File-08『昭和三十九年八月八日②』

 かすかな記憶と照らし合わせつつ、桐原キリハラはその場所に辿り着いた。

 そして、目の前に立て掛けてあった薄いトタンを蹴り上げると、埃を舞い上げながら地下への階段が現れたが、通路は狭く、天井も低い。今は170センチ以上あるから、背中を小さく曲げなければ、額をぶつけてしまうだろう。

――あの時は急いで登ったけれど、今はゆっくりと降りている。

 階段を通り抜けると、虚空のような空間が広がっていた。薄暗さも増していたから、暗闇に目が慣れるまで若干の時間を必要としたので、曲がった背中を伸ばしつつ、腰をさすった。残念ながら四捨五入すれば30歳だ。

 地下には冷たい水が溜まっていて、ブーツの中にも水が浸みてきた。

「……用心なさい」

 暗闇に桐原キリハラの目が慣れる頃、鏡子キョウコさんがそっと呟いた。

 暗い水の向こうから浮かび上がった四つの人影は、全員が憎悪に満ちた眼差しを向けているように思えた。

「影魔人たち……〈虚身ボイド〉よ。よく見えないと思うけど、生者の肉体は失われ、有象無象のまがいものに記憶を刷り込んで擬態した存在……」

 この前、精神病院の取材に付き合わされた時も、亡霊と化した残留思念に襲われたが、実体を持たない連中は恐怖を取り除けば、まったく無力だ。不安定な精神状態にあれば、残留思念の影響を受けて彼らの仲間に取り込まれたかも知れないが、その原因が記憶から欠落していた桐原キリハラがほんの一曲歌っただけで、まとわりついた亡霊たちは霧散した。

 なによりも、鏡子キョウコさんという強烈な〈魂魄ファントム〉を知っている以上、「幽幻の存在」に対して他人よりも慣れてしまっている桐原キリハラは、この状況でも淡々と準備を始めていた。

 傍らにあった鉄の棒を掴んで、1m近いそれを振り回して牽制しつつ、懐から細い鎖を取り出し、左手に巻いた。

「姿ははっきりしているから、〈鏡刃ナイフ〉の狙いはつけやすいかな」

「その作業は――任せるよ」

 鏡子キョウコさんは回転する〈鏡刃ナイフ〉を空中に顕現し、桐原キリハラと連携する。切り札は〈鏡刃ナイフ〉で、鎖の拳や鉄棒はダミーだ。

「始めるよ、鏡子キョウコさん」

 桐原キリハラが呟いた瞬間、〈虚身ボイド〉の中から、小林旭マイトガイのアクション映画に出てくるようなチンピラ風の若い男が駆け出し、襲いかかってきた。血の気の多そうな表情のわりに焦点の合わない目線で、街の住人だとすぐに分かった。

 男は得物であるジャックナイフを大振りし、その反動に振り回されながらも、何度も斬りつけてきた。切っ先がスーツの袖に引っかかり、今度は左肘のあたりから裂けた。

 襲いかかってくる男の腹を蹴り上げ、相手が体勢を崩したところに、右手首を捻って何重にも鎖を巻いた金属製の拳でジャックナイフの刃を殴った。

 細く貧弱な身体の男は、依存していたジャックナイフを水の中に叩き落とされて、動揺を隠せなかった。続けざまに左手に握った鉄棒で脇腹を叩きつけると、男の動作はいよいよ鈍くなり、死角から飛来する〈鏡刃ナイフ〉の襲撃を避けるように後方へ待避した。

 桐原キリハラは最初の男を蹴り上げた瞬間、後ろに控えた残り三人の動きを見ていた。

 地味な作業服を着た老人だけは桐原キリハラの動作を確認すると即座に位置を整えたが、一方で街の住人と思われる二人の動作はぎこちなかった。

 そんなに統率は取れていない、か。

 冷静であることと感情がないことは違う。さっきの男も感情を失っていた分、動きは基本に忠実で無駄がなかったが、意表を突くことを競う類の格闘戦では、想像力の差が勝負を分ける。

 複数相手の喧嘩であっても、臨機応変に動ける方が勝つのは言うまでもないし、相手に統率の有無があるかは大きな要素となってくるが、組織的な動きはできないだろうと見た。想像力を培うには場数を踏むしかないのだが、経験の差が動作の障害になっていた。

 それでも、作業服の老人は慎重に対処した方が良いだろう。他の二人と違って、動きがこなれていて喧嘩慣れしていたからだ。

 調子に乗ると、簡単に踏み込まれる。

 水面に波紋が生じない程度の動作で、一息では踏み込めない程度の間合いを離し、分厚い壁を背にした桐原キリハラは意識的に口をつぐみながら、ゆっくりと声を吐いた。

 唇の隙間から重い低音が漏れる。甘木アマギには健全な労働意欲を殺ぐと評された声だが、幽幻の存在に対しては、十分な牽制になる。

 鏡子キョウコさんは〈呪声カース〉と呼んでいる、その能力によって、こちらに向けられていた不可視の圧力が緩んだ。熱気で歪められた視界がゆっくりと正常化していく。

「まあ、これも一種の才能よね」

「……才能、か」

 こういう時以外は全く役に立たない才能ではあるけれど。


†††


 重い低音が絶え間なく反響し、膠着状態はしばらく続いていたが、桐原キリハラの冷静な動作が不意に妨げられたことで、状況は変化した。

 視線を何度も往復させているうちに、街の住人だと思っていた男の一人が甘木アマギの姿をしていたことに気づいてしまったから。

「……甘木アマギ!」

 〈呪声カース〉が途切れた瞬間、調子の悪いテレビ受像機を叩いたように四人の姿は大きく揺らぎ、それを合図に、作業服の老人を含めた三人と蹴り上げたショックから回復した最初の男が一斉に襲いかかってくる。

「もうっ、ちゃんと援護しなさいよ!」

 ヒステリックな口調で計画の破綻を嘆く鏡子キョウコさんに、桐原キリハラは謝る言葉もなかった。〈呪声カース〉を練り直しつつ、体技で相手の攻撃をかわさなければならなかったからだ。体技に割く分、〈鏡刃ナイフ〉への集中力は低下する。

 幻影とはいえ、ひとの形をしたものを切り刻むのは気乗りしないし、今の桐原キリハラに複数の〈鏡刃ナイフ〉を具現化し、己の手で切り裂く余裕はなかった。飛来する〈鏡刃ナイフ〉で切り裂くことを鏡子キョウコさんに委ねたのは、そういうことだった。

「あたしの可愛い桐ちゃんに何すんのさ!」

 襲いかかる四人の〈虚身ボイド〉に向かって、桐原キリハラの代わりに鏡子キョウコさんが吠えたが、「可愛い」なんて――言われたくもない。

 成人男性に向かって「可愛い」は褒め言葉にもならないが、鏡子キョウコさんの動きは素早く、4本に分裂した〈鏡刃ナイフ〉の刃身が〈虚身ボイド〉たちの姿を照らすと、桐原キリハラが負荷でこめかみを押さえるより早く、揺らいだ姿を自動的に次々と切り裂いた。

 剥き出しの切断面からは大量の塵が流れ出し、周囲の意識圧を急激に高めていく。

 桐原キリハラは急いで〈呪声カース〉を準備し、口腔に空間を意識しながら、喉の奥で低い音を作り出す。

 作業服の老人が苦し紛れに投げた呪符が左肩に張り付いて発火したが、〈呪声カース〉の響きに相殺され、スーツの一部を焦がしただけだった。

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