File-04『昭和三十九年八月七日②』

 最近、売り出し中の中堅代議士は若い愛人とセックスする時、必ず、愛人の実家に電話をかけさせ、愛人が母親と何気ない日常会話を交わしているところを後背位で突き立てて激しく射精する瞬間に人生の至福を感じるらしい。

 以前、〈師匠〉から聞いた実話だ。

「まあ、人生の至福ってぇのもいろいろだ」

 地位や名誉とは無関係の生活を送る桐原キリハラは他人事のように感心したのだが、地位や名誉に縛られている当人にとってそれは致命的なスキャンダルになる。〈師匠〉が大衆向け通俗小説というフィルタを通すのは、そうしなければ本当のことが書けないからだが、本当のことを書こうと思う理由と動機が桐原キリハラには分からない。

 健全な一市民として生きていくために必要な栄養はビタミンなんかじゃなくて「刺激的で安全な嘘」だ。だから――〈師匠〉の小説も「刺激的で安全な嘘」として買われているに過ぎない――と、桐原キリハラは思っていた。

「この時間帯、29系統はないな」

 一度、四谷よつやのアパートに戻ろうかと思ったが、赤坂見附あかさかみつけの駅へ戻った頃には、桐原キリハラの眠気はすっかり吹き飛んでいた。

 銀座ぎんざ線で日本橋にほんばしへ出て、錦糸掘きんしぼり行きの都電38系統に乗り換えれば砂町すなまちに行けるはずだ。

 そして、桐原キリハラには地下鉄に乗る前にやっておくべき「儀式」がある。行き交う人影がまばらであることを確認し、駅のトイレに足を踏み入れて洗面所の鏡に映る黒い瞳に向かって意識を集中すると一瞬、頭に電流のようなものが走り、若い女の声が耳元で囁く。

「久しぶりね――あたしをご指名ってことは、やっと〈記憶喰いメモリイーター〉が見つかったんだね?」

「まだ――分からない」

「でも、こんなところで呼び出すのは関心しないわね。他の女だったら、とっくに愛想を尽かしてるわよ、桐ちゃん?」

 女の声は早口でまくし立てるが、洗面所の鏡を見つめる表情は変わらない。それは、桐原キリハラの脳内での出来事、桐原キリハラにしか聞こえない声だからだ。本人は吉永小百合よしながさゆりに似た美女だと主張しているが、以前は浅丘あさおかルリ子だと言っていたから、まったく信用ならない。どちらにしても、おれの好みは芦川あしかわいづみだし、頭に響く言葉の響きだけではすれっからしのあばずれに過ぎず、下手すれば性別すら怪しい。

 長いこと呼び出していると、その数倍の期間、偏頭痛に悩まされることになるが、仕方ない。


†††


 都電に乗り換えた桐原キリハラが〈師匠〉からもらった朝刊のスポーツ欄に目を通すと、大リーグから日本球界へ復帰した大洋の〈大巨神〉こと馬場正平ばばしょうへいが、巨人を完封した記事が大きく載っていた。まさか、巨人をクビになって辛うじてテストで拾われた二流投手が国鉄の金田正一かねだしょういちや西鉄の稲尾和久いなおかずひさに匹敵し、一年だけとはいえ、アメリカでも活躍する大エースへ化けるとは誰も思っていなかったろう。

 一方、神宮で国鉄と戦った阪神は山内一弘やまうちかずひろの移籍後初となる満塁ホームランで大勝し、気がつけば大洋と阪神は同率首位のまま二週間も併走している。

「桐ちゃーん、プロレスの記事、見せてぇ」

 しかし、紙面に鏡子キョウコさんが期待するような記事はなく、唯一、隅の方にアメリカへ高飛びした〈死神酋長しにがみしゅうちょう〉が〈リトル・トーキョー・トム〉なるリングネームで西海岸のリングに上がっているという数行のゴシップ記事が載っていた。

 昭和38年9月18日、力道山りきどうざんは新宿・丸物デパート前で謎の覆面レスラー〈死神酋長しにがみしゅうちょう〉の襲撃で重傷を負い、もう一年近く療養を続けている。

 二人の大横綱――大鳳凰だいほうおう恒星龍こうせいりゅうの「鳳龍時代」で全盛の大相撲人気に押されっぱなしのプロレスはこの手の自作自演的な演出で辛うじて生き延びていたが、〈死神酋長しにがみしゅうちょう〉は絵図のない、本物のテロリストだった。その正体は、力道山りきどうざんから破門された後、都内に潜伏し、復讐の機会を覗っていた元・弟子の猪木寛至いのきかんじだと噂されているが、襲撃事件を好機と見た豊登とよのぼり遠藤幸吉えんどうこうきち吉村道明よしむらみちあきよしさとは日本テレビや山一證券やまいちしょうけん出身で五島慶太ごとうけいた門下の相場師と組んでクーデターを起こし、長期療養中の力道山りきどうざんからプロレス興行権を奪っていた。

豊登とよのぼりは病的な博打ギャンブル好きで、力道山りきどうざんのような才覚カリスマもない。クーデターは上手く行ったけど、長くは保たない」

「そんなことは分かっているわよ」

 それでも、鏡子キョウコさんはいまどき珍しいプロレス・ファンだった。

 昭和20年代後半、急激に台頭したプロレスに対抗するため、トトカルチョを導入した際には、戦前からの相撲ファンからの猛反発もあった。しかし、この改革によって大相撲はプロレスを駆逐し、同時に東京都の貴重な財源になった。まあ、その副産物として、取組後の升席はいつも暴動寸前になっていたりもするのだが――。

 いまや、プロレスは滅びゆくスポーツ興行であり、当の力道山りきどうざんも関心を失いつつある。赤坂表町に建てたリキマンションにある会員制バー〈モンテ・クリストⅡ〉のマスター、高森朝樹たかもりあさきが昭和39年下期/第五十一回直木賞を受賞したからだ。バーのオーナーで高森たかもりの後見人でもある力道山りきどうざんは、元々『100万人のよる』の愛読者だが、高森がスポーツノンフィクションなる小説ジャンルの開拓者と評価されたことから、文化事業へ傾倒し、「新宿の田辺茂一たなべもいち、赤坂の力道山りきどうざん」と並び称されることを夢見ていると聞いた。正気の沙汰ではない。肉体的な衰えを補うべく常用していた興奮剤の副作用で頭がイカれているのだろう。

 窓の向こうには巨大なガスタンクと半壊した高層アパート群が見える。砂町を象徴するふたつの建造物を確認すると、桐原キリハラは新聞をスーツのポケットへねじ込んだ。

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