第10話

「いやあ、面目ない。助けていただき、ありがとうございます。ディアンヌ嬢」


 銀髪の男性――エチエンヌは、へらっと笑って頭を掻いた。

 眼鏡の奥の涼やかな瞳は、グラスワインを光に透かしたような紫色。


「シャルル君も。わざわざ運んでくださって、ありがとうございました。重かったでしょう?」

 エチエンヌが微笑みかけたのは、黒髪の青年。

 彼も、『マギクロ』攻略対象キャラである。名前はシャルル。


「全然平気ッスよ。礼には及ばないッス。それより、司書さん軽すぎッスよ。ちゃんと、メシ食ってます?」

 身長は平均的だけれど、肩幅ががっしりして筋肉質、ほどよく日に焼けた肌、爽やかで人懐っこい笑顔。

 健康優良児を絵に描いたようなシャルルは、細身のエチエンヌを凝視して心配そうに言った。

 図書館前の庭園で、行き倒れていたエチエンヌをどうすることもできずに途方にくれていたところへ、ちょうど彼が通りかかった。まるで粉袋のように、エチエンヌの身体をひょいっと肩に担いで、図書館の中へと運んでくれた。


 図書館一階の学生向け書架は広間のようにゆとりのある空間が取られ、天井まで届きそうな高さの本棚が神殿の列柱のように規則的に並び、分類ごとに資料が細かく区分けされている。

 床には赤い天鵞絨ビロードの絨毯が敷かれ、足音が吸収される造りになっている。

 柔らかな素材とはいえ、床に寝かせるわけにいかないので、椅子を並べてエチエンヌの身体を横たえたのだった。

 卒業パーティー(婚約破棄イベントの日)から卒業式までの一週間は、上級生は自由登校のため、学院にいる生徒は少ない。いるとしたら、追試か卒業論文の追い込みで教師に泣きつく生徒たち。

