File-02『昭和三十九年八月六日②』

 甘木アマギが案内した店の柱時計を見ると、まだ午後4時を回ったところで、大衆酒場で昼間からビールを飲んでいるいい年した男二人の姿はさぞ滑稽なことだろう。そして、ビールが入れば甘木アマギは常々バンドが失敗した理由を考えては明るい口調で後悔し、「桐原キリハラの声は、健全な労働意欲を殺ぐよ」と呟く。いつも槍玉に挙がるのはおれの声で、会うたびに繰り返される愚痴に嫌気はさしているが、他に話題があるわけでもない。

 かつて――おれと甘木アマギはロカビリーバンドの真似事をしていた。

 だが、いくら調弦しても歪んだ音色のギターと労働意欲を殺ぐ気だるい歌声に需要があるはずもなく、売れないバンドごっこは一年ほど続いて、唐突に途切れた。

 どっちにしろこの時代には不必要な声だったのだ。タダ飯にありつける有り難さがそんな些細なことは忘れさせてくれるから、運命に反論するつもりもない。

 まともな答えは返ってこないことを分かっていても、おれは聞く。

「だいたい、お前は最近、何の仕事してるんだ? 悪くねえ儲け話があるんだが、一口乗らねえか?」

 どうせロクな仕事じゃないことは分かっている。口元を歪ませて卑屈に笑う甘木アマギはつまらない儲け話をもちかけては周りの人間を窮地に陥れている。

 おかげで今では付き合う者も少ないのだが、「まあ、そんなことはいいじゃねえか」と肩を落として言葉を濁し、コップに残ったビールを一気に飲み干した。

「だいたい、こんなに暑いと仕事なんかやってられねえよ」

「先々週から、昼間も断水してるからな」

 最初は夜の11時から朝5時だったが、先月の21日からは、午前11時から午後4時も断水していた。

「川ァ埋め立てて高速道路作って、水飢饉になってりゃ世話ねえっての」

 水飢饉と高速道路に因果関係はないのだが、寄席の漫談にも似た滑稽な怒声で甘木アマギはぼやく。オリンピックという世界的なイベントを数ヶ月後に控え、都市改造が進められている〈東京〉トーキョーの景色は急激に変わりつつある。

 薄汚いバラック建てのスラムを取り壊すことや汚臭を放つ川を埋め立てることに異論はなく、何度も繰り返されてきた「時代の終わり」のひとつにしか過ぎない。だが――それでも、ごく少数の者たちは自分たちが生きてきた「時代の終わり」を感じている。

「それにしても、桐原キリハラはモテたよな。おれもなあ、もう少し背が高くてよお、眉が太ければなあ」

小林旭マイトガイに比べれば、全然だ」

「比べるんじゃねえや、馬鹿」

 平然と答えたのが気にくわなかったのか、甘木アマギは焼き鳥の串をオーケストラの指揮棒のように振り回し、吐き捨てるように笑う。

「モテたと言っても、ハイミナール漬けのラリパッパだ」

 実際、寄ってくる女は睡眠薬遊びでラリったようなのばっかだったし、その中に茉莉花マツリカがいたことを除けば、別に嬉しくもない。「くそっ、まったくよお、何でオレにはなんにもねえんだろうなあ……」とテーブルに突っ伏してぼやく酔っぱらいを眺めながら、桐原キリハラは頬杖をつき、残り少ないビールの入ったコップを傾けながら、半年前に失踪した女のことを思い出している。背は低く、貧相な身体で、無表情。視線を合わそうともしない。好きなものがあるのかと聞けば「深沢七郎ふかざわしちろうの小説」と答えたヘンな女――『楢山節考ならやまぶしこう』か?

「それだけじゃないよ」

睡眠薬ハイミナール遊びをしている理由は?」

「景色が重いから」

 受け答えがいちいちズレている。馬鹿ではないのだろうが。

 その女――茉莉花マツリカは西新宿の名曲喫茶のウエイトレスだった。

 いつもふらふらしていて、まるで仕事になってなっていない様子を眺めていると心配になる。心配する一方で、面白がっている。気になるから、店に行く間隔は短くなっていく。アパートに戻っても、ぎこちない仕草と指先が脳裏から消えることがなく、一日のうちに何度も高揚感と下降感を繰り返す。

 ――ああ、これが「落ちた」ってことか。

 そのうち、オリンピックの便乗工事でアパートの立ち退きに遭った茉莉花マツリカ桐原キリハラのアパートに転がり込む格好になって、なし崩しに同棲生活が始まったが、身の上もろくに訊かなかった。昔から感情表現が下手な桐原キリハラは、転がり込んできた猫に情が移ることを嫌っていた。猫と暮らしても例外なく猫の方から出て行ってしまうから、彼女もそのうちいなくなる。桐原キリハラはそう思っていた。事実、そうだったのだが。

「でもよ、口説いたのはお前の方じゃねえか」

 台詞もさることながら、酔い潰れていたはずの甘木アマギが突然、起き上がって証言したことに驚いた。

「その気になれば、それなりの女が口説けるはずなのに、能面が顔に貼り付いたような女を真剣に口説き始めたから、本気で狂ったのかと思ったぜ」

「……まあ、確かに狂っていたのかも知れないな」

 桐原キリハラは小さく呟いた。

 他人事のように答えたのは、その頃の記憶がところどころ欠落していたからだ。

「で、あっちの方はどうだったのよ?」

 甘木アマギの目はどんよりとして、小指を立てながら下品な笑みを口元に浮かべる。

茉莉花マツリカとは、何も無かった」

 試したことがないわけじゃない。

 だが、お互い性欲は希薄で、雰囲気を察知した茉莉花マツリカが執拗に視線を避けるので、そのたびに後味の悪さだけが残った。能面のような無表情は性的な魅力に欠けていた。触れた肌はぞっとするほど冷たかった。嗜虐心をそそるタイプではあったが、桐原キリハラにはそういうサディスティックな趣味はなかったし、女を暴力で屈服させることで「男」を確かめる習慣を持ちたいとも思わなかった。

