File-06『昭和三十九年九月二十二日/同潤会清砂通アパート〈十七號館〉』

 戦前生まれの近代的モダンアパートは、昭和二十年三月十日から住む者もなく、満月の夜にだけ、現世へ顕現する。

 になっている。

 しかし、だとしたら、この【私】は何なのだ?


  †††


 長いこと【私】以外に住人がいなかった同潤会清砂通アパート〈十七號館〉だったが、いつの間にか殺し屋の夫婦が住み着いた。

 もっとも、彼らは【私】の姿を見たことはない。

 鏡を覗き込んでも、靄が立ちこめているかのような【私】の姿を、他者が認識することはなく、【私】の側も、この部屋から這い出すことは稀だ。

 とはいえ、四面八方を白い壁に覆われ、粗末なベッドと机と椅子と鏡と裸電球だけの部屋だ。

 この建物に迷い込む前、【私】は何かを書いていたはずだが、もう何もすることがない。

 何かを書き記したところで、それを読む者もいない。

 終わったのだ。

 世界に対する役目が終わったから、【私】は此処にいるのだ。


 だから、戯れに白い部屋の外に出ることが、この生活で最大の冒険となる。

 抜け出した【私】は、電灯すら点かない廃墟と化したアパートメントの構造を探る遊びに興じていた。

 アパートの時空間はねじ曲がっており、異様な形状の魔窟と化している。

 ニーベルンゲンの指輪でもあれば、月の光が真の出口を指し示すのかも知れないが、あいにくと持ち合わせていない。

 かくして、仄暗い廊下を歩いていくと、一瞬、何処かで見覚えのある女とすれ違う。


  †††


 前に迷い込んだ女は背の高い美人だったが、残念ながらその半身は機械化されていた。

 警視庁の女刑事で〈01〉というだったが、この館に棲む〈鉛の卵〉に囚われかけ、が助けに来た。

 男の名は蓮見隼太……いや、〈最凶最悪ノ魔銃〉ペンデルトーンズを持つ魔銃探偵だった。

 捕食行為を妨げられた〈鉛の卵〉は、蓮見香名子という女の顛末を語ったが、〈最凶最悪ノ魔銃〉は呆気なく撃ち抜いた。

 そのせいで、は崩壊してしまった。

 より具体的に言うと、昭和三十八年四月八日の満月の夜に顕現した館が失われたから、昭和三十八年四月八日の満月の夜に顕現することができなくなった。 

 この不具合は、殺し屋の仕事にも支障があるようで、何度か舌打ちしていた。


  †††


 すれ違ったはずの今回の女は、次の瞬間、無限かと思えるような螺旋階段――外観からはあり得ない階数の構造物を見下ろしていた。

 前髪は眉の高さで切り揃えているが、不気味なほど長い漆黒の髪と細い肢体で、赤い制服風のジャケットの上にトレンチコートを着ている。

 黒ずくめだった前の女とは似ても似つかぬ、ひどく目つきの悪い少女だ。

「君はこの建物の住人かい? ちょっと訊きたいことがあるんだけどねっ♥」

 妙に自信に満ちた、癪に障る声だが、この少女は【私】が視えるのか?

「貴様は……誰だ?」

「蓮音。いや、これからは九葉くようまつりと名乗ることにしたんだっけ。〈はすねからすこばと〉が再統合されても、元には戻らなかったからさっ☆」

 何を言っているんだ。

 しかも、視えるだけでなく、声にならない思考も「声」として認識しているのか、この少女は。

「まったく、覆水盆に返らず、だよね」

「……その通りだ。失ったものが元に戻ることはない」

「でも、再統合されたボクは、ものすごく前向きポジティヴな性格なんだよね。似たようなまがいものでも、本物以上に幸せになれば、何の問題もないと思ってるからさ」

 少女は鋭すぎる眼光を眼鏡で減衰させ、そばかすの鼻先を掻きながら、口元だけで笑いかけてくる。

「フェイクがオリジナルを凌駕すれば、それがオリジナルになる……とでも言いたいのか?」

「そりゃ、後ろめたさから逃れることはできないよね」

 よく見ると、切れ長の目の瞳孔には光沢がなかった。

 灰色の中で、暗く禍々しい黒が渦巻いている。

「でも、時代は変わるんだぜ。君は気づいているかい? この館の揺らぎが拡大していることを」

 揺りかごのように時間を漂う〈十七號館〉だが、その範囲は限られている。

 元々、昭和二十年三月十日より前へ戻ることはできないのだが、殺し屋の夫婦が住み着いてからは、昭和三十五年七月九日から昭和三十九年九月二十二日の間でしか顕現できなくなっている。

 昭和三十五年の方は殺し屋の夫の方が殺し屋となった日付らしいが、昭和三十九年の十月より先へ行くことができないのは、どういうことなのか――。

「ならば、貴様は……何処から来た?」

から来たのさ」

 平成、だと?

「昭和ですらない時間から、この館を訪れた、と言うのか!?」

「時代は変わる……って、言ったろ?」

 そう言いつつ、少女が満面の笑みを浮かべると、何故か、視界がぐにゃりと歪んだ。

「ところで、ボクはこの建物に住んでいる〈灼熱獄炎ノ魔銃〉に用事があるんだけど、不在なのかな?」

 不在?

「そんなはずはない……貴様が満月の夜に訪れたように、殺し屋も満月の夜に帰ってきたはずだ」

 そうだ。

 殺し屋たちの部屋は、少女が背にしている……その部屋だ。

 そもそも、【私】はこの少女に見覚えがあったはずだ。

 なのに、何者か分からない。

 思い出すこともできない。

 貴様は……誰だ?

「また訊くのかい? しょうがないな」

 薄れゆく意識が、この館に囚われたタマシイが、残響のような少女の声に縋ろうとする。

「名前は九葉くようまつり、職業は可憐な少女探偵。メトロポリス探偵社所属……の予定さっ☆」

 何を考えているのか分からない漆黒の妖しい花が、揺りかごから墓場まで、とっくの昔に死んでいた【私】の残穢を葬送していく――。

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