File-03『昭和二十年八月十日/京橋区銀座〈数寄屋橋〉』

 新型爆弾投下から六十秒後、昭和二十年八月十日午前八時十六分──数寄屋橋の上に存在していた生命体は、十二歳の少年だけだった。

「どうして、じゃないの? 本当は──が殺すはずだったのに……」

 目の前で全能の神が聖なる光を放ち、塩の柱に変えたように見えたが、自分だけがまったく無傷だった。数分前まで、「……街はあらかた焼けちまったのに、こいつらはまだのうのうと生きていやがる!」と舌打ちしていたのが嘘のように、すべての生物が抹殺されていた。

 この時点ではまだ、三発目の新型爆弾──〈呪詛爆弾〉が巻き起こした災禍を正しく認識してはいなかった。もっとも、B-29から投下された爆弾を見ていたとしても、巨大なカボチャのような黄色の物体ピーター・パンプキン・ヘッドは、あまりにも異様な形状だった。爆弾としても、神様としても。

「……違う! 全能の神はだ!! どうして、オレより先に殺した!」

 取り残された少年は言葉の角度を変えながら繰り返し呟き、ゆっくりと崩れていく塩の柱たちをぼんやり眺めていた。

 少年はこの〈東京〉をみな殺しの荒野にしたいと思っていた。少年は少年を取り巻く世界を憎んでいたからだ。すべての地獄は、全能の神である自分の殺意──潜在意識が呼び寄せたのだとすら、思い込んでいた。

 都市生活者の矜持が田舎者の不条理で歪められた結果、少年はすべての人間を殺し、夢幻の如く純粋な荒野──を目指さなければならないと思っていた。

 少年の記憶の中で佇んでいる、一人の少女を除いては。

 何故か名前を忘れてしまった、一人の少女を除いては。


  †††


 殺意の契機となったのは、集団疎開先で味わった屈辱──すべての大人が、彼をと嘲り笑ったことだ。

 そして、疎開者こども同士での陰湿な暴力いじめの応酬──人間の本質が飢えた獣ケダモノでしかないことを悟った。

 牙を抜かれた大人ならば、脆弱な不能者ならば、自らを哀れな被害者だと思い込みながら、なんらかの正当性を纏いながら、人間社会へ憎悪を抱いていただろう。その社会に寄生しながら。

 だが、少年の純粋な闘争本能──生来の反抗心は群れることを許さなかった。

 獣の序列を叩き込まれることを拒否していた。

『圧倒的な暴力……この眼に映るものすべてを吹き飛ばす風……それさえあれば……』

 だから、飢餓と病が蔓延していた死臭の寺で伝え聞いた噂――次々と空襲で破壊されていく都市の光景が、いつしか少年の憧れとなっていた。

『ぼくは、ぼくの世界に紛れ込んだ異物を殺し……いや、すべての他者を殺し尽くさなければならない!』

 そうして、陰鬱な疎開先で抱き続けていた妄念が、神州不滅の皇国に大量殺戮の地獄を招き寄せている──少年はそう確信していた。

 問題は、自らの手で火を放ったのではなく、アメリカ軍の油脂焼夷弾ナパーム攻撃だったことだ。


  †††


「全能の神なのに……オレは思いつかなかった! くそったれのアメ公め! 先に殺しやがって!」

 都市へ戻り、すべてが焼き尽くされた光景に打ち震え、はじめて射精エジャキュレーションした少年の内奥に残されたのは、自分自身の手で大量殺戮を渇望する強烈な妄念だった。

 しかし、三月十日の火炎旋風以上の暴力を個人で行うことは不可能で、その手段すら思いつかないまま、東京大空襲よりも効率的に殺し尽くすに遭遇した。

「オレが……もう一度、てめぇらを……きれいさっぱり焼き尽くしてやるぜ!」

 哀しげに吠えていた少年は、いつの間にか、錆びて銃爪も動かない拳銃の残骸を握っていた。

 そして、みるみる塩化していく半死人――いや、死してなお、ゆらゆらと群がってくる屍体たちへ差し向けていた。

(……いつの間に、拾っていた?)

