File-11『昭和三十九年八月八日⑤』
今日は新月のはずだ。
一人で瓦礫の積み上がった広間に戻ってきた
次に、暗い水に映し出された月を思い出した。地下で見えるはずのない月は白く満たされていて、だらしなく垂れ下がった電線や錆びたワイヤーと絡まった縄紐に吊された呪符がふらふらと揺れている。
現世の地獄――〈蝿の街〉に潜んでいる〈
それは、闇が
「襲撃されたということは、逆に引きずり込むこともできる……この場所なら」
そして、〈師匠〉から教わった
玉のような脂汗を流し、祝詞を繰り返すと、天井が崩れた闇病院の大広間――昔と同じ場所に佇んでいた
錯覚ではなく、予兆でもなく、完全に満ちていく――。
「
すると、鏡に映る月に波紋が広がった。見上げた
今となっては季節はずれな服装も、破れた安物のダークスーツに身を包み、緩んだネクタイの
「ずいぶんと――久しぶりだな」
トックリセーターの無表情な女は、動かない表情のまま、
「……どうして、此処に来たの」
「……消えた理由を聞きたいからだ」
あの時は愛想を尽かされたのだろうと思っていた。
自分で言うほどには醜くはなかったが、美人と言い切る自信もない。笑えば可愛いことは分かっていたが、無表情な
上手く生きられない
身体的な劣等感が
そして、
「いやな記憶を喰ってあげたのに」
「簡単に喰い切れるほど人生経験は浅くない」
「探さなければ良かったのよ。忘れてくれれば良かった」
泣きそうな声で責める
「新宿に
表情を全く変えずに
「あのひとは――勝手に行ってしまった。わたしが喰らって再現した〈
意外な返答に、
だが、考えてみれば〈
「上手く生きられないから、殺し方も上手くないから、殺す前には喰らうしかなくて」
「…………」
「わたし、同じことを繰り返してばかり」
謝るように呟いてはいたが、襲撃や〈
「憎いから、憧れた――あなたは上手くやってるわ」
「違うな。バンドは上手く行かなかったし、今も落ちこぼれている」
気づかれないように
「それに……
凡庸なドラマはすれっからしをよろめかせることもできない。
視線の意識圧から逃れるように周りを見回せば、地下の廃墟は〈取り残された者の憎悪〉で溢れかえっていた。喰らった他人の憎悪、虐げてきた全てのものに対する憎悪、全てが混交し、まるで死の世界を模しているようだった。
「その記憶、君には重すぎる」
「
鏡に映したように似ていたから、共鳴して〈
劣等感と憎悪は、能力を自覚したことで、どんどん膨れあがっていく。
破壊衝動は暴走し、目に映る全てを殺意で染め上げていく。
「わたしは時限爆弾で――時限爆弾はどんどん膨れ上がって、最後には爆発するの」
†††
だから、てめえは目の前に映る月が真っ赤に染まるまでに、できるだけの憎しみを背負っておきたかったのか。
まったくよう、ひとの世の彼方、満州の地で神仙――魔女を殺し、その〈
〈将軍〉――満州帰りの軍医が仲間を連れてこの薄暗い廃墟に足を踏み入れたのは、
ああ、ありがちな発想じゃねえか、そんなのはよ。
突出した強度を獲得したと思い込んだ訳知り顔がよく行き着くんだよな。
まったく、太昔から繰り返されてきたのにさ。
イエス・キリストにブッダ、ナポレオンにアドルフ・ヒトラー、スターリンに
でもな。てめえはとっくに絞められ、殺されているんだ。てめえの干涸らびた〈あの娘〉から這い出したおれは、United States biological weapons program――技術を奪って祖国へ献上したアメ公の証拠隠滅――大量虐殺に乗っかって、現世に留まっているがな。
†††
突然の違和感――その呟きは目の前の
「違うわ。此処にいるのは、わたしじゃなくて〈あの娘〉だから」
「……
二十センチ以上も小さい女の首筋を包み込むように、
「〈あの娘〉はずっと此処にいたんだもの」
眼前の
「好かれるのは嬉しかったけど……何の感情も抱けなかった。〈あの娘〉はそんな感情を抱く前に切り刻まれて――」
感情を抑えた声で答えたのは、生まれついての〈
「〈あの娘〉がいたことを――わたし以外の誰かに知って欲しかった。だって、わたしは〈あの娘〉の――」
「全部……持って行け」
絡めた舌が血の味を感じた瞬間、舌先で具現化した〈
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