File-05『昭和三十七年八月七日③』

 夢の島――14号埋立地にほど近い、小名木川おなぎがわに沿った南側の土地にはバラックが積み重なり、奇妙で巨大な建物の集合体が形成されていた。

 戦争中は陸軍工廠――登戸のぼりと研究所の湾岸分室があったこの場所は、戦後、満州引揚者住宅として再整備された。

 しかし、実際の住人に満州からの引揚者がどれだけ残っているのかは、誰にも分からない。キャスリーンとキティの二大台風で高層アパートは崩壊し、多くの住人は三鷹みたかなどの郊外へ転出したからだ。

 そもそも、軟弱地盤の埋立地に高層アパートを建てる無謀も、公安警察の監視上の都合でしかなかった。満州引揚者の中に、中共と内通する者が紛れ込んでいたからだ。

 台風で廃墟と化した後は朝鮮戦争景気に便乗し、陸軍工廠跡地に転がっていた廃材を漁っていた難民たちがアパート群の周辺を取り囲み、寄生するようにスラムを作り上げ、そのまま住み着いた。

 スラムは違法建築を繰り返しながら増殖し、都の建てたアパート群や旧陸軍工廠跡も呑み込んでしまった。戦後のどさくさで、占領軍や警察に追われたBC級戦犯や共産主義者、行き場を失った外国人たちも多く逃げ込んでいた廃物の城塞は彼らの思想と貧困が複雑に入り乱れた結果、東京一の暗黒街と化した。秩序を失った街には都政の管理も行き届かず、殺人事件や火事が多発している。

 そして――甘木アマギの屍体が見つかった小名木川おなぎがわの川べりに、鏡子キョウコさんと桐原キリハラが佇んでいた。

「それにしても、暑いのによくそんな格好してるわね……」

 鏡子キョウコさんは桐原キリハラの服装に呆れていた。よれよれのダークスーツに短めのブーツ、流行とは正反対な幅広の黒ネクタイ、出がけに慌てて撫でつけたバイタリスの匂い。

 遠目では目立たないが、近づくとその無頓着ぶりが目立つ。

「そういえば、前に普段着で事務所ニュージャパンへ行って〈師匠〉に怒られたことがある」

「せめて、髪の毛はもう少し整えなさいよ」

 こういう時の鏡子キョウコさんはまるで、婚期を逃した口うるさい姉のようだと、桐原キリハラは思った。

「ふん。婚期を逃した、は余計よ」

 桐原キリハラは久しぶりに呼び出したことで、話し言葉と「想像する言葉」の伝わり方が違うことを失念していた。桐原キリハラの脳髄に棲んでいる〈魂魄ファントム〉である鏡子キョウコさんは、桐原キリハラが普段の生活では使わない領域に居る。

 人間は日常生活を送る上で脳のすべてを使っているわけではない。ならば、その辺に桐原キリハラとは別の生物――幽霊のようなものが棲んでいても、別に不思議ではない。

 独り言を呟くように――桐原キリハラはこれまでのことを、適度に要約しながら鏡子キョウコさんに説明した。

「ふうん、桐ちゃんはそれが〈記憶喰いメモリイーター〉絡みだと思ったわけだ」

「〈記憶喰いメモリイーター〉だと分かったわけじゃない」

「〈魂魄ファントム〉だったら、どっちも似たようなもんよ。桐ちゃん、もうちょっと合理的な発想はできないの!」

鏡子キョウコさん、大声出さないでくれ。頭に響く」

 だが、思考の無精を合理的な発想と言い張るあたりは、間違いなく女だった。

 桐原キリハラはチョークの跡がわずかに残る地面を見つめたが、屍体は既に回収されている。今頃は家族に引き渡されているか、警察病院で解剖されているのだろう。

 城東署の警官ならまだしも、警視庁の怪異専門部署――通称〈0課〉の魔人刑事がいると厄介だな、と思ったが、午前中で引き上げたらしく、夏休みの子供たちが遊んでいる程度だった。もっとも、実況見分の大半は昨日の段階で終えているから、どっちにしても今日は再確認程度だろうとは思っていた。

