File-11『昭和三十九年八月八日⑤』

 今日は新月のはずだ。

 一人で瓦礫の積み上がった広間に戻ってきた桐原キリハラは一昨日、甘木アマギと見上げた新宿の夜空を思い出していた。

 次に、暗い水に映し出された月を思い出した。地下で見えるはずのない月は白く満たされていて、だらしなく垂れ下がった電線や錆びたワイヤーと絡まった縄紐に吊された呪符がふらふらと揺れている。

 現世の地獄――〈蝿の街〉に潜んでいる〈記憶喰いメモリイーター〉は、月が完全に満ちた夜にしか現れない。

 それは、闇が地獄いんへるのと同期する瞬間だ。

「襲撃されたということは、逆に引きずり込むこともできる……この場所なら」

 桐原キリハラはいくつかの呪符を焼くと、懐から婦人用の手鏡を取り出し、鏡面を睨みつけた。

 そして、〈師匠〉から教わった審神者さにわ祝詞のりとを唱えていく。複数の〈魂魄ファントム〉を操るデパートの集中力で、何処かに隠れている〈記憶喰いメモリイーター〉を召喚――具現化する儀式だ。

 玉のような脂汗を流し、祝詞を繰り返すと、天井が崩れた闇病院の大広間――昔と同じ場所に佇んでいた桐原キリハラの頭上に、あるはずのない月が浮かび上がる。

 錯覚ではなく、予兆でもなく、完全に満ちていく――。

茉莉花マツリカ……月夜の下で踊らないか」

 すると、鏡に映る月に波紋が広がった。見上げた桐原キリハラの眼前に現れた人影は、半年前と同じ姿――センター分けのミディアムショートヘアな黒髪と、黒いトックリセーターと男物のGIズボンという服装だった。

 今となっては季節はずれな服装も、破れた安物のダークスーツに身を包み、緩んだネクタイの桐原キリハラに指摘する資格はなく、久しく忘れていた高揚感と下降感を繰り返すような感覚の中で、そっと呟いていた。

「ずいぶんと――久しぶりだな」

 トックリセーターの無表情な女は、動かない表情のまま、桐原キリハラが向ける優しい視線に対する困惑を精一杯に表そうとした。

「……どうして、此処に来たの」

「……消えた理由を聞きたいからだ」

 あの時は愛想を尽かされたのだろうと思っていた。

 茉莉花マツリカは劣等感の塊だった。

 自分で言うほどには醜くはなかったが、美人と言い切る自信もない。笑えば可愛いことは分かっていたが、無表情な茉莉花マツリカが少しだけ笑うのは、桐原キリハラが誰かを貶めるような言動をした時だけだった。

 上手く生きられない茉莉花マツリカは他人を見下すことでしか、他人と繋がることができなかったから、それは必要なことだったし、彼女との生活は集中力を常に必要とした。

 身体的な劣等感が茉莉花マツリカの過去に起因することは、薄々気づいていたが、茉莉花マツリカはその話題を嫌っていたし、劣等感は受動的な攻撃性になっていたから、話題にすることは極力避けなければならなかった。

 そして、桐原キリハラが諦めと慣れを覚えた頃に茉莉花マツリカは消えた。

「いやな記憶を喰ってあげたのに」

「簡単に喰い切れるほど人生経験は浅くない」

「探さなければ良かったのよ。忘れてくれれば良かった」

 泣きそうな声で責める茉莉花マツリカに、桐原キリハラは驚く。

「新宿に甘木アマギを具現化したな?」

 表情を全く変えずに茉莉花マツリカは首を振った。縦ではなく、横に。

「あのひとは――勝手に行ってしまった。わたしが喰らって再現した〈虚身ボイド〉を制御できるのは、この街の中だけだから……」

 意外な返答に、桐原キリハラは呆然とした。

 だが、考えてみれば〈魂魄ファントム〉の存在すら知らなかったはずの茉莉花マツリカが、その能力を自在に使いこなせるとは限らなかった。

「上手く生きられないから、殺し方も上手くないから、殺す前には喰らうしかなくて」

「…………」

「わたし、同じことを繰り返してばかり」

 謝るように呟いてはいたが、襲撃や〈地雷マイン〉は自分が意図したことであると明言された桐原キリハラは困惑した。

「憎いから、憧れた――あなたは上手くやってるわ」

「違うな。バンドは上手く行かなかったし、今も落ちこぼれている」

 気づかれないように桐原キリハラは少しずつ距離を詰めて、呟く。

「それに……茉莉花マツリカがいない」

 鏡子キョウコさんが存在していれば、さぞ大きなあくびをしたことだろう。

 凡庸なドラマはすれっからしをよろめかせることもできない。

 視線の意識圧から逃れるように周りを見回せば、地下の廃墟は〈取り残された者の憎悪〉で溢れかえっていた。喰らった他人の憎悪、虐げてきた全てのものに対する憎悪、全てが混交し、まるで死の世界を模しているようだった。

