File-10『昭和三十九年八月八日④』
薄汚れた白衣を着たその男は膝を抱え、血痕と銃痕が刻まれたコンクリートの壁をぼんやりと見つめる視点は定まらず、
年月と一緒に刻まれた皺と醜いケロイドを除けば、その顔にはかすかな見覚えがあったが、浸水した廊下にうずくまっていた〈研究所員〉は襲いかかってくる気配もなく、〈
「記憶だけではなく、人格ごと喰われているわね」
「〈
そして、
あまりにも唐突で突飛な「女の直感」だったが、
闇病院を偽装した研究所が焼失した後も、内面に拭いがたい恐怖を植え付けられた男は街の外に出ることすらできなくなったのだろう、男からは〈生き腐り〉の吐く死臭に似た臭いがした。思念が意志の制御を失い、漏れ出しているのだ。その思念は狂気に彩られていて、有用な情報を選び出すだけでも骨が折れそうだった。
「……ハローハロー、わしの声が聞こえるかァ。そいつは記憶仕掛けの〈
声の調子からして、初老の男性だろう。
「ふう、〈取り残された者の憎悪〉ほど、たちの悪いものはないね。で、あんたは誰?」
「……嬢ちゃんたちは、この土地に開いた穴を封じに来たのか?」
「あたしらが都の依頼で来たように見える? ていうか、あたしと桐ちゃんの素性を訊く前に、あんたが姿を見せなさいよ」
「……そこに猫がいるだろう。そいつがわしだ」
言われた通りに見回すと、薄汚れた小さな黒猫が静かに佇んでいた。
「ふうん――警視庁〈0課〉、それも〈宗教特高〉の刑事ねぇ。少々、領域外のような気もするけど?」
「わしはもう死者じゃからな。四年前、殺し屋ギルドの〈灼熱獄炎ノ魔銃〉に焼き尽くされ、殉職しておる。いまは趣味でこの街をうろついとる隠居の身さァ」
黒猫の本体――焼き尽くされた現身は、さっき戦った作業服の老人だった。
殺し屋ギルドの〈魔銃遣い〉と警視庁〈0課〉の死闘――人生で二番目に遭遇したくない事象だ。一番目はもちろん、19年前の新爆投下だが。〈
「……ふん、関東軍の馬鹿どもが――くだらぬ実験で地獄の釜の蓋を開けたせいだァ」
戦後の
ところが、非課税であることを利用し、新興宗教団体のいくつかはお布施を貯め込んでは東京の土地を買い占め、競うように武装化した。特に「法華経を唱えるヒトラー」が率いる〈御多福会〉は、新爆異能者たちを信者――殺人プロフェッショナルとして取り込む一方で、国政にまで進出し、もう少しで政権の掌握を狙えるところまで来ている。
国際ギャング団以上に厄介なこれらの宗教団体に対し、秘密裏に捜査を行い、場合によっては殲滅する役目を担ったのが〈宗教特高〉だ。もちろん、信教の自由は保障されているから、表向きは都の官吏ということになっていたが、実際は警視庁〈0課〉に属する特務戦闘班だ。
「……向こうから障気が流れ込んで、再開発してもあっという間にスラム化しちまう。結局、閉鎖区域にするしかなかったんさァ」
〈宗教特高〉という名の由来は敗戦により戦争協力責任に問われ、危うい立場となっていた特高刑事たちを都が水面下でスカウトしたことに起因している。おそらく、伴淳を陰気にしたような訛りのある声で語りかけてくるこの黒猫も、特高上がりなのだろう。
「……まったく、まさか、
この特高刑事は殺された際、あらかじめ用意していた緊急待避用の〈人工魂魄〉を野良猫へ植え付けたらしい。緊急待避用の疑似代替品である以上、八百万の神々から精製された本来の
警視庁〈0課〉――特に対宗教特務班の刑事は魔人級の異能者で構成され、全員が特殊戦闘のエキスパートだったが、
それにしても、生物の脳髄へ憑依して駆動する精神体の一種である〈
「お爺ちゃん……〈
「……無駄な問いじゃな。この場所……〈蠅の街〉全体が奴の領域じゃ。自ら姿を現すことはありゃせんよ。遠隔操作で〈
「向こう側?」
二人の会話に
「……
「ところで、今年の巨人軍はどうなっておる?」
「残念ねえ。今年は大洋と阪神のデッドヒートよ。巨人は一昨日も
「……そうなのか。わしは猫になってから、よく変な夢を見る。さっき見た夢では、馬場がプロレスラーになっていた」
「あはは、それは面白いわ。でも、馬場がプロレスラーに転向すれば大相撲なんかに負けやしないのに!」
「……ああ、我ながら変な夢だと思うさ。馬場がプロレスラーなんてなァ……」
老刑事の呟きは不意に途切れ、
〈
沈黙は続き、
何度も
「……やられた」
本当の〈
黒猫の老刑事もまた、〈
猫は人間に比べると
そして、〈
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます