File-05『昭和二十年九月二十三日/本所区〈吾妻橋〉』
仔犬を連れた兄妹は寝ぐらを転々としながら、主を失った家への空き巣や
爆心地近辺では、生き延びた者自体が稀であった。
ほとんどが塩の柱と化していたし、救援や捜索で来た者たちも次々と倒れていたからだ。
だから、
行き倒れから金目の物――たとえば、財布や米穀通帳を剥ぎ取ることはよくあったが。
†††
省線は動いていたので、新橋駅や上野駅へ流れてきた被災者や復員兵が闇市と新爆スラムを形成しつつあったが、少年は獣の生活に慣れていた。
人間の多い場所で暮らすより、盗品を売り捌いて食料を調達する以外に他者と会う必要のない夜盗の方が、生き延びる確率は高いと思っていた。
同じように考えたのか、たまに別の夜盗と遭遇することもあったが、ほとんどが四人以上の徒党を組んでいた。
念のため、正面衝突は避けたが、同じ連中が二度来ることはなかった。
だいたいの場合、別の場所で野垂れ死んでいたからだ。どの屍体も、身体の半分くらいが白い塩と化し、残り半分は夏の暑さで腐り果てていた。
巷では〈生き腐り〉と呼ばれていたこの症状は、新爆投下後に発生した新しい疫病だったが、原因はしばらく不明であった。
†††
新爆投下の閃光直撃を免れた阿南惟幾陸軍大臣は、九死に一生を得ながら、八月十五日に自決していた。
これで、ポツダム宣言受諾の聖断を仰いだ御前会議――最高戦争指導会議の六構成員は全員被爆死したが、宣言受諾自体は八月十日早朝の時点で各国へ通知されており、終戦工作に支障は生じなかった。
本土決戦への戦争継続を主張し、クーデターを企てていた陸軍の強硬派もまとめて被爆死したからだ。
聖断とはいえ、陸軍大臣が戦争継続の主張を撤回し、宣言受諾に同意したことは意外だったが、八月九日の時点で登戸研究所から報告を受け、『目下、連合軍が原子爆弾に続いて開発中の新型兵器・呪詛爆弾には、黄色人種の肉体と精神へ深刻なる二次被害が生じる危険あり』と主張していたことが、情報局総裁の緒方竹虎から新聞各社へ伝えられた。
しかし、占領軍は九月十九日、〈日本に与うる
夏が終わっても、白い地獄は終わらなかった。
†††
昭和二十年九月二十二日──仔犬が〈生き腐り〉に罹って死んだ。顔の体毛と皮膚が白く崩れ、骨が剥き出しになると、塩化現象があっという間に全身へ広がり、腹の臓物がずり落ちた。
死の間際、頭蓋骨から落ちかけた仔犬の瞳が金色に光ったような気がしたが、塩化現象のためだと思い込んだ。
既に、占領軍の先遣部隊と思われる連中──連合国軍新型爆弾傷害調査委員会(NBCC)が都内各所に出没し、同じような〈生き腐り〉の屍体を集めていた。
二人は仔犬の屍体を誰にも渡したくなかった。
盗んだリヤカーに崩れた肉と塩の塊を積み、吾妻橋から大川へ捨てた。
川面には十五夜の月が映っていたが、いつになく、赤く不気味に光っていた。
呆然と立ちすくんでいた少年の横で、瑞鳥の瞳も紅色に光ったような気がしたが、赤い月を眺めているからだと思い込んだ。
†††
翌朝──瑞鳥も姿を消した。寝床に残されていたのは、ざらりとした白い塩とかすかな屍臭、それだけだった。
彼女と暮らした証拠は、あの日の数寄屋橋で手にしていた、錆びて銃爪も動かない拳銃の残骸だけだった。夜になると「お兄ちゃん……あの拳銃を見せて」と言い寄り、
(仕方なかった……本当にどうにも仕方なかった……)
昭和二十年九月二十三日──〈呪詛爆弾〉が投下された〈東京〉で少年は生き延びたが、仔犬は死に、瑞鳥も消えた。
†††
「……新爆投下で肉体を失ったおまえは、新しい依代を求めた」