「そっか。もう他人事なんだな」

 甘木アマギが諦めたように呟いた。

 茉莉花マツリカのことになると桐原キリハラの物言いが曖昧になるのは、彼女が失踪したショックなのか、記憶障害に陥ったからだ。彼女にまつわること、出会った経緯、別れた経緯、肝心なところが虫食いのように抜け落ちている。記憶と一緒に、彼女に対する感情と音楽に対する熱意も抜け落ちてしまって、バンドは自然消滅した。

 裏を返せば――それだけの精神的な危機だったのだろうが、たとえば、電気ショック療法を16回繰り返されたとしても、そんな風に抜け落ちるものだろうか?

 「おい、なんだか外が騒がしいな」と、外の喧噪に気づいた甘木アマギが小声で呟く。「いちいちこんなことに反応していたら、酒なんか飲めないだろ」と言わんばかりに憮然とした表情の桐原キリハラは落ち着いて「どうせ、酔っぱらいか地回りの喧嘩だ」と答えた。


†††


 満月まであと少し。猥雑な新宿の街だが、夜空だけは澄み渡っている。

「まったく、飲み過ぎだっつーの」

「いや、甘木アマギの方が飲んでただろう」

 飲み過ぎた桐原キリハラ甘木アマギは互いに肩を貸しながら、コマ劇場の裏通りから更に入り組んだ路地に迷い込んでいた。木製のゴミ箱からは、店の裏口から打ち捨てられた生ゴミのすえた臭いが漂っている。

「今日は……最後まで付き合ってくれて、ありがとうな」

 そう呟くと甘木アマギは借りていた肩を振り払って、ひとりだけ先に歩き出した。

 背中を曲げて、ふらついた足取りで二度三度よろめいた後、不意に胸を張り、腕を振り上げて叫ぶ。

「ああ、あっちだ! 海とゴミの見える街だ」

 指差した先はどこかの店の外壁だった。

「おい、酔っぱらってるんじゃねえぞ。お前の家は穴守稲荷あなもりいなりの近所だろうが」

「あれは泣く子も黙る東京暗黒街はえのまち! 砂町すなまち満州引揚者住宅!」

 ああ、湾岸、砂町すなまち、夢の島か。ぐにゃり。

 羽田の対岸――江東区の埋立地に建てられた粗悪な高層アパート群はキャスリーンとキティに蹂躙され、最凶最悪の新爆スラムと化したが、元より無理があったのだ。

 あんな呪われた土地に住むこと自体、間違っている。

 桐原キリハラがそう思った瞬間、少し欠けた月の光に照らされた甘木アマギの身体が不意に歪んだ。

 再び、ぐにゃり。

 ぐにゃり。

 甘木アマギの身体はぐにゃぐにゃに曲がりくねって、虚空を指していた指先もねじくれて、それが指であったかどうかもはっきりしない。

 視界が歪むのは、酔っぱらっているからだと思っていた。でも、歪んでいたのは目の前にいる甘木アマギの身体だけで、周りのビル街はそのままだ。

「嘘じゃね、えよ……」

 さっきまで元気に怒鳴り散らしていた甘木アマギの声は一語重ねるごとにしわがれて、明らかに甘木アマギの声じゃない雑音ノイズまで混じっている。混淆したかすかな声は子供の頃に焼跡で拾った鉱石ラジオの音だ。

「一ヶ月ぐらい前、かなあ。茉莉花マツリカに似た女を見たんだ。あの街で、っ――」

 甘木アマギの声はそこで途切れた。原形を留めなくなるほどに姿は歪み続け、やがて、その歪みの中から、別のひとの表情がうっすらと浮かび上がる。


 それは、無表情な女の表情。

 それは、匂いを伴って。

 それは、裂けて剥き出しになった甘木アマギの心臓あたりに。

 それは、銀幕の向こうの絵空事。

 それは、一瞬で途切れた。


 歪んだスクリーンの向こう側から、初夏の腐臭に混じって、懐かしい匂いが漂ってくる。

茉莉花マツリカ!」

 まったく現実感のない、すでにない光景の中にいたのは、忘れようとしても忘れられない女の表情を失ったような顔だったが、確認する間もなく揮発した。

 目の前で甘木アマギが消えたことよりも、歪んで裂けた甘木アマギの身体に浮かび上がった茉莉花マツリカの無表情な表情が、桐原キリハラの行動を妨げていた。

 暗い水面から伸びた女の手が、おれの心臓をわしづかみにしたような感触。

 それは、その日の桐原キリハラが最後に見た自らの「感情」だった。

 しばらく立ちすくんだあと、桐原キリハラはまとわりついた湿気を振り払うように歩き始めた。甘木アマギの消えた路地はなにごともなかったように、薄暗くべったりとした重さで覆われていて、その印象は路地を抜けても同じだった。

「終電には間に合うか?」

 周りを見回しつつ、駅へ向かって歩く桐原キリハラは、外部の希薄な印象を集めることに気を取られていたが、自分自身の感情を失っていたことには気づかないまま、べったりとした重さで覆われた新宿民衆駅の中へ消えていった。

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