File-04『昭和二十年三月十日/浅草区隅田公園〈言問橋〉』
昭和二十年三月九日の夜、少年は〈東京〉に戻っていた。
中学校受験のためか、疎開先を脱走してきたのか、そのあたりは覚えていないが、家族と再会した記憶はあった。
日比谷映画館並びの料亭の板前だった父親は一月の銀座空襲以来、帰っていなかったが、敗色濃厚である戦況から、すべての現実から目を背けるべく現人神への盲信を強いていた母親を嘲り、殴られた記憶はあった。
人並みに「神州不滅」「鬼畜米英殲滅」と叫んでいた軍国少年の目から見ても、母親の盲信は異様に思えた。
この頃の主婦たちは「国防思想ノ普及」「家庭生活ノ整備刷新」「国防ニ必要ナル訓練」などの大政翼賛スローガンを掲げ、家庭の主導権を握ろうとしていた。
だが、母親の盲信は、そのような世俗的欲望だけではなかった。
今にして思えば、中年女特有の性的渇望──ドス黒い妄想も絡んでいたのだろう。
実際、新興宗教〈御多福会〉は、この邪悪な渇望を利用することで、戦後の一大勢力となっている。
ナチス・ドイツを懐かしむドイツ人は禁忌に触れた者として排斥され、日本でも戦争協力者たちは公職追放されたが、大日本婦人会時代を懐かしむ主婦たちを軽蔑する正しい仕組みはなかったのだ。
†††
昭和二十年三月十日午前零時十五分、空襲警報のけたたましい音で目を覚ました少年は防空壕へ逃げ込んだが、空襲はとっくに始まっていた。
やがて、火炎の熱気に耐えかねて壕を出た少年が〈妹〉を連れていたことに血相を変え、追いかけてきた母親は
(今にして思えば……壕を出る前に、殺しておけば良かった! 証拠は残らなかったのだから)
燃える路地を駆けながら、笑っていた記憶はあるが──〈妹〉がどんな表情をしていたのかは、記憶になかった。道路のアスファルト舗装は高熱を帯び、運動靴のゴム底が溶け出した。防火用水に浸して濡らした防空頭巾もすぐに乾いて燃え上がる。
周囲の家屋が猛火の壁と化し、黒い煤煙で両眼に疼痛が走った。
方向感覚もあやふやになりながら、少年と〈妹〉は隅田川まで辿り着いたが、岸辺にも屍体が折り重なっていた。
それでも、言問橋から向こう岸へ渡れば、この火炎地獄から逃れられるはずだと信じた。
(三月十日の大量殺戮を他人の手に委ねてしまったのは……〈妹〉だけは殺したくなかったからだ……)
少年の認識は甘かった。大火事は突風を呼び、煽られて荒れ狂った炎が橋の上を駆け巡り、避難民は次々と燃え上がった。
もっとも、酸欠状態に陥っていた少年はその瞬間を正しく覚えていない。自分も灼熱に巻き込まれたはずだが、気がつくとはるかに下流の厩橋まで流され、凍え死にかけていた。
言問橋の火炎旋風──瞬時に焼き尽くされた〈妹〉の顔も思い出すことはできなかった。
この夜、三百二十五機のB-29が投下したのは、2.8キロ級小型油脂焼夷弾十八万三百五個、45キロ級大型油脂焼夷弾八千五百四十五個、1.7キロ級エレクトロン焼夷弾七百四十個、100キロ級爆弾六個──。
死者八万三千七百九十三名、罹災者百万八千五名、焼失家屋二十六万七千七十一戸、半焼家屋九百七十一戸、全壊家屋十二戸、半壊家屋二百四戸──。
消防庁と警視庁が発表した数字を知ったのは、ずいぶん後のことだが──
陸軍記念日の葬列──黒い亡者の群れに〈妹〉が並んでいたことにも変わりはない!
(だから、自分自身の手で殺すことができる……はずだったんだ。全能の神ならば……)
八月十日までの五ヶ月間、少年は独りだった。
(なのに……思いつかなかった! 〈妹〉がいたことすら……忘れてしまったからだ!)
火炎旋風で焼き尽くされたタマシイには、誇大妄想に近い殺意しか残っていなかったが──未曾有の大量死に遭遇した興奮と、他者の手で行われた失望が、〈妹〉の記憶まで吹き飛ばしていた。
〈妹〉のタマシイを対価として、溢れんばかりの憎悪──世界を喰らい尽くすほどの妄念を閉じ込めていた檻が開いたのに、檻の存在ごと忘れてしまったのだ!
全能の神へ辿り着く資格を得ていたドス黒い殺意の獣は、大量殺戮を具現化することなく、小規模な殺人を繰り返すだけの矮小な獣に成り果ててしまったのだ!
†††
そして、八月十日の数寄屋橋に佇んでいる少年の横には〈妹〉がいる──。
嗚呼──再び、〈黒い獣の檻〉は閉じてしまったのだ!
『白い荒野に佇んでいる〈私〉は、狂った時間──夢と幻が絡み合う瞬間、貴方のタマシイに触れてしまったの』
『みな殺しの荒野が手に入らないなら、〈妹〉のいる世界とすり替えてしまえ……』
『白い荒野と拮抗するほど……この狂った時間が終わるまで、添い遂げたいと願うほど、切実で狂い果てた妄念……』
『嗚呼、完全なる遊戯──狂った時間の中に閉じ込めれば、永遠に続く?』
疑問に答え、提案するように誰かが囁いたような気がしたが、瞬く間に流れ込んできた囁きは〈妹〉の幼い声ではなく、大人の女の声だった。
だが、〈妹〉の名前が本当に瑞鳥だったのか、どんな顔をしていたのか──記憶の欠落を後ろめたく思うことも、誰かが囁いたことも忘れた。瑞鳥を守るという理由で、渇望を抑え込むことにしたからだ。
閃光の直前、橋の上ですれ違った少年が妹の手を引いていたことも忘れた。言問橋で火炎旋風に焼かれる直前の自分と〈妹〉のように見えたからだ。
忘れることは簡単だった。仔犬を抱いた瑞鳥の笑顔を眺めているだけで、思い出すこともなくなった。
瑞鳥と仔犬の瞳の中に、不思議な紋様──
†††
「オレは……いつから狂っていたんだろうな?」
そう呟きながら、殺し屋は横で眠っている妻の顔を見た。
その証拠に、殺し屋は昭和二十年三月十日の〈妹〉の顔を忘れている。
そもそも、本当に〈妹〉はいたのだろうか?
今となっては、三月十日以前の記憶すら怪しくなっている。
「……まったく、無駄に長く生きるもんじゃねえな」
八月十日の数寄屋橋で化かされたのは、欠落に付け込まれたからなのか。
それとも、〈妹〉がいた過去すらも捏造されたのか。
「どうして、てめえが生きているのか、無駄に考えるようになっちまうからな」
生きていることに意味はない。
この都市は、意味もなく生にしがみついている、幽霊たちの都市だ。
殺し屋も、そんな幽霊たちの一人でしかない。
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