過去の記憶を辿っていた殺し屋は、眠り続ける妻へ語りかける。
「だから、登戸研究所の残党ども……闇病院〈イレブン〉を唆し、おまえの魂魄に相応しい
次々と身体を乗り換え、〈組織〉の
「それは理解できる。此処まで来れば、おまえが辿ってきた経緯は分かる」
そして、
転送の儀式も完遂した。
人造人間〈碧〉をより純粋に改良した〈翠〉は、成長物質の分泌で妖狐の現身と化しても崩壊することはない。
だが、正常に駆動することもなく、やがては眠り姫と化す運命にあった。
それは、妖狐が先祖返りの神霊であり、肉体という概念とは本質的に相容れないからだが、同時に妖狐自身の寿命でもあった。
それでも──彷徨える孤独な影は肉体を求め、人間でありたいと願った。〈完全な遊戯〉の中で偽りの名前を与えた〈名前のない獣〉と二人、最後の狂った時間で添い遂げたいと願った。
滅びの寸前で時を止めた館に囚われ、漂い続ける、
「……だが、どうして、オレと出会った?」
殺し屋は首を傾げ、釈然としない表情を浮かべている。
「
下位とはいえ、〈神仙〉だった者に選ばれる理由があるとしたら、そのくらいだ。
†††
地獄の夏を生き延びた子供たち──汚れ破れた服に裸足の浮浪児たちが上野駅の地下道に集まっていた。新型爆弾の惨禍の中でも走り続けていた鉄道網の中でも、
仔犬と瑞鳥を失い、途方に暮れていた少年は、それまでの盗品を売り捌くために訪れた上野で一晩過ごしたが、彼のタマシイは群れることを許さなかった。周囲の浮浪児たちはドス黒い殺意の獣に怯えるばかりで、結局、殺すに値する者もいなかったので、都内各地を放浪することを選んだ。
無限に連鎖していく死──奇病が蔓延する死都で、少年は再び、殺意と妄想に支配されていた。
瀕死の〈生き腐り〉患者の中に、驚異的に快復し、超人的異能に目覚めた者が出たという噂を聞いた彼は、自分も覚醒すると信じたが、〈生き腐り〉すら生じなかった彼の肉体に異能が発現することはなく、殺意を断念せざるを得なかった。
殺意しか持ち合わせていなかった少年は耐え難い虚無感に囚われたが、それでも生存本能/闘争本能は残っており、獣のように生き続けていた。
海軍大佐・水野廣徳は大正十三年──東京大空襲より二十一年も前に、その荒涼たる光景を予言した論文『新国防方針の解剖』を『中央公論』六月号に発表していたが、さすがの水野もこの白い荒野は予言できなかった。
無限に連鎖していく死が〈東京〉で猛威を振るっていた十月十八日──水野廣徳は、今治市の病院で亡くなっている。
†††
「おい、〈鉛の卵〉、ろくでもねえ災厄上映会はそろそろ終わりか?」
満月の夜が終わり、〈十七號館〉は再び、何処でもない空間を彷徨い始めた。
何処でもない場所を幽霊のように漂い続けるのだが、
だから、次の満月の夜までに、次の仕事の準備をしなくてはならない。
「……しゃあねえ、魔銃の手入れでもするか」
何処かの時代の何処かの誰かが、殺し屋に仕事を依頼するからだ。
「生きているんだか、死んでいるんだか、さっぱり分からねえが……こうして存在している限りは、人間、真面目に働かねえとな」
いつの間にか、〈鉛の卵〉は部屋から消えていた。
「そうだ。働かざる者、食うべからず、だ。オレは何処ぞの〈神仙〉と違って、霞を喰って生きていくことはできねえんだからな」
殺し屋は呵々大笑すると、その場で軽くタップを踏んだ。
何が可笑しいのか、自分でもさっぱり分からなかったが。
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