File-02『昭和三十九年八月六日②』
かつて――おれと
だが、いくら調弦しても歪んだ音色のギターと労働意欲を殺ぐ気だるい歌声に需要があるはずもなく、売れないバンドごっこは一年ほど続いて、唐突に途切れた。
どっちにしろこの時代には不必要な声だったのだ。タダ飯にありつける有り難さがそんな些細なことは忘れさせてくれるから、運命に反論するつもりもない。
まともな答えは返ってこないことを分かっていても、おれは聞く。
「だいたい、お前は最近、何の仕事してるんだ? 悪くねえ儲け話があるんだが、一口乗らねえか?」
どうせロクな仕事じゃないことは分かっている。口元を歪ませて卑屈に笑う
おかげで今では付き合う者も少ないのだが、「まあ、そんなことはいいじゃねえか」と肩を落として言葉を濁し、コップに残ったビールを一気に飲み干した。
「だいたい、こんなに暑いと仕事なんかやってられねえよ」
「先々週から、昼間も断水してるからな」
最初は夜の11時から朝5時だったが、先月の21日からは、午前11時から午後4時も断水していた。
「川ァ埋め立てて高速道路作って、水飢饉になってりゃ世話ねえっての」
水飢饉と高速道路に因果関係はないのだが、寄席の漫談にも似た滑稽な怒声で
薄汚いバラック建てのスラムを取り壊すことや汚臭を放つ川を埋め立てることに異論はなく、何度も繰り返されてきた「時代の終わり」のひとつにしか過ぎない。だが――それでも、ごく少数の者たちは自分たちが生きてきた「時代の終わり」を感じている。
「それにしても、
「
「比べるんじゃねえや、馬鹿」
平然と答えたのが気にくわなかったのか、
「モテたと言っても、ハイミナール漬けのラリパッパだ」
実際、寄ってくる女は睡眠薬遊びでラリったようなのばっかだったし、その中に
「それだけじゃないよ」
「
「景色が重いから」
受け答えがいちいちズレている。馬鹿ではないのだろうが。
その女――
いつもふらふらしていて、まるで仕事になってなっていない様子を眺めていると心配になる。心配する一方で、面白がっている。気になるから、店に行く間隔は短くなっていく。アパートに戻っても、ぎこちない仕草と指先が脳裏から消えることがなく、一日のうちに何度も高揚感と下降感を繰り返す。
――ああ、これが「落ちた」ってことか。
そのうち、オリンピックの便乗工事でアパートの立ち退きに遭った
「でもよ、口説いたのはお前の方じゃねえか」
台詞もさることながら、酔い潰れていたはずの
「その気になれば、それなりの女が口説けるはずなのに、能面が顔に貼り付いたような女を真剣に口説き始めたから、本気で狂ったのかと思ったぜ」
「……まあ、確かに狂っていたのかも知れないな」
他人事のように答えたのは、その頃の記憶がところどころ欠落していたからだ。
「で、あっちの方はどうだったのよ?」
「
試したことがないわけじゃない。
だが、お互い性欲は希薄で、雰囲気を察知した
「そっか。もう他人事なんだな」
裏を返せば――それだけの精神的な危機だったのだろうが、たとえば、電気ショック療法を16回繰り返されたとしても、そんな風に抜け落ちるものだろうか?
「おい、なんだか外が騒がしいな」と、外の喧噪に気づいた
†††
満月まであと少し。猥雑な新宿の街だが、夜空だけは澄み渡っている。
「まったく、飲み過ぎだっつーの」
「いや、
飲み過ぎた
「今日は……最後まで付き合ってくれて、ありがとうな」
そう呟くと
背中を曲げて、ふらついた足取りで二度三度よろめいた後、不意に胸を張り、腕を振り上げて叫ぶ。
「ああ、あっちだ! 海とゴミの見える街だ」
指差した先はどこかの店の外壁だった。
「おい、酔っぱらってるんじゃねえぞ。お前の家は
「あれは泣く子も黙る
ああ、湾岸、
羽田の対岸――江東区の埋立地に建てられた粗悪な高層アパート群はキャスリーンとキティに蹂躙され、最凶最悪の新爆スラムと化したが、元より無理があったのだ。
あんな呪われた土地に住むこと自体、間違っている。
再び、ぐにゃり。
ぐにゃり。
視界が歪むのは、酔っぱらっているからだと思っていた。でも、歪んでいたのは目の前にいる
「嘘じゃね、えよ……」
さっきまで元気に怒鳴り散らしていた
「一ヶ月ぐらい前、かなあ。
それは、無表情な女の表情。
それは、匂いを伴って。
それは、裂けて剥き出しになった
それは、銀幕の向こうの絵空事。
それは、一瞬で途切れた。
歪んだスクリーンの向こう側から、初夏の腐臭に混じって、懐かしい匂いが漂ってくる。
「
まったく現実感のない、すでにない光景の中にいたのは、忘れようとしても忘れられない女の表情を失ったような顔だったが、確認する間もなく揮発した。
目の前で
暗い水面から伸びた女の手が、おれの心臓をわしづかみにしたような感触。
それは、その日の
しばらく立ちすくんだあと、
「終電には間に合うか?」
周りを見回しつつ、駅へ向かって歩く
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