File-10『昭和三十九年八月八日④』

 薄汚れた白衣を着たその男は膝を抱え、血痕と銃痕が刻まれたコンクリートの壁をぼんやりと見つめる視点は定まらず、桐原キリハラの顔を見ても微動だにしなかった。

 年月と一緒に刻まれた皺と醜いケロイドを除けば、その顔にはかすかな見覚えがあったが、浸水した廊下にうずくまっていた〈研究所員〉は襲いかかってくる気配もなく、〈虚身ボイド〉としてもできそこないだった。左半分しか再現されてなかったからだ。

「記憶だけではなく、人格ごと喰われているわね」

 鏡子キョウコは男が〈記憶喰いメモリイーター〉に人格ごと喰われた理由を、既に生きる目的を失っていた半死人であったことに加え、その内面が恐怖の記憶と偏執的な憎悪だけで満たされていたからだと推測した。

「〈記憶喰いメモリイーター〉が好んで喰らう記憶は〈取り残された者の憎悪〉なのかも知れないね」

 そして、桐原キリハラの記憶から茉莉花マツリカとの想い出が消えたのは、それが同時に憎悪の記録でもあったからだと。

 あまりにも唐突で突飛な「女の直感」だったが、桐原キリハラには否定する自信もなかった。

 闇病院を偽装した研究所が焼失した後も、内面に拭いがたい恐怖を植え付けられた男は街の外に出ることすらできなくなったのだろう、男からは〈生き腐り〉の吐く死臭に似た臭いがした。思念が意志の制御を失い、漏れ出しているのだ。その思念は狂気に彩られていて、有用な情報を選び出すだけでも骨が折れそうだった。

 鏡子キョウコさんが〈鏡刃ナイフ〉を具現化し、漏れた思念を拾い上げようとすると、意識の中に鏡子キョウコさんとは違う声が響いた。

「……ハローハロー、わしの声が聞こえるかァ。そいつは記憶仕掛けの〈地雷マイン〉だ。触れると発狂するぞォ」

 声の調子からして、初老の男性だろう。鏡子キョウコさんが〈鏡刃ナイフ〉を霧散させると、漏れだした思念は禍々しい障気に変わった。

「ふう、〈取り残された者の憎悪〉ほど、たちの悪いものはないね。で、あんたは誰?」

「……嬢ちゃんたちは、この土地に開いた穴を封じに来たのか?」

「あたしらが都の依頼で来たように見える? ていうか、あたしと桐ちゃんの素性を訊く前に、あんたが姿を見せなさいよ」

 桐原キリハラの意識の中で会話は行われていたが、少なくとも視界にそれらしき男はいない。

「……そこに猫がいるだろう。そいつがわしだ」

 言われた通りに見回すと、薄汚れた小さな黒猫が静かに佇んでいた。

「ふうん――警視庁〈0課〉、それも〈宗教特高〉の刑事ねぇ。少々、領域外のような気もするけど?」

「わしはもう死者じゃからな。四年前、殺し屋ギルドの〈灼熱獄炎ノ魔銃〉に焼き尽くされ、殉職しておる。いまは趣味でこの街をうろついとる隠居の身さァ」

 黒猫の本体――焼き尽くされた現身は、さっき戦った作業服の老人だった。

 殺し屋ギルドの〈魔銃遣い〉と警視庁〈0課〉の死闘――人生で二番目に遭遇したくない事象だ。一番目はもちろん、19年前の新爆投下だが。〈呪詛爆弾カースボム〉が撒き散らした〈無限に連鎖していく死〉は、半径数キロ以内の「生命あるものすべて」を塩の柱に変え、〈東京〉トーキョーは一面の白い荒野と化したのだ。

「……ふん、関東軍の馬鹿どもが――くだらぬ実験で地獄の釜の蓋を開けたせいだァ」

 戦後の〈東京〉トーキョー都民は新型爆弾の悲惨な記憶を払拭するため、新しい信仰を求め、それに応える形で新興宗教団体が乱立した。国家神道の影響力を弱めるため、GHQが宗教団体に対して税制を優遇したことも大きいだろう。

 ところが、非課税であることを利用し、新興宗教団体のいくつかはお布施を貯め込んでは東京の土地を買い占め、競うように武装化した。特に「法華経を唱えるヒトラー」が率いる〈御多福会〉は、新爆異能者たちを信者――殺人プロフェッショナルとして取り込む一方で、国政にまで進出し、もう少しで政権の掌握を狙えるところまで来ている。

