File-13『昭和三十九年八月八日⑦』

 暗い水に映し出された月の光が消えた後、そこにあったのは白骨化した屍体だった。

 汚水にまみれた小さな骨は変色し、原型を辛うじてとどめている程度に過ぎない。既に白骨化して十数年は経過している。

 衣服の断片すら残っていないので、性別も分からなかったが、年端も行かない子供の屍体であることは間違いなかった。

 そして、それが誰であるかも――桐原キリハラは薄々気づいていた。

「桐ちゃん……あんた、あたしが繋ぎ止めてなかったら、どうするつもりだったのよ」

 桐原キリハラは答えなかった。

 〈記憶喰いメモリイーター〉と〈虚身ボイド〉はセットでないと機能しないが、具現化した〈虚身ボイド〉しか〈記憶喰いメモリイーター〉の異能は使えない。誰かの記憶から〈虚身ボイド〉が生成されるのだとすれば、桐原キリハラの記憶を喰らった茉莉花マツリカはこの白骨屍体の記憶から生まれたのだろうか。

「どっちにしろ、茉莉花マツリカにはもう会えない。そう仕組んだのは、鏡子キョウコさんだろう?」

 〈鏡刃ナイフ〉で喉笛を切り裂いたのは桐原キリハラだが、本当は喰われて、消えてしまいたかった。

「それはそうだけど……どうして、桐ちゃんはセックスすらしてないのに、あの娘から〈女〉の証拠品を見つけてしまうんだろうね?」

 表情を失った桐原キリハラは、腐りかけた白骨をひとつひとつ拾い上げては、静かに見つめていた。

「普通の男は女を押し倒して、突き立ててよがった顔を見て、そいつが初めて〈女〉だと気づくものなのに。だから、桐ちゃんはあたしのようにあからさまに怪しいまがいものでも、さほど疑いもせずに〈女〉だと思い込めるのよ。本当におめでたいわ。可愛くて抱きしめたくなるほどおめでたい」

 べったりとした重さで覆われていた世界に抗うように、鏡子キョウコさんは一方的に話し続けた。

「念のため言っておくけど、別に褒めてないからね。勝手に理解されてしまう疎外感なんて、桐ちゃんには分からないでしょうね。誰も理解してくれないと、心の中でひっそりと憎みながら、緩慢な日常生活を続けてしまうような臆病者にはね」

 握った骨は簡単に崩れ落ちて、掌からこぼれた骨片が濁った水の中へ戻っていく。

「でも……仕方ないのかも知れないね。だって、桐ちゃんは普通の人間じゃないもの」

「そんなことはない。社会からおちこぼれてる――普通の男さ」

「あたしや兄さんのように明確な意志を持つ〈魂魄ファントム〉を植え付けられて、元の人格を維持しているひとが、普通の人間であるわけがないのよ」

 人間が駆動するためには脳の三割を使うが、霊的な空白領域となっている残りの七割に、桐原キリハラは種子化された〈魂魄ファントム〉を植え付けられた。それは時間の経過によって、次々と目覚めていく仕掛けになっていたが、桐原キリハラ以外の実験体は発芽した瞬間にほとんど全員が発狂し、脳が四散した――はずだった。

「普通はこの時点でまずショック死するから、植え付ける方もどうかしてるけどね」

 霊的な進化が極限まで達し、臨界点を突破すると、新型爆弾に匹敵する大規模な霊的破壊が発生する――生きていた頃の〈研究所員〉が呟いていたことを桐原キリハラは思い出した。

「桐ちゃん、あんたはひとの形をした新型爆弾なのよ」

 次に鏡子キョウコさんとの訓練光景を思い出した。大脳旧皮質から脳髄に至るまで、種子化された不可視の〈魂魄ファントム〉が無数に植え付けられているという話を信じたのは、説明に疲れた鏡子キョウコさんがお帰りになられて、強烈な偏頭痛を経験してからだったが。

「あたしはそろそろ眠るけど、寂しくなったら呼び出すといいわ。話し相手ぐらいにはなってあげるから」

「もう、呼び出さないかも知れない。茉莉花マツリカを殺した幽霊なんて、顔も見たくない」

「あたしの顔を見たこともなければ、見ることもないでしょう?」

 その通りだ。脳内に棲む女の顔を確かめる術はない。

「桐ちゃんはまた呼び出すわよ。だって、あたしが罵ってあげなくちゃ、自分が現世にいることすら確かめられない不能者なんだから」

 テープを早回しするように一通りまくしたてた鏡子キョウコさんは、一方的に桐原キリハラの意識から消えた。

 鏡子キョウコさんは――泣いていた。


†††


 暗い廃墟から抜け出すと、曇った空の薄暗い夜で、月はもう見えなかった。

 時計を見ると、夜の12時を回っていた。たかだか半日程度のことだったのに、桐原キリハラは数年分は老け込んだような疲労感を感じていた。

 〈泥棒市場〉へと歩き出した桐原キリハラは、茉莉花マツリカを切り裂いて奪取した記憶の中にひとつ、余計な記憶が混じっていることに気づいた。

 記憶――いや、記憶ですらない。

 それは――感触だ。

 桐原キリハラは掌から伝わる暖かくて小さな鼓動と、柔らかい皮膚に絡みついた指を忘れないように、何度も確かめた。


 人間は憎悪によって駆動する機械であり、憎悪を喪失した者は活動を止めるしかない。

 憎悪の代替燃料は、一つだけある。

 それの効率は非常に悪く、不安定なのだが、憎悪に比べればクリーンな燃料だ。

 憎悪することに疲れてしまった男は、行き場を失った女を連れ帰った夜、それを選んだ。

 女が、燃料を憎悪に乗り換えることを選択しようとしていたことを知らずに。

 その暮らしはゆるやかに交錯して。

 互いに触れる勇気も無く。

 ふたりぼっちの孤独の中にいた。

 四六時中、鏡に向かい合っていたようなものだった。

 正反対なのにそっくりだったから、耐えられなかった。

 救いを求めて触れ得ざる者に触れた女は、男の記憶を喰って――逆に「こころ」を喰われた。

 結局、孤独であることに変わりはなく――孤独な月夜の散歩は続く。

 燃料が尽きて歩けなくなるまで。

 背負い込んだ茉莉花マツリカ――いや、幼くして死んだ〈あの娘〉の小さな鼓動が消える瞬間まで。

 幽霊たちのダンスを覗き込んでいる。

 あの夏に死んだ幽霊たちのダンスを。

 八百万の神々たちの静かなる祭りを。



(空想東京百景〈夜話〉Night tale

 『鏡の中にある如く/Profit in a mirror』完──that's all finish!)

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