File-12『昭和三十九年八月八日⑥』

 あなたから逃げ出したのは〈わたし〉。

 〈わたし〉がいいこじゃなかったから。

 〈わたし〉がわがままだったから。


 〈あの娘〉は〈わたし〉の大切なともだち。

 誰かに連れ去られて、誰かにふしぎなたねを埋め込まれてしまって、ひとじゃないものになってしまったけど、大切なともだち。

 でも、此処ではちゃんと生きられるけど、外の世界で生きていくには、〈あの娘〉はいいこじゃなかった。

「殺して喰らってしまうから、外の世界では生きていけないの」

 〈あの娘〉は、此処にいることしかできなくて。

 でも、誰かに会いたくて、〈わたし〉以外の誰かに知ってもらいたくて。

 だから、あなたは最初に喰らった自分自身――茉莉花マツリカの記憶から〈わたし〉を作ることを許してくれた。

 でも、呪符に縛られた廃病院に囚われているひとくいおにのゆうれいから作られた〈わたし〉は可愛い〈あの娘〉じゃなくて、いびつに育った姿だった。

 あなたの領域――〈蝿の街〉から逃げ出し、不安定に揺らいでいる〈わたし〉は、まるでハイミナール常習者みたいだったけど、桐原キリハラは〈わたし〉を好きになってくれた。

