『鏡の中にある如く/Profit in a mirror』

File-01『昭和三十九年八月六日①』

 これは、もうひとつの〈東京〉トーキョーを幻写する〈暗号〉の解読表。

 解読表を持つ者だけが、真の『空想東京百景』を視る――。


†††


 それは、あたしが生まれる前の夏のことだ。

 夏の〈東京〉トーキョーは雪が降ったわけでもないのにすべてが真っ白で、閃光は生きとし生けるもの全てを塩の柱に変えて、大地に撒き散らされた塩が白く輝いていた。建物には何の影響も無かったけれども、3月10日と5月25日の空襲で家はみんな焼けてしまったから、あたりは一面の銀世界さ。

 そっか、建物を焼き払ったから、今度はひとを塩の柱に変えたんだな――。

 茉莉花マツリカは幼かったが、正確に認識していた。神懸りのように。


 1945年8月10日の朝、空襲警報が発令された。

 しかし、調布ちょうふの主力だった陸軍第10飛行師団──天翔兵団・飛行第244戦隊の「飛燕」「鍾馗」「屠龍」は沖縄おきなわ戦以降、知覧ちらんへ移動していたので、もはや迎撃機が飛び立つことはなかった。

 そして、午前8時15分──日比谷ひびや公園の上空で「3発目の新型爆弾」が炸裂した。

 ウランでもプルトニウムでもなく、呪詛毒――〈無限に連鎖していく死〉を撒き散らす、最新鋭にして非人道的な〈呪詛爆弾カースボム〉だ。だいたい、呪詛毒の材料にしてから、ナチスの髑髏部隊トーテンコップ絶滅収容所ビルケナウで集めた猶太ユダヤ人たちの魂魄を用いていた。

 しかも、ベルリン陥落で手に入れたアメリカは、黄色い猿だけを効率良く抹殺する指向性コードまで付け加えた。


 決号作戦ダウンフォール――来るべき滅びを先送りしていた連中は爆心地直下の御文庫附属庫で〈無限に連鎖していく死〉に喰われたけど、もっと狡猾な連中は鎌倉や大磯や松代あたりに避難していたから無事で、茉莉花マツリカが生まれる前から続いてた長い戦争はなんとなく、ただ、なんとなく終わった。

 やがて、真っ白な地面を雨が洗い流すと廃墟の街にはいろんな奴らがやってきた。

 家族を新型爆弾で失った復員兵、地方へ疎開していた人々……みんな、駅に着くと呆然と立ちすくんでいたが、次の瞬間には飢えと乾きに突き動かされて――互いに騙し、奪い、殺し合っていた。そうした騒乱の中で、殺人鬼の血――異能に目覚めるやつもいた。


 ぼろぼろの手ぬぐいを口元に巻き付け、開きかけた地獄の蓋をマツリカは歩いていた。

 東京の上空で新型爆弾が炸裂した日から、マツリカはひとりで歩いている。

 街には〈生き腐り〉と呼ばれる連中が溢れていた。

 新型爆弾の閃光を浴びても、塩の柱になれなくて、死に損なったひとたちは、道端に横たわり、腐り果てるのを待ち続けています。

 塩と一緒に撒き散らされた呪詛毒が、皮膚の柔らかいところと臓腑から腐敗させていく。

 閃光の直撃を免れた連中の口はいつも半開きで、爛れた死臭を吐きながら、弱った心臓だけが時を刻んでいた。チック、タック、ツー、チック、タック。

 救援部隊の中にも死臭を吸い込みすぎたのか、肺を病んで死んだ兵士がいたという噂を聞いていたから、茉莉花マツリカはできるだけ用心していた。

 だから、手ぬぐいを顔に巻き付けていた。


 秋が終わる頃、NBCC――連合軍新型爆弾調査委員会の連中がジープやトラックに乗ってやってきて、屍体と死に損ないの屍体モドキを無造作に積み上げ、何処かへ持ち去った。台風で大地の塩も流され、街を覆っていた死臭が和らいだから、茉莉花マツリカは一安心した。

 しかし、一安心したのが災いしたのか。茉莉花マツリカも何処かへ連れ去られてしまった。

 茉莉花マツリカの行方は――誰も知らない。

 茉莉花マツリカのことは――誰か覚えているのか?

 あたし以外の誰かが、茉莉花マツリカを覚えていてくれれば、良かったのだけど。


†††


 昭和39年、オリンピックを数ヶ月後に控えた〈東京〉トーキョーは、ろくでもない状況の中にあった。

 川を埋め立て、道路を掘り返し、とどめは水飢饉。

 昨日、新宿日活ていとざで観たのは小林旭マイトガイの主演映画『さすらいの賭博師ギャンブラー』だった。

 ということは、今日は8月6日か。

 封切日にわざわざ観に行くほど、24歳のおれはスクリーンの向こうにいる2歳年上のスターに憧れ、そのスタイルを必死で真似ようとしていた。

 だが、今は四谷よつやの蒸し暑いアパートに戻って食事の準備をしている。

 不意に廊下の黒電話が鳴り、大家が扉を叩いた。

「おい、桐原キリハラ、相変わらず貧乏か?」

 陽気で失礼な電話の主は甘木アマギで、半年ぶりの電話は「大井おおい記念で当てたからメシを喰おうぜ」というものだった。後から考えれば、6月14日の重賞レースから一ヶ月以上も経っているのに金が残っているものか、疑問に思うべきだったが、目の前のちゃぶ台には白い飯と味噌汁の他に近所の商店街で買ったコロッケ一個で、丸美屋まるみやのふりかけもありゃしないから、迷うことなくおれはまた都電に乗り新宿しんじゅくへ向かう。

 新宿しんじゅく三丁目、三光町さんこうちょう角筈つのばず……。

 協和銀行の角を曲がり、靖国やすくに通りをのろのろと走る都電の窓から見えるのは、片っ端から道路を掘り返している殺風景な工事ばかりだ。

 待ち合わせ場所は新宿西口のコマ劇場だ。おれは東口の交番前で待ち合わせようと言ったが、甘木アマギが妙に嫌がったからだ。途中、腹が減っていたから道端の大衆食堂に目を惹かれたが、駆け寄ってきた甘木アマギに「おい、そっちじゃねえよ」と怒られた。競馬の重賞レースを当てても甘木アマギの貧相な風体にはまるで変化が無く、流行のアイビーファッションに身を包んではいるが、どうにもちぐはぐなくせに「桐原キリハラは骨の髄まで貧乏がしみついてやがるから、こっちまでしみったれた気分になるぜ」とか言い出す。

 他人のことが言えるか。だいたい、三度の飯がちゃんと食えるようになったのも、ほんの十年前の話だ。「もはや戦後ではない」なんて言われても、あの混乱を経験した身体から死臭にも似た貧乏の匂いが簡単に抜けるわけがない。

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