 本棚の隙間にちらほら見える制服姿は、おそらく昼休みの下級生。


「食事……ですか。食べたような……食べていないような」

 エチエンヌは、自分の記憶を探るように視線を虚空へ向けた。

「エチエンヌ様。今朝は、何を召し上がりまして?」

「……何も」

「まあ。朝食は、一日の活力の源ですわよ。ちなみに、昨夜は何を?」

「新しく買った本を読むのに夢中になって、気がついたら朝になっていましたね」


「それはつまり……」

「何も食わずに徹夜したってことッスか!?」


 静かに驚く私の横で、シャルルが素っ頓狂な声をあげた。

 広々とした空間に彼のよく通る声が響き渡り、近くにいた学生が不思議そうにこちらを見た。


「シャルル君、ここは図書館ですよ。お静かに」

 エチエンヌは神妙な顔つきで、口元に人差し指を添えて諌めた。

「あっ、すいませんッス。……じゃなくて!」

 今度は、シャルルは小声で突っ込んだ。

「食事も睡眠もとらないで仕事してたら、そりゃ倒れるッスよ。司書さん、そのうち死んじゃうッスよ?」

「それは……困りましたね。職員寮に、まだ崩していない積ん読タワーがあと五つはあるのに、死んでいる場合ではありません」

「つんどく?」

 耳慣れない言葉に、シャルルは首をかしげた。


「司書さん。とりあえず、何か食いましょ? 今から学食に行きましょ?」

「わたくしも賛成ですわ。読書は心を豊かにしますが、その前にご自分の身体が豊かでなければ、楽しめるものも楽しめませんわ」

 そもそも、図書館へやってきたのは、エチエンヌに卒論のテーマ決めの相談に乗ってもらうためだった。

 当の彼が行き倒れてしまっては、元も子もない。

「ディアンヌ嬢、シャルル君。心配をかけてしまってすみません。ありがとう」



 私とシャルルは、エチエンヌと共に学生食堂へと向かうべく、図書館を出た。

 エチエンヌは、出がけに『学生の皆さんへ。お昼を食べてきますので、その間の貸出と返却はセルフサービスでお願いします』とカウンターに書き置きを残した。


 図書館前の庭園を抜けて、校舎へと続く小道を歩いていると、見覚えのある華やかな金髪が向かってきた。

「うーっす、アラン!」

「やあ、シャルル」

 ルームメイトで友人同士でもある二人は、お互いに手を挙げて挨拶を交わした。

「居残りで卒論の追い込みかい?」

「知ってるくせに、そんな意地悪言うなよ~! 研究を詰めすぎて、書くのが遅れただけだって」

 拗ねたように口を尖らせるシャルルに、アランは「悪い悪い」と笑い返した。

 シャルルの得意分野は、天文学。

 ゲーム内では、星の動きと妖精の生態の関連性から、新しい占いの体系を創りだすという、難解で壮大なテーマの卒論に挑んでいた。

 見た目は運動部といった風情なのに、実は学者肌なのよね、彼。

 シャルル推しのプレイヤーは、そのギャップがたまらないらしい。


 すれ違いざまに、アランは何か言いたげにこちらへ顔を向けたけれど、私は「ごきげんよう、アラン様」と優雅に微笑んで素通りした。

 アランは、図書館へ向かって歩いて行った。


 卒論の提出は済んでいるはずなのに、何の用なのかしら?




 校舎西棟そばにある、煉瓦造りの一軒家風の建物。

 

「あれっ?」

「まあ」

「おや」


 シャルル、私、エチエンヌは、学食入り口の扉を前に、思い思いの声をあげた。



『突き指したので店じまいします。鍋のスープとパンは自由に食べてよし。早い者勝ちの無料です。食堂のおばちゃんより』



「なんていうか……」

「アバウトですわね」

 防犯とか、大丈夫なのかしら。

 でも、無料で食べてもいいのなら、食い逃げにはならないから、それはそれで良いのかしら。

「おばちゃんの怪我は大丈夫なのでしょうか? 突き指とはいえ、長引いたらお仕事に影響しますよね……」

 エチエンヌが気遣わしげに言った。

「職員寮に戻ったら、女子寮の寮母さんにそれとなく様子を尋ねてみることにしましょう」

「それがよろしいかと思いますわ」

「食べもの、残ってるッスかね? 駆逐されてたりして」

 シャルルが冗談半分に言いながら、学食の扉を開けた。


 大人数用の長机が並べられた学食には、百に届く数の席が用意されている。 

 今は、数名の学生と教員がまばらに着席し、パンとスープを大事そうに口に運んでいた。


 カウンターに、スープの入った大鍋と、数種類のパンが盛りつけられた大皿が置かれている。

「よかったー。司書さんのお昼ごはん、残ってるッスよ」

「では、ありがたく頂戴しましょう」

「オレもついでに食ってこーっと」

 シャルルとエチエンヌは、それぞれトレイを手に取り、スープとパンを器に盛りつける。


 ふと、大鍋の横に置かれた紙切れが目にとまった。


『パンとスープで足りない人は、適当に何か作って食べること。食材は自由に使ってよし』


 食堂のおばちゃんの書き置きだった。



「お二人は、お先に召し上がっていてくださいな。わたくしはちょっと」

 そう言って、私はカウンターの横を抜けて厨房へと移動した。

 見るからに栄養の足りていないエチエンヌに、何か精のつくものを食べてほしいと思った。

 燻製肉か貝のオイル漬けがあれば、結構なものが作れるのだけれど。


「きゃあっ!」


 無人のはずの厨房から、女の子の悲鳴があがった。

 それも、聞き覚えのある声。


 私は、物陰からそっと中の様子をうかがった。



「ど……どうしよう」



 亜麻色の髪をした制服姿の少女が、おろおろしている。

 彼女の前で火柱が上がっていた。


「サーラ……あなた、何をしていますの?」

 見かねて声をかけると、サーラは小動物のように振り返った。

 その手には、白ワインのボトルが握られている。

 どうやら、かっこつけてフランベしようとして失敗したらしい。

 ちなみにゲームの設定では、サーラは料理が大の苦手である(特技は裁縫とレース編み)。


「ああっ、ディアンヌ! どうしよう、助けて~~~~!!」


 涙目で訴えるサーラの手によって、ひとつの貴重な食材が消し炭になろうとしていた。

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