 国際ギャング団以上に厄介なこれらの宗教団体に対し、秘密裏に捜査を行い、場合によっては殲滅する役目を担ったのが〈宗教特高〉だ。もちろん、信教の自由は保障されているから、表向きは都の官吏ということになっていたが、実際は警視庁〈0課〉に属する特務戦闘班だ。

「……向こうから障気が流れ込んで、再開発してもあっという間にスラム化しちまう。結局、閉鎖区域にするしかなかったんさァ」

 〈宗教特高〉という名の由来は敗戦により戦争協力責任に問われ、危うい立場となっていた特高刑事たちを都が水面下でスカウトしたことに起因している。おそらく、伴淳を陰気にしたような訛りのある声で語りかけてくるこの黒猫も、特高上がりなのだろう。

「……まったく、まさか、一宮製薬731人工異能者プロトタイプが潜んでいたとはなァ。わしの本体……四年前に殺された屍を知らぬ間に喰い散らかし、下僕とするとはなァ……くそったれの〈記憶喰いメモリイーター〉め、わしの記憶から勝手に生前の〈虚身ボイド〉を作り出しよって!」

 この特高刑事は殺された際、あらかじめ用意していた緊急待避用の〈人工魂魄〉を野良猫へ植え付けたらしい。緊急待避用の疑似代替品である以上、八百万の神々から精製された本来の〈魂魄ファントム〉には及ばないが、その構造を熟知している人間が使えば、ある程度は機能する。

 警視庁〈0課〉――特に対宗教特務班の刑事は魔人級の異能者で構成され、全員が特殊戦闘のエキスパートだったが、桐原キリハラが実際に会ったのは初めてで、そもそも、自分以外の能力者に出会うことも初めてだった。

 それにしても、生物の脳髄へ憑依して駆動する精神体の一種である〈魂魄ファントム〉が、猫に憑依し、人間のように思考しているのは初めて見たと、鏡子キョウコさんも呆れていた。

「お爺ちゃん……〈記憶喰いメモリイーター〉は何処?」

「……無駄な問いじゃな。この場所……〈蠅の街〉全体が奴の領域じゃ。自ら姿を現すことはありゃせんよ。遠隔操作で〈虚身ボイド〉を差し向けるだけで、本体は向こう側に潜んでおる」

「向こう側?」

 二人の会話に桐原キリハラが口を挟んだ。

「……地獄いんへるのに決まっておるだろうがァ」

 桐原キリハラの問いに老刑事は素っ気なかった。男というものは本来の身体を失っていても、女と話す方が嬉しいのだろうか。

「ところで、今年の巨人軍はどうなっておる?」

「残念ねえ。今年は大洋と阪神のデッドヒートよ。巨人は一昨日も馬場正平ばばしょうへいに完封されているし、もう優勝は無理ね」

「……そうなのか。わしは猫になってから、よく変な夢を見る。さっき見た夢では、馬場がプロレスラーになっていた」

「あはは、それは面白いわ。でも、馬場がプロレスラーに転向すれば大相撲なんかに負けやしないのに!」

 鏡子キョウコさんがカン高い声で笑った。まるでグランドキャバレーのホステスと客の会話だ。

「……ああ、我ながら変な夢だと思うさ。馬場がプロレスラーなんてなァ……」

 老刑事の呟きは不意に途切れ、桐原キリハラの頭の中に静寂が訪れた。

 〈記憶喰いメモリイーター〉に関する情報を後続の異能者に伝える、という役割を終えた老刑事の〈人工魂魄〉は猫の意識と融合し――消滅した。

 沈黙は続き、桐原キリハラ鏡子キョウコさんも意識の中に存在していないことに気づいた。

 何度も鏡子キョウコさんに呼びかけたが、応えることはなかった。

「……やられた」

 本当の〈地雷マイン〉は目の前にいた。黒猫もまた〈虚身ボイド〉だったのだ。

 黒猫の老刑事もまた、〈記憶喰いメモリイーター〉に殺され、脳組織を喰われていた。

 猫は人間に比べると夾雑物ノイズとなる記憶が少ないから、鏡子キョウコさんが〈虚身ボイド〉だと気づかないくらい、巧妙に再現することも可能なのだ。

 そして、〈虚身ボイド〉は〈記憶喰いメモリイーター〉から与えられた〈地雷マイン〉の役割を遂行した。

 鏡子キョウコさんは〈記憶喰いメモリイーター〉に喰われたのだ。

 桐原キリハラは沈黙の果てに思い至る。そして、果てしない虚無感に襲われていた。

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