や奥歯までを駆け抜けた。

もはや正常な神経を持った人間たちではなかった。

断末魔の叫びを聞いても恐ろしいと思わず、のたうちまわる姿を見ても痛ましいと感じない情操欠如を、どうして人間と見なすことが.できようか?

イヌ畜生どもは、自分では到底耐えられない苦痛を他人に与え、苦

しみもがく姿を見てあざ嗤うのだ。

「気に入らない」

大学生にもなって、このような浅薄でゆがんだ感情のまま狂奔する、幼児性を許す社会であってはならない。

善を憎み、優しさを軽蔑し、美や秀をねたみ、低レベルに引き落とそうとする風潮は、社会を疲弊させ、混乱させ、やがて絶望的動乱へと導く。

狂気と無秩序を、この日本にもたらしてはいけない。

人間の人間たる矜持、襟度、尊厳の自覚は、人間足らんとする努力からしか生まれない。人間はその人格教育の学習実践によってはじめて、人間に成長する動物なのだ。

だからこそ、人間は野蛮からの脱却、獣性からの乖離を目指し、倫理を、哲学を、宗教を発展させてきた。

この古来からの営々とした努力を、現代人は打ち捨てて省みない。

これが人間性の退化でなくして何なのだ?

人として人たるに足ることこそ、人に生まれた意味であり意義なのだ。

現代社会は間違いを犯している。

知能指数(IQ)では頭の良さは計れない。年齢が上がれば相対的に落ちていく数字など、よりどころとするにあたわない。

精神成熟度数(EQ)こそ、唯一無二の人間の尺度であり、人類に幸福をもたらす優秀性の基準なのだ。

科学や文明の進歩による幸福など、卑小な幻想に過ぎない。

それによってもたらされる人間性の阻害こそ、現代人の病理病根であり、不幸不安であり、敗北敗退の元凶なのだ。

「おめえはお優しすぎるんだよぉ。ったく、バカか?」比留間が3年生に毒づくのが聞こえた。「度胸つけさせてやる。おめえがこいつに止め刺せ!」

戦慄の最後通告だった。

だが、居並ぶ取り巻きどもはヘラヘラするだけで、別に動揺する様子はなかった。こいつらにとって現実はゲームのようにバーチャルなのだろうか?

「おい、殺れって言ってんだろ。できねーのか?」悪魔は情け容赦なく追い討ちをかける。「殺らねーなら、おめえもこ・ろ・す。ヘヘヘッ、ウソじゃねぇ。親父の腹心にちょっと言やぁ、大喜びでおめえを殺りに行くんだぜ。逃げられやしねえ。ためして見るか?」

3年生の顔が、スッと青ざめた。

おそらく比留間はウソは言ってないのだ。取り巻きは誰もがそれを知っている。だから、逆らわないし、逆らえない。

比留間は金と甘言と恐怖で仲間を支配し、常に自分は手を下さない。

それどころか取り巻きの中で最も人間性を持った者、最も善悪を知る者を、故意に最悪の罪に陥れるのだ。

3年生も被害者だった。頼るべきではなかった。それが彼をここまで惨たらしく追い詰めたのだ

「…殺ります!」

決意を表明した表情は、痛ましかった。

深い絶望と困惑、嫌悪と反発、苦悩と自暴自棄が、重苦しくその表情をゆがめていた。

互いに顔からは視線を反らした。

彼の構えはデキルものだった。これは最後の救いだった。未熟者に何度もいたぶられてはたまらない。

脾腹に蹴りか、胸に踏みか。

踏技が来た。複数の肋骨がきれいに折れ、肺に突き刺さるのがわかった。血胸でやがて肺が潰れる。

肺は2つあるから血は吐くが、しばらくはもつ。、それでも吐けるうちが花だ。吐けなくなれば即ち、自らの血で溺れ死ぬのだ。

現代人はどれだけ、声なき犠牲者を出せば気づくのだろう?

善良なる者、罪なきものがいじめ殺されていく社会で、もし危機感を持ち、阻止を望む者がいるならば、言っておきたい。

君よ!

君にこそ、息のあるうちに伝えておきたい。

君はルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェリの『誹謗』を知っているだろうか?

これは一つの象徴であり、ゆがんだ社会の縮図だ。

いじめられ、嘲笑され、貶められ、集団の暴力にさらされるのは、常に無実であり、真実であり、正義であり、非暴力なのだ。

ゆがんだ笑いで見下ろす、嫉妬や憎悪、悪意や欺瞞、不正に屈してはいけない。

そして世論を喚起してくれ。

悪を増長させ、社会に暴虐を蔓延させてはならない。

悪いことはいけない、いいことはすべき、心優しいことは美しいと、だれもが心肝に染め得る世の中こそ、市井の民の勝利なのだ。

弱者は弱者ゆえに群れる。そして弱いがゆえに悪を成す。

その連鎖を許してはならない。

弱者は巧みに言い訳する。いじめられる側が悪いのだと。殺される側に非があると。

違う

弱者は自ら知っているのだ。いじめは醜悪だと。殺しは極悪だと。

だからこそ、邪知の限りを尽くして正当性を言いつのる、卑劣な自己保身、悪辣な自己弁護に耳を貸してはいけない。

どのように言いくるめられようと、殺された者は一言の反論すら成し得ないのだ

もう一度言う!何のために人として生まれたか?

誰しもの心に一度は浮かぶこの崇高な疑問に、君は人として誇り高き解答を与えなければならない。

人間社会は人間足るにふさわしい者により、形成されなくてはならないのだ。

君よ、無関心ではいないでくれ。

きっと思うだろう、自分は痛くもかゆくもない、自分は無関係だと。

違う。

その心は、悪に加担し、弱者を擁護する結果になる。

想像がつくだろうか?

殺されることは極限の恐怖であり、考えうる限りのむごい苦痛であり、その死は全身全霊をもって拒絶すべき無念であり、大海をも涙で満たすほどの悲嘆なのだ。

だから君よ、悪に染まる弱者の進撃を阻止するのだ。悪魔魔民の跳梁を撃破しなくてはならない。

その希望の光彩こそ、君なのだ。

君ら、一人ひとりなのだ。

このゆがんだ現実社会の聖者であり、賢者であり、勇者であり、騎士である者は…正しく君をおいて他にない…。

君…こそ…君こそ……人類の指針であり…未来への旗手なの…だ!

……………。

君よ……力を尽くして…く…れ。

……………………。

……二度と無念の血の涙の中で死んでいく者がないように。

…もう一度……人間は捨てたものではない…と思えるように…。

どうか…この世界を……変えてくれ…。

…君よ…。

…どうか…どうか……。

…………き……み……よ…。

………………………

…………



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「九月の葬奏」(1作目「友だちを~」と共に、作者の出生の本懐です) 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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