第17話

『マギクロ』の世界では、英語とフランス語が混在したような独自の言語が使われているらしい。

 耳で聞くぶんには、すべて日本語に聞こえるので気にしていなかったけれど、書物に記された文章は外国語だった。

 もしも前の世界で目にしていたら、何が何だか理解できなかっただろう。

 でも、この世界のキャラに転生した現在の「私」には、文字を読み解くことも書くこともできる。


「私」が転生する前の「ディアンヌ」が書き記したであろう、卒論の下書きをもとに、学院長の課題である二本目の卒論の骨組みを帳面に書き出していく。


 …………パソコンがほしい。

 正直、手書きはしんどい。


 前の人生では高卒(調理科)だったので、卒論というものを見たことも書いたこともない。

 同年代の友人たちが、死んだような顔で「しんどい」「無理」「間に合わない」「〆切……」と、恨み節のようにつぶやく様子を横目に、料理修行に明け暮れていた。

 ゲームの世界に転生して卒論の恐ろしさを体感するなんて、夢にも思わなかった。


「一週間なんて、物理的に無理じゃなくて……?」


 学院長の、ほんわかとした笑顔が脳裏に浮かぶ。

 とんでもないドSジジイだったわ。


 せめて、パソコンがほしい。

 手書きはしんどい(二回言った)。


「がくいんちょー先生、実は退学を撤回する気なんてなかったりして」

 机の上で瑠璃色の髪を揺らしながら、フラヴィが恐ろしいことを口にした。

「冗談じゃありませんわ! それじゃあ、破滅エンドまっしぐらですわよ!」

「はめつ?」

 フラヴィは、小さな頭をこきゅっと傾けた。

「いえ、なんでもありませんわ」


「私」にとっては虚構ゲームの世界でも、フラヴィやサーラ、ベルナルドたちにとっては、この世界こそが「現実世界」なのだ。

 分岐だのフラグだの言っても理解されるはずがないし、きっと話してはいけない。

 彼らの「現実」を否定してしまうことになる気がした。


「ディアンヌ、お昼は? 食べないの?」

「えっ?」

 顔を上げて木製の置時計に目をやると、時刻はそろそろ正午になろうとしていた。

「大変ですわ、エチエンヌ様との約束に遅れてしまいますわ」

 私は急いで荷物をまとめ、メイドの手を借りてドレスを脱がせてもらい、学院の制服に着替えた。

「お昼はー?」

「用事が済んだら、学食に行きますわ。それまで、これで我慢してくださいな」

 お腹をすかせたフラヴィに、作りおきのビスケットを一枚渡す。

 フラヴィは、自分の顔ほどの大きさをしたビスケットにすかさず齧りついた。


 夢中でビスケットを食べるフラヴィを肩の上に乗せ、筆記用具を詰めた鞄を携え、私は侯爵家の馬車で学院へ移動した。




「ごきげんよう、エチエンヌ様」

「やあ、ディアンヌ嬢。今日もいい天気ですね」

 学院図書館。

 カウンターで返却書架の整理をしていたエチエンヌは、上機嫌で微笑んだ。

 湿度の低い晴天の日は、彼いわく「本たちの機嫌がいい」のだそう。


「こちらが、お約束の参考文献です」

 そう言って、彼がカウンターに積み上げた書物は、ゆうに三十冊はあった。

 煉瓦のように分厚く重そうな本すべてに、細く切った薄紙が数えきれないほど挟まれている。

 前の世界でいうところの、付箋のようなものかしら。

 あ、でも、あちらの世界の図書館の本に付箋を貼ってはいけないのよ。本が傷んでしまうから。


「お役に立つと良いのですが」

「…………充分すぎるくらいですわ、ありがとうございます」

 持って帰れるかしら。

「あ、こちらの本は、箱に詰めてご自宅へ運びますので、ご心配なく」

 心を読まれたのかと思った。

「まあ、お気遣いありがとうございます。助かりますわ」

「いえいえ。貴女の技量でしたら、過不足なく資料をまとめることができると信じていますよ」

 転生する前の「ディアンヌ」は、本当に聡明な令嬢だったのね。

 料理の腕なら「彼女」に負けない自信があるけれど、脳味噌は……正直、自信がない。


 でも、やるしかないんだわ。

 聡明で努力家な「ディアンヌ」に、破滅の道を歩ませるわけにはいかないもの。


「エチエンヌ様のご期待に添えるよう、精一杯努力いたしますわ」


 その後、卒論の骨組みをエチエンヌに目を通してもらい、小一時間ほど相談しながらブラッシュアップして、図書館を後にした。

 無事に卒論を提出して退学が撤回されたら、また料理を振る舞うと約束して。



「卒論、なんとかがんばれそう?」

「ええ。エチエンヌ様のおかげで、なんとか」

「それじゃあ、学食! 学食行きましょ! ビスケット一枚じゃ足りないもの。ごはん!」

「そうでしたわね。お待たせしてごめんなさいね」

 学食のおばちゃんの突き指は、治ったのかしら。

 一日や二日で治るものじゃないわよね。

 エチエンヌに、おばちゃんの様子を聞いておけばよかった。

 セルフサービスは別に苦ではないけれど、昨日みたいに行列ができたら卒論に割く時間が減ってしまう。


「あたしねー、今日はラグーが食べたいなあ」

 ラグーは、ビーフシチューの原形にあたる煮込み料理。

 赤ワインやトマトをベースに、野菜をじっくりコトコト煮込んでゆく。

「ラグーは、ちょっと時間がかかりますわね。もっと簡単なものでもよろしくて?」

「んー、じゃあパンケーキ」


 フラヴィと二人、お昼ごはんのメニュー談義をしながら、図書館の前庭を抜けて学食を目指す。

 爽やかな風が夏の濃い緑の匂いを運び、昼の陽光が彩り鮮やかな花々を照り返す。

 エチエンヌが上機嫌になるのもわかる、いい天気だった。


 庭園には白く塗られた瀟洒なベンチが配置され、学生たちが思い思いの休息を取っている。

 その中に、一人の男子生徒がいた。

 転生してから数日、「ディアンヌ」の記憶はある程度「私」の記憶に定着しつつある。

 目にとまった男子生徒は、見覚えがなかった。


「こんにちは、ディアンヌ様」


 こちらに気付いた彼が、ベンチから立ち上がって歩み寄ってきた。

 細身で背の高い、制服姿の少年。銀縁の丸眼鏡をかけている。

 淡い銀髪に、赤茶色の瞳。

 昼休みの下級生かしら。


「ごきげんよう」

 ディアンヌが彼を知らなくても、学院の生徒はほとんど全員ディアンヌを知っている。

 何せ、元・聖女候補なのだから。

 私は姿勢を正し、腰の前に両手を重ねて優雅に微笑み返した。


 彼は、ゆったりとした足取りで近づいてくる。

 南の空から降り注ぐ真白い陽光が、月明かりのような淡い銀髪を照らし出す。


「…………っ!?」


 思わず、息をのんだ。

 身体が、こわばる。


「ねえ……ディアンヌ」

 いつの間にか髪の中に隠れていたフラヴィが、怯えたような掠れ声で言った。

「翅が……痛い」


 額に汗が浮かぶのは、天気がよすぎるせいなのか。それとも。


 優美な微笑みを浮かべながら一歩ずつ近づいてくる彼の髪は、よく見ると銀色じゃなかった。

 それは、新雪のような、純白。


 そして、丸眼鏡の下の瞳は……まるで血の雫を固めたかのような、真紅だった。

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