File-09『昭和三十九年八月八日③』

 結局、飛びかかる〈虚身ボイド〉たちが桐原キリハラの身体に触れることはなく、甘木アマギの肩口から腹部にかけて刻み込んだ傷口が弾けるようにぱっくりと開き、観音開きのような状態になった。他の三人も似たような状態で、切り裂かれた内腑から血液は一滴も流れず、その代わり、断ち切られた空間が剥き出しになり、その奥は黒く光る液体で満たされていた。

 鏡子キョウコさんは切断面から漏れ出す記憶を放置していた。〈虚身ボイド〉を切り裂くと、空間を切り裂いた時と同じく、中に詰まっている記憶は流れ出して回収される。空間から残留思念を切り取るのに比べれば、当然、その情報量は圧倒的に多い。

「意図的に仕込んだ夾雑物ノイズが混じってる。こんなの、回収しても使いものにならない上に、あたしたちの認識を阻害するわ。相手はこちらの得物が〈鏡刃ナイフ〉であることを知ってる」

 黒い水銀にも似た、きらきらとした液体で満たされた水面にはゆっくりと波紋が広がり、突き刺さったメスの光を増幅していく。幻影で構成された〈虚身ボイド〉は言葉を発することもなく、切り裂かれた身体は溢れ出した光に呑み込まれていった。

 四人の〈虚身ボイド〉が次々と姿を消し、最後に甘木アマギの姿を装っていた幻影が消えたのを確認すると、〈鏡刃ナイフ〉を構成していた硬質な要素たち――四本のメスも霧散した。〈鏡刃ナイフ〉の同時操作に大半を振り分けられていた鏡子キョウコさんの意識も桐原キリハラの脳へ戻っていく。

「ふう。さすがに疲れたあ。四人同時なんて、やるものじゃないよねえ。ねえ?」

 眉間に皺を寄せて、桐原キリハラは苦笑した。疲労感の中に奇妙な高揚感が混じった鏡子キョウコさんの呟きは男の扱いに手慣れた女の口調だったし、「可愛い」と言われたことも引っ掛かっていた。

 つまらない思考と入れ替わりに、急激な眠気が少しずつ桐原キリハラの意識に忍び込んでいた。気がつけば、崩れた膝は小刻みに震え、水の中の掌が身体を辛うじて支えている。

 スーツに染み込んでくる水は背中から熱を奪い、意識は遠くなっていく。

 能力を使いすぎたのか。

 ブラウン管が消えるように、薄暗い世界が急速に明度を落とし、桐原キリハラの意識に声は届かなくなった。


†††


 いろんなひとのいろんなことは預かったものだから、持ち主へ返したかった。

 わたしの頭の中にはいろんなことが詰まってて、不気味に光る液体の表面をスクリーン代わりにして、映してみたりする。

 でも、まがいものでしかないから、いろんなことはずっとわたしの頭の中に置きっぱなし。

 鏡のような刃で切り裂かれるまでは、わたしが殺した屍体へお帰りにならない。


 月の光に照らされて、浮かび上がったのは昔のわたし。

 わたしは時限爆弾のような「何か」を抱えてしまったから、もう歩けなくて、此処に立ち止まったまま、殺し続けるしかない。〈記憶喰いメモリイーター〉と自称する「何か」は、わたしの首を絞めた兵士を再現し、他人の首を絞めては脳を喰らう。記憶を喰らう。

 昔のわたしに植え付けられた種子シードから生まれた〈魂魄ファントム〉は、現在のわたしも喰らって、皮袋のわたしを乗っ取っている。人形劇の人形のように。

 時間はどんどん流れてしまうから、昔のわたしに触れることはできない。

 昔のわたしは少しだけ、泣いてた。


 それは、ほんの一瞬のこと。

 誰かのことを照らし出すことを止めた暗い水面に浮かび上がっているのは白い月。

 偽物の月を映し出したのは、包帯と呪符で縛り付けられ、干涸らびて無表情な顔。

 これは、わたしだ。闇病院の実験体。人体改造の〈特殊娼婦〉としては幼すぎたから、代わりに脳髄に種子シードを埋め込まれた、哀れな戦災孤児。


†††


 意識を取り戻した桐原キリハラが見たのは、暗い水に映し出された月だった。一昨日、新宿で見上げた時はほとんど見えなかった月が、ほとんど満月になっている。

 月?

 閉鎖された地下に月の光が射し込むはずはないのに。ましてや、今日は新月だ。

 そう考えた途端に、月の光は消えた。

「気のせいか……」

 周囲を見回し、自分自身の姿を確かめると、桐原キリハラは瓦礫に腰掛けていた。意識を失う直前、鏡子キョウコさんが身体を動かしていたらしい。

 ふと、腕時計に目をやると、7時を回っていた。予想通り、夕方までに片をつけることはできなかったのだが、この街に入って既に6時間も経過していることは予想外で、時の流れる速さ――そのものが違うような錯覚すら覚えた。

「ごめん。ちょっと暴れすぎたかも」

 意識を取り戻した桐原キリハラに、鏡子キョウコさんが珍しく謝った。

「でも、前に桐ちゃんと会った時は、もっと普通だったんだよね?」

 珍しいことは数秒も続かず、続けて甘木アマギのことを聞いてきたので、桐原キリハラはその通りだと答えた。

 新宿で出会った時よりも「本人らしさ」の再現率が低かったのは、〈記憶喰いメモリイーター〉が操作しやすくするために本来の甘木アマギにはない感情――感傷的な夾雑物ノイズを仕込んで、攻撃性を高めた代償なのだと説明を受けた。純度が高すぎると、むしろ伝導効率は下がるものらしい。

「それにしても、あの娘の進化は予想以上に早いわ」

 桐原キリハラは〈記憶喰いメモリイーター〉が茉莉花マツリカであることを納得したくはなかった。しかし、関連があることは否定できなくなっていた。

 しかし、二度目の〈虚身ボイド〉――甘木アマギが加わっていたさっきの襲撃が〈記憶喰いメモリイーター〉の妨害工作だとするならば、最初の甘木アマギ夾雑物ノイズなしで地上に放った理由が分からない。

「それは、誘い込んで喰らうためでしょ。喰らう理由? 〈鏡刃ナイフ〉と〈呪声カース〉を同時に使っても破綻しない桐ちゃんは〈魂魄ファントム〉のデパートだからね。デパートで暮らしたいって思うくらい、女はデパートが好きだもの」

 鏡子キョウコさんの明快な答えに桐原キリハラは黙り込んだ。

 周りを見回せば、誰が組んだのかは知らないが、目の前に縄紐と呪符で簡単な結界が組まれていて、湿気を吸い込んだ紙製の呪符がだらしなく垂れ下がっている。

 意識を取り戻した後も、桐原キリハラはしばらくその場にうずくまっていた。

 やがて立ち上がる気力を取り戻すと、瓦礫だらけの広間から派生するいくつかの地下通路を見回ったが、どれも完全に浸水していた。さっきの看板に「急激な老朽化」と書かれていたことを考えると、地盤沈下で地下水が溢れ出した可能性もある。

「月の満ち引き……まさかな」

 壁や柱には焦げた痕がそのまま残っていて、昭和27年に桐原キリハラが去った時のまま、ずっと放置されていたようだ。

鏡子キョウコさんは、覚えてないのか」

「桐ちゃんが覚えていないことを、種子シードから目覚める前のあたしが覚えているわけがないじゃない」

「確かに、その通りだ」

 そして、片隅にうずくまる不完全な影を見つけた。

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