 桐原キリハラは「景色が重いから」という、茉莉花マツリカの台詞を思い出し、かつての自分がこの場所から去った理由を初めて理解した。いびつな姿を恥じて、結界の中に自らを封じているかのように立ちすくむ、できそこないの殺人者の姿は鏡に映った自分だった。

「その記憶、君には重すぎる」

桐原キリハラの記憶だけじゃない。わたしはたくさんの憎しみを喰らってしまっているから」

 鏡に映したように似ていたから、共鳴して〈魂魄ファントム〉が目覚めてしまった。

 劣等感と憎悪は、能力を自覚したことで、どんどん膨れあがっていく。

 破壊衝動は暴走し、目に映る全てを殺意で染め上げていく。

「わたしは時限爆弾で――時限爆弾はどんどん膨れ上がって、最後には爆発するの」


†††


 だから、てめえは目の前に映る月が真っ赤に染まるまでに、できるだけの憎しみを背負っておきたかったのか。

 まったくよう、ひとの世の彼方、満州の地で神仙――魔女を殺し、その〈魂魄ファントム〉を奪って植え付けても、人間は神々と等しくはならねえんだよ。せいぜい、爆弾に積んで神通力を呪詛――神罰として炸裂させ、哀れな衆生を塩の柱へ変換することぐらいしかできねえし、それも猶太ユダヤ人を殺して詰め込んだナチ公と、掠め取ったアメ公に先を越されちまった。

 〈将軍〉――満州帰りの軍医が仲間を連れてこの薄暗い廃墟に足を踏み入れたのは、〈東京〉トーキョーが神罰まみれになった直後の話だったんだが、満州国まんしゅうこく石原いしはらって奴の部下だった〈将軍〉は研究員を集め、「大量死の仕掛けを競う〈世界最終戦争〉の後は、突出した異能の者たちが非合法破壊活動の技術を競う時代になるだろう」と演説しやがったんだな。

 ああ、ありがちな発想じゃねえか、そんなのはよ。

 突出した強度を獲得したと思い込んだ訳知り顔がよく行き着くんだよな。

 まったく、太昔から繰り返されてきたのにさ。

 イエス・キリストにブッダ、ナポレオンにアドルフ・ヒトラー、スターリンに毛沢東マオ・ツォートン。まあ、不釣り合いな意思と肉体を強引に一致させようとする馬鹿は珍妙なものだが、魅惑的ではあるな。でもよ、歴史を混乱させるのもそんな馬鹿どもだ。奴らは不条理であるべきものまで正しい位置に戻そうとするお節介だ。そうすることで、自分の欠落を克服できると信じていやがる。

 でもな。てめえはとっくに絞められ、殺されているんだ。てめえの干涸らびた〈あの娘〉から這い出したおれは、United States biological weapons program――技術を奪って祖国へ献上したアメ公の証拠隠滅――大量虐殺に乗っかって、現世に留まっているがな。


†††


 突然の違和感――その呟きは目の前の茉莉花マツリカではなく、茉莉花マツリカの向こう側から聞こえたような気がした。

「違うわ。此処にいるのは、わたしじゃなくて〈あの娘〉だから」

「……茉莉花マツリカは、茉莉花マツリカだ」

 二十センチ以上も小さい女の首筋を包み込むように、桐原キリハラはゆっくりと抱きしめた。抱きしめた感触は半年前と同じで冷たく、匂いもなかった。

「〈あの娘〉はずっと此処にいたんだもの」

 眼前の茉莉花マツリカの瞳は虚ろで、光を失っていた。桐原キリハラ茉莉花マツリカの突出してしまった強度に気づかなかったことを悔やんだ。不条理を直視することが辛かったから、睡眠薬遊びで目に映る景色を歪ませていたのは、桐原キリハラの暮らしている世界こそが、茉莉花マツリカにとっては不条理だったということに気づかなかったことを悔やんだ。

「好かれるのは嬉しかったけど……何の感情も抱けなかった。〈あの娘〉はそんな感情を抱く前に切り刻まれて――」

 感情を抑えた声で答えたのは、生まれついての〈虚身ボイド〉だった。

「〈あの娘〉がいたことを――わたし以外の誰かに知って欲しかった。だって、わたしは〈あの娘〉の――」

 桐原キリハラ茉莉花マツリカの冷たい身体を暖めるように、再び抱きしめた。

「全部……持って行け」

 絡めた舌が血の味を感じた瞬間、舌先で具現化した〈鏡刃ナイフ〉が茉莉花マツリカの内側から喉笛を切り裂いた。

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