 ひどく不気味な拳銃だったので、川へ捨ててしまおうかと思った。

 なのに、握っている五本の指は自動的に懐へ入れてしまった。

 その動作が、少年の五感を妄想から現実へ引き戻した。

(考えてみれば……此処には、焼け焦げた屍体も、断末魔の呻きもねぇ……)

 新爆投下の瞬間──数寄屋橋の上にいた者は全員、日比谷公園上空で炸裂した閃光を全身に浴びていた。

 塩の柱が崩れるわずかな音と。強烈な夏の陽射しだけの世界──。

 生命だけが一瞬にして消えた、完璧な死の世界──。


(こんな殺し方があるのか……いや、あるものか!)

 二度も他者の手で殺されたことへの憤りではない。もっと生理的な不快感だ。

「いったい……此処は、何処なんだよ!」

 身震いした少年は、真夏だというのに寒気を感じ、急に数寄屋橋から立ち去りたくなった。行くあてもなかったが。

……此処は、〈東京〉……だよ」

 囁き声に振り返ると、少年の眼前に、雑種の仔犬を抱いた幼い少女が佇んでいた。

「……瑞鳥ミドリ……生きていたのか!」

 少女と仔犬の眼を覗き込み、を思い出した少年は、〈妹〉が無傷だったことを確かめると、少しだけ泣いた。

 彼女が災禍の中をどうやって生き延びたのか、少年は訊かなかった。


  †††


「そもそも、オレは八月十日までどうやって生きていたんだ?」

 少年の成れの果てである〈十七號館〉の殺し屋は、昭和二十年八月十日の光景を思い出したが、その日へ至るまでの記憶を失っていた。

「三月十日……陸軍記念日の地獄までは覚えているんだがな」

 何度思い出そうとしても、三月十日から八月十日までの五ヶ月間、どうやって生き延びたのか、ろくに覚えていなかった。

 ただ、少年は既に殺し屋の資質に目覚めていた。

 新爆異能者となる前から、殺人者として生きていた。

 新型爆弾投下以前から孤児だった少年は闇に紛れ、他人を殺し、食料を奪うことで生き延びていた。

 それを可能としたのは、都市の秩序が崩れ始めていたからだ。

 三月十日と五月二十五日の大量死で、都民の感覚は麻痺しつつあった。

 しかも、その頃の少年を知る者は一人も存在しない。

 昭和二十年三月から八月までの少年──精神的渇望と肉体的飢餓を満たすために小規模な殺人を繰り返していた獣の追跡者たちも、すべて塩の柱と化したからだ。


「オレがいた数寄屋橋は、爆心地の日比谷公園から700メートル。あの瞬間、1キロ圏内で生きていたのはオレだけだ」

 殺し屋は信じていた。

 自分が新型爆弾直下で生き延びたのは〈殺人者の強度〉を纏っていたからだと。

 だが、そうなると……が浮かんでくる。

「……日比谷公園から御文庫附属庫は1.6キロメートル。もちろん、〈即死境界線〉の中だ」

 御文庫附属庫は厚さ三メートルのコンクリートの外壁で覆われていたが、新型爆弾の呪詛を遮ることはできず、八月十日午前零時三分に始まった御前会議の面々もすべて即死した。

 一人を除いて。

 だが、その一人が〈殺人者の強度〉を纏っていたとは思えなかった。

 確かに、彼の名の下に戦争は遂行されたのだから、大量殺人者としての強度を帯びていたのかも知れない。

 しかし、直接、手を汚さなかった者が〈殺人者の強度〉を纏うことができるのだろうか――。

「おい、予言機械。てめえはを知っているんじゃねえのか?」

 殺し屋は〈鉛の卵〉を問い詰めたが、答えることはなかった。

「……くそったれが」

 代わりに、その表面に三月十日の光景を映し出したのだから、たまったものではない。

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