File-03『昭和三十九年八月七日①』

 丸ノ内線の赤坂見附あかさかみつけ駅を出た桐原キリハラは、永田町のホテルへ向かって歩いていく。

 桐原キリハラの雇い主――〈師匠〉の本拠地は浅草だが、現在は神谷かみやバーの裏手に自社ビル(?)を建築中であるため、藤山愛一郎ふじやまあいいちろうが建てたこの巨大ホテルを定宿としていた。

 昭和31年の『週刊新潮』創刊から始まった、フリーランスのライターたちが週刊誌のスクープ記事を競い合うトップ屋の時代はそろそろ終わりつつあるが、時代の流れに乗り損ねた同業者たちを尻目にさっさと通俗小説家へ転じた〈師匠〉は仕事にあぶれたトップ屋たちをデータマンとして雇い、月千枚前後の執筆量を維持していた。

 本職のトップ屋だった彼らにはそれぞれ得意とする領域があり、経済、政治家や芸能人のスキャンダルを狙い撃ちするのだが、〈師匠〉はそれを実話仕立ての通俗小説にすることで一般大衆と共有する。

 そんな業界の古株である〈師匠〉は、戦前から浅草あさくさ界隈で特殊株主そうかいやや興行師など、怪しげな商売に携わっていたようで、裏社会の住人たちからは〈浅草の翁〉なる二つ名で呼ばれている。最近の流行言葉はやりことばで言えば「才能多角経営人間」だ。戦前派なので外見は完全に老人だが、いつも派手な洋装で背筋も伸び、全身から精気を漲らせている。

「それは〈師匠〉がおれを実験台にしようとした頃ですね」

「てめえ、まだ怒ってるのか」

 七階の一室にある「事務所」で、あからさまに不機嫌な桐原キリハラは、元気にまくしたてる〈師匠〉の机に置かれた卓上時計を覗き込む。短針は午前9時を回ったところだが、電話で呼び出されたのは7時半だ。

 終電で四谷よつやのアパートに着いて寝たのが2時過ぎだったから、明らかに寝不足な上に二日酔いの状態でもある。一ヶ月前のことを怒る以前に、気分がいいはずがない。

 しかも――第一声が「昨日、麻薬ペイの売人が屍体で見つかったんだが、甘木アマギってのは、お前の友達だったよな?」だ。

 いったい、何がどうなっているのか。聞き返す気力も考える気力もない――昨日、新宿で会ったはずの甘木アマギが、同じくらいの時刻に腐乱屍体で砂町で発見された?

 渡された朝刊の片隅に、甘木アマギの記事が載っていた。

 顔写真もないベタ記事だが、屍体が見つかったのは江東区砂町、小名木川の川縁――絞殺屍体で、死後一ヶ月以上経過だって?

 桐原キリハラ甘木アマギと呑んでいた新宿からはあまりにも距離が離れている上に、一ヶ月前の桐原キリハラは〈師匠〉の取材に付き合わされ、郊外の精神病院で酷い目に遭っていた。小説のネタ用に電気ショック療法の実験台にされかけたことを思い出してまた不機嫌になりかけたが、〈師匠〉は数時間前、地下のナイトクラブニューラテンクォーター銀座ぎんざ署の刑事からこの話を聞いたのだという。

 砂町すなまちの事件を城東じょうとう署ではなく管轄違いの銀座ぎんざ署がリークするのも変な話だが、裏社会の住人でもあった〈師匠〉のことだから、本当の情報ルートを隠している可能性は高く、だからこそ桐原キリハラを呼び出したのだろう。

 バンドから足を洗った甘木アマギは親のツテで蒲田かまたの小さな鉄工所に就職していたが、6月末に姿を消していた。屍体の発見は親族が捜索願いを出した日で、リークした刑事は笑い話として伝えたが、甘木アマギの遺留品である馬券に〈師匠〉は興味を示した。

「6月14日……大井おおい記念の当たり馬券、しかも一点買いだ。もったいねえな」

 昨日の呑み代になったレースだが、甘木アマギはすべて換金しなかったのか?

「まあ、それだけだったら、面白くもなんともない事件だがな」

 確かにその通りだったし、〈師匠〉が麻薬ペイの売人と言ったのも気になる。甘木アマギが怪しげな商売に関わっていたのは薄々知っていたが、だとすれば、国際ギャング団やヤクザが絡んでいる可能性もあり、前者なら警視庁の厄介な連中も動く。

「検死の結果、脳の一部が欠損していたのさ。削り取られている、というか……消滅していた」

「消滅?」

「そうだ。ロボトミー手術じゃあるめえし。それでいて、直接の死因は絞殺ネックハンギングってのが引っかかるんだよ。警察は薬物濫用の影響も考えたようだが、そんな得体の知れねえ薬は聞いたことがねえ」

 二人とも首を傾げ、困惑の表情を浮かべていた。確かに、死んでもカラスしか泣かない――親不孝のろくでなしだが、ずいぶんと猟奇的な事件に巻き込まれたものだ。

「ペイと殺人は関係ないでしょう」

「どうだろうな」

 〈師匠〉は桐原キリハラの意見を却下した。最初からその線は信じていない。そうでなければこんな時間に呼び出す理由がない。

 元々、桐原キリハラの主な担当領域は若者風俗だが、別に専属契約で一定の収入があるわけでもない。奇妙な取材の人身御供になることしか取り柄のない落ちこぼれがデータマンとして〈師匠〉に雇われている理由は――時折、変なネタを呼び込む凶運の持ち主だったからだ。仕方なくおれは慎重に言葉を選び、甘木アマギのことを話したが、昨日のことを話すわけにはいかない。

「万が一、何かあったとしても、〈師匠〉のネタにはならないと思います」

「そんなことはないぞ。今は使えなくても、〈あちら側の領域〉にある事件なら近い将来、必ず役に立つ。時は世紀末だ。あと数年もすりゃ、高度成長幻想の反動で幻想と怪奇の一大ブームが来る。その時、お前のネタが役に立つのさ。だからいいネタがあったら教えろよ。あと、警察には教えるなよ。いずれ、お前のところにも事情聴取に行くとは思うがな。ま、その前にオレが事情聴取ってわけだ」

 自分で書くより、ネタを端金に換える方が性に合っているが、こうもあからさまに言われると胸くそが悪い。

「決めた。このネタ、オレも付き合うぜ」

 桐原キリハラは頭を抱えた。予想通りの「ややこしいこと」になりかけている。思わず「目の前の〆切はどうするんですか」とぼやく。確かに〈師匠〉は四日で七百枚を書き上げる伝説の持ち主だが、そんなことをされたら、担当編集の猛者連に怒られるのはおれだ。

「帳尻合わせはおれの得意技だぞ」

「ひとりで行きたいんですよ」

 桐原キリハラはそのままだんまりを決め込んだ。〈師匠〉も腕を組んで沈黙する。頭の中で迫り来る〆切の数々と天秤にかけているのだろう。

「……何かあれば、電話します」

 小声で追い打ちをかけると〈師匠〉は黒眼鏡サングラスの柄を直し、肩を落としつつ笑顔を繕った。

「すまんな、どうも、昔の癖が抜けなくてな。でも、ネタを独り占めして、どっかに売り込むんじゃねえぞ」

「そんなことしたら、簡単に足がつくでしょうね」

「当たり前だ、お前、オレが何社と仕事してると思ってんだ」

 捨て台詞代わりのさりげない恫喝。

 桐原キリハラは一礼して会話を打ち切った。できるだけ表情を崩さずに。

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