Mother Quest ~ラスボスが現れた!~⑰

 何も迷うことなく、ただ単純に『好きだから』と言う理由だけで一緒にいられたらどんなに幸せかと思う。

 私がもっと若ければ、その勢いだけで突き進めたかも知れない。だけど私はもう甘い夢だけを見ていられるほど幼くはないから、結婚やその先にある現実を考えると臆病になってしまうのだと思う。

『好き』と『嫌い』だけで割り切れなくなるなんて、大人の恋はどうしてこんなにややこしいのだろう。


「うん……そうか……。そうだな……」


 潤さんは静かにそう言って、私の頭をポンポンと優しく叩いた。そして両手で私の手を取り、じっと私の目を見つめる。


「俺は志織が好きだから結婚したいと思ってるし、結婚しなくても志織がいればそれでいいとも思うけど、志織はそういうわけにはいかないだろう?もし志織にとって俺の存在が負担になるなら……今ならまだ、婚約者って言うのは嘘だってみんなに言うこともできる」


 みんなの前でだけ婚約者であることを否定するのか、それとも本当に、私へのプロポーズは取り消すと言っているのか、どちらを意味しているのかがわからない。

 私は黙ったまま潤さんを見つめて、少し首をかしげた。


「志織の性格考えたら、何も考えずに一緒にいられるとは思えないし、俺のせいで志織に悩んだり苦しんだりして欲しくない。だから……全部、なかったことにしてしまおうか」





 あれから何時間経ったのだろう。

 私は真っ暗な部屋の中でぼんやりとベッドに横たわり、一人で涙を流し続けている。

 潤さんが『全部なかったことにしてしまおうか』と言ったとき、私は『いやだ』と即答することができなかった。

 潤さんと別れたいなんて思っていないけれど、待たせるだけ待たせておいて結婚を決断できなければ、結果的に潤さんを悲しませてしまうと思うと、何も答えられなかったのだ。

 何も言えずにいる私の手を離し、『こんなに志織を悩ませるなら、好きだなんて言わなきゃ良かった。ごめんな』と言い残して潤さんは去っていった。私はその背中を追うこともできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 潤さんの震えた声が耳の奥に残り、大きな壁に立ち向かう勇気のない私を責め立てる。

 ゆうべはお互いを想う気持ちを伝え合って、あんなに幸せな気持ちで潤さんの腕の中にいたのに、たったの数時間でこんなことになるとは思ってもみなかった。

 明日からどんな顔をして潤さんと会えばいいんだろう?部署が違うとは言え同じ会社で、同じバレーボールサークルにも所属しているのに、まったく顔を合わせないなんて言うことは不可能だ。

 きらいになって別れたのなら、新しい恋や仕事に没頭すれば忘れられるかも知れない。だけど私は潤さんが好きだから、きっと何をしても潤さんのことを考えてしまうだろうし、何もなかったことになんてできるわけがない。


『このまま終わってしまっても後悔しない?』


 心の中の私が私に問いかける。

 後悔するかしないかなんて、後になってみないとわからない。先のことはおろか、今この瞬間のことでさえ、何が正しいのかわからないのに。


『今の自分にとって何が一番大切か、よく考えるのよ』


 別れ際に母の言った言葉が、私の心に重くのしかかる。それはまるで、決して解くことのできない、ピースの足りないパズルのようで、今の私にはあまりにも過酷な課題だと思う。

 想像を絶するほどの困難な現実に直面したとき、『二人ならどんな壁も乗り越えられる』とか、『好きならどんなことがあっても離れちゃダメ』と言う安いドラマみたいな言葉は、なんの役にも立たないのだ。

 明確な答えのない問題は、そう簡単には解けない。現実なのにどこか現実味のないこの状況を、私はまだ受け止めきれていないのだから。

 潤さんとの将来について冷静に考える時間も与えられず、たいした教養もスキルも持たない私が丸腰のまま戦いに挑んだところで、結果は目に見えている。

 それなのに自分より強いものを恐れることも、好きな人に心の弱さを見せることすらも、私には許されなかった。

 潤さんが私を好きだから苦しめたくないと言って私の元を去ったことで、私はまた新たな別の苦しみに苛まれている。始まったばかりの潤さんとの恋を手放してしまったのは、ありのままの潤さんを受け止めることができなかった弱い私だ。

 私が母のように強い心を持っていたら、潤さんがどんなに大きなものを背負っていたとしても、まるごと受け入れることができただろうか?

 もしもこれがロールプレイングゲームなら、私はどんな困難にも屈しない強い心を持った勇者となり、『自分にとって一番大切なものを見つけろ』という偉大なる母の課したクエストをクリアして、自分より何倍も強く大きな最後の敵に、怯まず臆せず立ち向かうことができるのに。



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