鏡子キョウコさんに聞きたいことがある」

「なによ、改まって」

 仕事柄、事件の現場に来ることには慣れていた桐原キリハラだったが、その被害者が自分に関連した者であることには正直、慣れていなかった。

甘木アマギを〈虚身ボイド〉と呼んだが、それはどういう〈魂魄ファントム〉なんだ?」

「一種の具現化能力ね。喰らった記憶メモリから、喰らった者の分身コピーを作り出す能力。幻影に過ぎないけれど、質量を帯びてる」

 鏡子キョウコさんは続けて、単体では〈虚身ボイド〉の能力は作動しない、と言った。

「〈記憶喰いメモリイーター〉で記憶を喰わなければ、具現化した身体を構成する情報がないからね」

 どうやら〈虚身ボイド〉という異能は、喰った者の姿を再現して、記憶を利用して意のままに操る反魂術の類らしい。

「質量を帯びている、というのは……」

「幻影に過ぎない、って言ったでしょ。ま、普通に考えれば切れないはずなんけどね」

 そう言いながら、鏡子キョウコさんの意識が鋭く具現化し、桐原キリハラの掌に現れた。医者が使うメスのように。

「〈鏡刃ナイフ〉……か」

 割れた鏡の断片を徹底的に磨き込んだかのように、想念で形成された小さなメスはあざやかに輝いている。

「桐ちゃんはあんまり好きじゃないみたいだけど、目覚めた〈魂魄ファントム〉は有効に使わないとね」

 実験体の脳髄に植え付けられた〈魂魄ファントム〉の種子シードから発芽した異能〈鏡刃ナイフ〉。それは、この世ならざる幽幻の存在を切り裂く空想の刃だ。初期の訓練では果物ナイフだったが、現在の具現化形状は医療用のメスだ。空間を切り裂いた傷口から、残留思念を取り込む特性を発見したからだ。

 ほとんどの場合は何も出てこないし、殺人現場の記憶を取り込むのは、同時に他人の苦痛を取り込むことでもある。だから、桐原キリハラは〈鏡刃ナイフ〉を使うことを好ましく思っていない。しかし、殺されたのは甘木アマギで、失踪した茉莉花マツリカが絡んでいる可能性もある。

 川べりという場所には不似合いな輝きを放つメスがゆっくりと空間を切り裂いていくと、空間に残されていた記憶がわずかな塵となって漏れだした。残留思念には若干の経年劣化があったが、甘木アマギの行方を探るには十分な「画質」だった。桐原キリハラは映画のフィルムを想像し、映写技師になった自分を想像する。その間に鏡子キョウコさんが回収した残留思念を空想上のフィルムへ定着させていく。

 傍目には一人の男がぼんやりと川べりに佇んでいるだけだが、その意識下では慎重な共同作業が進められていた。切断面から漏れた残留思念を回収すると、作業は次の段階へ進む。

 ゆっくりとコマを送りつつ、焼き付けたフィルムに〈鏡刃ナイフ〉の光を通すと、白い霧の混じった画像がおぼろげにフィルムから浮かび上がってくる。

 しかし、浮かび上がってきた映像が甘木アマギの記憶ではなかった。

 鏡子キョウコさんが気づいた時には既に遅く、不意に回転を速めた意識上のフィルムはリールの拘束から解き放たれた。そして、無数の黒い蛇へ分裂しながら現実世界へ顕現し、桐原キリハラが驚きの表情を見せる前に――全身に絡みついた。

 鏡子キョウコさんは必死でメスを振り回し、絡みつく蛇を斬り刻む。しかし、蛇が増殖する速さと〈鏡刃ナイフ〉で切り刻む速さは拮抗したままで、黒い繭のような塊となった桐原キリハラを救い出すには若干の時間が必要だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る