File-06『昭和三十九年八月七日④』

 窓のない灰色の廊下を、白い病院服を着た中学生くらいの少年が歩いていた。

 天井の裸電球はぼんやりと灯っていたが、突然、寿命が来たかのように消えた。

 明度は薄暗いまま変わらなかった。遠くでガスマスクを着けた数人の男が突撃銃や火炎放射器を構え、燃えさかる部屋から逃げ出す者たちを次々と撃ち殺していく。

 突撃銃が刻む単調なリズムに乗せて、コンクリート剥き出しの廊下に飛び散った血痕が増えていく。モノクロームの画像の中で、血の赤だけが鮮やかに浮かび上がった。

 殺す者は無言で、殺される者は断末魔の叫びを様々に表現していたが、少年の表情に恐怖はない。

 少年は何処で見つけたのか、包帯と呪符でぐるぐる巻きにされた小さな屍体を抱いていた。当たり前だが、泣き喚くこともなかった。

 ガスマスクの男のひとりが、佇む少年の存在に気づいて、ゆっくりと突撃銃を向けたが、少年の表情に恐怖はない。

 言葉はなかった。殺す者は無言。それがルールだと錯覚するかのように相対していた。

 火炎放射器が撒き散らしていた火の粉が少年の頬に触れた瞬間、包帯の中から垣間見えた屍体の瞳が金色に光った。すると、無造作に燃え盛っていた炎に指向性が生まれ、ガスマスクの呼吸口に自ら吸い込まれていった。

 自動的に入り込んだ灼熱の異物に抗うように、男は手にした突撃銃を振り回し、狂乱状態で撃ち続けたが、銃弾が少年に致命的な傷を負わせることはなかった。


†††


「大丈夫?」

「一応」

「やられたわ。〈地雷マイン〉……発見現場に桐ちゃんから奪った記憶を仕込んでおくなんてね……」

「ああ、そうなのか」

「少しは怒りなさいよ。友達の屍体を餌に、此処におびき寄せられたってことなんだから。爆弾のような罠まで仕掛けてね」

 桐原キリハラは予想外の「記憶返却行動」で、一種のショック状態になっていたらしい。

「おおかた、〈記憶喰いメモリイーター〉の魔人が、記憶を封入した〈虚身ボイド〉に運ばせて、此処で〈虚身ボイド〉を解除した、ってとこかしらね」

「いったい、何のために?」

 鏡子キョウコさんが〈鏡刃ナイフ〉で読み取ることが分かっていて、桐原キリハラ自身も忘れていたはずの記憶を〈虚身ボイド〉に封入したと?

 それ以上に、〈記憶喰いメモリイーター〉が自分を狙う理由が分からない。

「分からない。でも、茉莉花マツリカって娘が桐ちゃんをひどく憎んでいることは分かった」

 茉莉花マツリカじゃない。犯人はあくまで〈記憶喰いメモリイーター〉だ。

 彼女の脳髄に寄生した〈魂魄ファントム〉――魔人のタマシイだ。

「どっちでも同じことよ。あたしのように、依存しつつも自立した意志を持つ同族には、未だかつて出会ったことがないんだから。〈記憶喰いメモリイーター〉の意志は十中八九、宿主の意志よ」

 黒いフィルムの繭から意識を引きずり出され、原っぱに横たわっていた桐原キリハラの眼に飛び込んできたのは、血の色を流し込んだような夕焼けの赤だ。

 余計な記憶で時間を浪費したが、必要としていた情報も手に入った。

 砂町すなまちの満州引揚者住宅――〈蠅の街〉にある〈泥棒市場〉は、米軍関係者でもなければ手に入らないような強力な睡眠薬や幻覚剤も手に入る。単調な鉄工所勤めに飽きていた甘木アマギは何度もこの街を訪れ、購入していたが、本人が楽しむためではなかった。転売すればそれなりに小銭を稼げることをバンド時代の経験から知っていた。

 一ヶ月前、甘木アマギはいつものように麻薬を仕入れようとしたが、若い女がこの街の住人を「喰った」ため、現在は閉鎖区域となっている旧陸軍工廠跡へ追放した、という噂を聞いた。