 でも、〈わたし〉は喰らってしまった。桐原キリハラの知らない間に。何人も喰らっていた。

 結局、同じことの繰り返しで。

 やっぱり、一緒にはいられないんだ、って。


 疲れて眠っている桐原キリハラの横で泣いていた〈わたし〉の前に現れたゆうれいは、銀色の長い髪と金色の鋭い瞳だったけど、〈あの娘〉と同じ顔をしていた。

 桐原キリハラが病院に運び込まれる前に、失敗作だと首を絞められた、哀れで可愛かった女の子の顔をしていた。

 そのひとは〈わたし〉に引導を渡した。

 戻って、滅びろと。桐ちゃんの手で殺してあげるから。

 怒ったり、笑ったり、なんだか忙しいゆうれいだった。

 同じようにふしぎなたねから生まれたのに、〈あの娘〉と同じ顔をしてるのに、まるで正反対だった。


†††


 二つの事柄と無数の夾雑物ノイズが切断面から流れ出し、その切り口の奥には漆黒の世界――いや、途方もない虚無が広がっていた。

 自分の能力を自覚し、誰かのまがいものに過ぎないことを知った茉莉花マツリカは、能力を発動させ、桐原キリハラから茉莉花マツリカの記憶を奪った。

 すれっからしのあばずれな〈魂魄ファントム〉は〈地雷マイン〉の爆発に隠れ、猫の〈虚身ボイド〉を操る経路を辿って〈記憶喰いメモリイーター〉の脳に潜んでいた。

 そして、茉莉花マツリカもまた〈虚身ボイド〉だった。

「……月の光が消えるまで、抱きしめて」

 茉莉花マツリカの後頭部を抱え、桐原キリハラは切り裂かれた断面から闇が漏れないように必死で押さえつけた。

「……わたしの首に、あなたの腕が絡みつくように――」

 それでも――切断面から闇は溢れ、無表情な〈虚身ボイド〉の幻影が呑み込まれていく。

「昔、あなたと遊んだわたしは此処にいたんだよ、って――」

 その言葉には嘘が紛れていて、同じ女である鏡子キョウコさんはその嘘に気づいていた。

 闇病院の実験体同士とはいえ、桐原キリハラ茉莉花マツリカを知らなかった。

 おれが連れて来られたときには、もう、茉莉花マツリカ――君の本体は死んでいたからだ。

 先輩が遺した研究記録に、〈記憶喰いメモリイーター〉の実験体は種子シードを植え付けられたが、すぐに拒絶反応を起こし、ショック死したと記されていた。

 解読できたのは、闇病院の記憶へ潜り込んだ儀式の瞬間だったけど。

 茉莉花マツリカの脳髄から生まれた「何か」は宿主が殺された後、闇病院と一体化し、地縛霊のように留まっていた。昭和27年の火災の後も、消えることなく此処にいた。

 だから、昔に出会っていたとしても、それもまた〈虚身ボイド〉だった。

 抱きしめた〈虚身ボイド〉の向こう側で、包帯と呪符が解けていく。現れたのは表情を失った幼い少女。柔らかい皮膚に絡みつく指が貼り付いて溶け込んで、溢れ出す記憶の断片を受け容れるのに〈鏡刃ナイフ〉を経由する必要もなくなっていた。

 月の光に抗うこともなく、最後まで桐原キリハラを受け容れることもなく――闇と共に茉莉花マツリカの〈虚身ボイド〉は霧散した。


†††


 はあん、てめえは馬鹿か。呪符とてめえの恨み辛みで縛られていたおれが言うのもなんだが。せっかく〈虚身ボイド〉を与えてやったのによ。結局、妹の宿主――桐原キリハラに引き寄せられ、滅びの道を辿る羽目になるたァな。

 ま、そのへんは鏡合わせのようにおれとそっくりな顔をした妹の宿主だけあるわな。妹はおれと違って〈虚身ボイド〉で男をたぶらかしたりはしねえけどな。

「やっぱり――〈わたし〉は上手く生きられなかった」

 はァ?

 はん、それがてめえの〈強度〉かよ。そんなことで簡単に壊れるような馬鹿はさっさと向こう側に消えろ。ばァか。突きたてられ、こねくりまわされて、とっくに向こう側の住人になってたと思いきや、よくここまで図々しく未練がましく生き延びてやがったな半死人。他人に想いを馳せることもできねえ一方通行の半死人。おれからくすねた〈記憶喰いメモリイーター〉の神通力で、自由を手にしたってのに、結局は殺人鬼に成り果てた図々しい半死人。てめえは8月10日の〈生き腐り〉どもよりタチが悪ィよ。

「〈わたし〉の喉笛を切り裂いたのは、銀色の髪と金色の鋭い瞳の――あなた?」

 おれの妹さ。おれと同じ顔の。そうだ、てめえが喰らった妹を桐原へ返したんだよ。

 恨めしい顔をするんじゃねえよ。ばァか、桐原キリハラは妹のもんだ。そんな顔ができるんだったら、桐原キリハラに見せてやれば少しは喜んだろうによ。

 まったく、てめえに桐原と釣り合う強度があれば、桐原キリハラも救われたのによ。いつも居場所を探し損ねてはうなだれてやがるから妹に面倒を見させているんだが、桐原キリハラは女を見る目がねえよな。もっとも、女は見てくれじゃわからねえけどな。なんせ桐原キリハラの内面はデパートのように広くて気持ちがいい。こんな廃病院はもう勘弁だ。ましてや幼女の屍なんざもう勘弁だ。せまっくるしくてドス黒くて湿っぽいのは好きじゃねえ。おいおい、泣いてんじゃねえよ。すまん、ドス黒いってのは言い過ぎた。困ったな、男ってえのは女の涙にゃ弱いんだ。しょうがねえ、今回は特別サービスだ。てめえも妹と一緒に桐原キリハラの内面へ葬ってやる。

 代金はてめえに植え付けられていた俺の神通力――〈記憶喰いメモリイーター〉〈虚身ボイド〉と引き替えだ。妹はちょいとばかしあばずれで口も悪ィが、ろくに表情もないてめえと融合すりゃあ、ちょうど釣り合いが取れるだろ。ああ、名乗るのを忘れてたな、おれの真名は〈狂孤キョウコ〉ってんだ。妹も同じ読みだけどよ、くれぐれも間違えんなよ。おれはようやく幽世へ帰って寝るわ、って、もう行っちまったか。ちっ、少しは感謝しやがれってんだ、くそったれ。

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