File-07『昭和三十九年八月八日①』
翌日も雨は降らなかった。幸運にも、偏頭痛に悩まされることはなかった。
人影を失った路地では、熱く湿った空気と蠅だけがまとわりついてくる。
「桐ちゃん、他にまともな服はないの?」
薄暗い路地を歩いている
「あーあ、さっきのVANのジャケットとコットンパンツ、セットで安かったのに、何で買わなかったのよ」
「泥棒市場の盗品を買う気はない」
「見てくれが良ければ問題なし!」
そんな猥雑な通りを抜けて裏側の路地に入ると、一転して住民の姿を見なくなった。
無軌道に増殖した建物に光線を遮られているが、まだ陽は高く、左腕に巻き付けた時計を見ると、午後一時を回ったところだ。
〈泥棒市場〉の露天商たちを除くこの街の住人たちは、隣接する埋立地に捨てられた産業廃棄物を漁り、資源として活用できそうな廃物を見つけては小銭と交換し、生活の糧としている。そして、都内各地から廃棄物が運び込まれるのは夕方だから、この時間帯、街に残っているのは女子供を除けば、麻薬中毒者と傷痍軍人だけだ。
「夕方までに片がつけば良いが」
そう呟きながら、
希望的観測を言葉にしたのは、それは無理だろうと諦めていたからだ。
都市の体液――汚水や油が道端に溜まり、死臭に似た匂いを漂わせる。
国際ギャング団のアジトという噂もあるこの街は、間違いなく
それでも、高度成長の恩恵はこのスラムにも届いており、住民の数は減少しつつある。
オリンピック開催を控え、都が表裏両面の浄化運動に取り組んだ結果だ。
確かに、オリンピックで訪れた観光客が、何かの間違いでこの街を訪れたら、国際問題になりかねないのだから、必死にもなるだろう。
「まあ、こういう用事でもなければ、足を踏み入れたくない場所だよね……」
そう、この街は東京の掃き溜めで――東京そのものだ。
迷いのない歩調とは裏腹に、
この街を歩いていると、昔のつまらない記憶を思い出してしまうような気がしていた。
†††
無軌道な増築と増殖で迷宮のように入り組んだ高層アパートの内部から地下道へ降り、潜り抜けていくと、閉鎖区域であることを表す看板と鉄条網に囲まれた区域に辿り着く。
看板には「建物の急激な老朽化により、これより先は閉鎖区域とする」と書かれていた。右隅には
陸軍工廠の建物自体は戦時中、陸軍技術本部第9研究所分室として建てられたもので、戦後に継ぎ足されたのも粗悪な建材だ。ゼロメートル地帯名物の度重なる洪水で劣化したとしても、不思議ではない。しかし、看板にわざわざ「急激な」と書かれていたのが、
鉄条網は穴だらけで、特に警備員が配置されているわけでもなかったので、
旧陸軍工廠跡の内部はコンクリートとトタンと木材が無造作に組まれた通路で構成され、隙間からわずかに光が射し込むだけの廃墟だった。
この辺一帯が満州引揚者住宅として再整備されることになったのは、昭和21年の初冬、陸軍工廠跡から出火し、大火事になったことに起因する。元々、空襲で大半の建物が焼き払われていたのだが、その廃墟に浮浪者が住み着いてしまったことが原因であると報道された。
しかし、それは表向きの発表で、実際に火災で焼き払われたのは昭和27年4月だ。周辺の区域はさておき、この区域には浮浪者すら寄りつかなかった。空襲で堤防が破壊されていたので、遠浅を関東大震災の廃材で埋め立てたゼロメートル地帯である、この区域へ至る唯一の地下道は台風が来るたびに浸水し、常に淀んだ水が溜まっていた。
肥大したスラムに取り囲まれたこの場所は、戦後は病院として運用されていたが、24年の秋に堤防が復活するまでは行き来する者も少なく、傷痍軍人や私娼窟の少女娼婦たちが時折、訪れる程度だった。それも昭和26年の火災で放棄され、今ではドブネズミと野良猫がうろついているだけだ。〈殺し屋の墓場〉なる俗称で呼ぶ者もいるが、貸本劇画に出てくる三白眼の殺し屋たちもこんな場所で戦いたくはないだろう。
見ると、火災の後も住居へ改造しようとして、途中で断念したような形跡がいくつも見られた。壁には新しくコンクリートが塗られていたし、ところどころにある木製の階段も継ぎ足されていたが、段のいくつかは腐っていた。
「懐かしい?」
「そんなことはない」
父親が関東軍関係の仕事をしていて、本人も
先輩が遺した膨大な資料を整理することになった
数年間に渡って行われた実験内容の記述は、大半が隠語と暗号で記されており、解読は困難だった。〈師匠〉は「連中が防疫実験の名目で行っていた細菌・化学兵器開発に類する記録だろうな」と言ったが、
自分がその実験材料だったからだ。
戦災孤児だった
細菌兵器でも、化学兵器でもなく、戦争の最後に起こった新型爆弾の惨劇の舞台で、旧軍の研究者たちは、惨劇の生き残り――〈生き腐り〉の半死人たちを狩り集めていた。
大半は解剖された後、私娼窟の端にある巨大ダストシュートから
そうだ。満州引揚者住宅として整備されていく数年間――
だが、巨大台風で高層アパート群は崩壊し、研究所も火事で焼失した。
確か、昭和27年4月28日――平和条約発効で占領解除された日だ。
どさくさに紛れて逃げ出した
†††
空襲の際に爆弾が直撃し、元々の階上は吹き飛ばされていたから、二階より上に用はなく、登るつもりもなかった。
「ふん。何、思い出してんのよ」
ブーツで確かめるように一歩ずつ歩くと、
昼間でも薄暗く、簡単な布をかぶせただけの裸電球が照らしているその光景は階層化された地獄を連想させたが、働いている
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