 それだけなら、この街ではよくある猟奇趣味のホラ話で、どうでも良いことだったが、甘木アマギは何故か、その話に強い興味を抱いた。悪い記憶を「喰った」というのが気になったし、話に出てくる女の外見的特徴が甘木アマギも知っている――茉莉花マツリカと一致していたからだ。

 そして、いつもは通らない路地に足を踏み入れた甘木アマギの記憶は途切れた。

 馬鹿だな、茉莉花マツリカの行方をネタにおれから小遣い銭をゆすり取るぐらいにしておけば良かったんだ。


†††


「……明日は、久しぶりにあの街へ行くことになるのか」

「ふん」

 砂町すなまちを去っていく都電の窓から、ガスタンクではないもうひとつの巨大建造物――いや、無数のペンシルビルが絡み合うように増築を繰り返し、融合した群体を見つめている桐原キリハラの呟きに、鏡子キョウコさんはふてくされている。

 鏡子キョウコさんが何者なのかは知らないが、本人は八百万の神々の一人と自称し、〈魂魄ファントム〉という形で取り憑いているのだという。そして、桐原キリハラの記憶はショックで抜け落ちたのではなく、同類が取り憑いた魔人に喰われたのだと主張していた。八百万の神々を脳髄に宿した「敵」が、記憶を喰ったのだと。

 鏡子キョウコさんは茉莉花マツリカが〈記憶喰いメモリイーター〉の魔人だと疑っている。

 会ったこともないのに。

「会わせなかったのは桐ちゃんでしょ。だいたい、記憶喪失がひどくなったのだって、あの娘に逃げられてからのことじゃない」

 茉莉花マツリカと同棲していた時期、一度も呼び出さなかったから、嫉妬しているのかも知れないが――正直なところ、自分以外にこんな奇妙な能力者がいるとは思えなかった。

 敗戦直後――昭和21年の〈旧十五区封鎖〉期、都内各地で暴れ回っていた新爆異能者たちの伝説はいくつも知っているが、精神だけの魔人が同居しているのは、たぶん自分だけだ。

 そう思っていた。

「そういえば、桐ちゃん、あたしが初めて出てきた時のこと、覚えてる?」

 鏡子キョウコさんが唐突に問いかける。

「覚えてる」

 苦学生だった頃、夜毎の悪夢にうなされていたことを桐原キリハラは思い出した。

 原因は下宿の三畳間を占領していた南京虫の軍勢だったのか、夜ごと映画のフィルムを直接覗き込むようなコマ送りの悪夢は、いつも雨降りのような白いノイズが混じったモノクロームの映像だった。

 暗い水の溜まった地下室のような場所で、桐原キリハラは10歳ぐらいの女の子が兵士に首を絞められ、殺される瞬間を見ていた。

『実験は失敗だ。種子シードが脳組織を喰らって暴走する前に、処分しろ』

 かすかな呼吸が途切れ、映像は繰り返される。殺した男の視点で音のない映像を何度も繰り返し繰り返し繰り返し、観ていた。

 南京虫に喰われた痒みと相まって、就寝から朝焼けまでの数時間、桐原キリハラは悶え苦しみ、皮膚を掻きむしった。そして、女の囁き声が聞こえた時、桐原キリハラはいよいよ狂ったのだと自覚した。殺された女の子の幽霊だと思ったからだ。

「どこかで偶然、残留思念を取り込んでしまったんだろうね。桐ちゃんは能力の使い方を知る必要があるわ」

 親しげに語りかけてきた脳内の他人――鏡子キョウコさんは、桐原キリハラに植え付けられた〈魂魄ファントム〉なるものを説明し、異能の使い方を教えた。それは、鏡を使った想像力の訓練だったが、言われるままに繰り返すと、数日で悪夢を見なくなった。南京虫の痒みは相変わらずだったが。

「桐ちゃんに教えるのは、あたしと桐ちゃんが一蓮托生だからよ。宿主が事故ったら、あたしの人生もだいなしだからね」

「意識だけの存在が人生だなんて、笑ってしまうな」

「でもさ、肉体があったって、有効に使わない奴もいるからね」

「――誰のことだ」

「さあね」

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