覚悟を決めろ!⑦

「三島課長、飲み物もうありませんね。追加しましょうか?何にします?」


 下坂課長補佐はメニューを見せながら、また少し三島課長に近付く。三島課長は伊藤くんの方にイスごと体をずらしながら、メニューも下坂課長補佐の方も見ずに「ウーロン茶でいい」と答える。


「私もそろそろウーロン茶にしようかしら……。じゃあ私、化粧室に行くついでに注文してきますね」


 下坂課長補佐は席を立とうとして、指先でするりと三島課長の耳の後ろに触った。その手付きがやけになまなましかったので、みんなは何事かと驚いて一斉に下坂課長補佐を見た。

 三島課長は下坂課長補佐に無防備な場所を突然触られたのがよほど堪えたのか、目を見開いて呼吸を止めている。いやがって文句を言うような余裕もないらしい。


「糸くず、ついてましたよ」


 いや、私が見る限り、糸くずなんてついていなかったはずだ。下坂課長補佐は、とにかく三島課長に触りたくて仕方がないんだろう。

 普通の男性が耳の後ろなんて場所を女性に触られたら、もしかして誘っているのかと思うに違いない。

 きっと下坂課長補佐は色仕掛けで三島課長を落とすつもりなのだろうけど、それは逆効果だ。三島課長は激しく拒絶反応を起こしているのだから。


「三島課長、大丈夫?顔色悪いよ」


 下坂課長が席を外すと、有田課長は心配そうな顔をして尋ねた。


「すみません……。じつは女性に触られるのが苦手で……」


 三島課長が苦しそうに答えると、有田課長は顔をしかめる。


「それは女性より男性が好きってこと?」

「いや、そうじゃなくて……」


 誤解を解くために説明しようにも、三島課長は気分が悪くて顔もあげられない。


「三島課長は過去に付き合っていた女性にひどい裏切られ方をしたトラウマで、雌の臭いがする女性が苦手なんです。そういう女性に触られたり、二人っきりになったりすると具合が悪くなるんですよ。仕事中は気を張っているのでなんとか持ちこたえてますけど、お酒が入るとなおさら症状がひどくなるみたいです」


 瀧内くんが簡潔に説明すると、有田課長は気の毒そうに三島課長を見た。


「それじゃああんなフェロモンを撒き散らしてるような女性の補佐がついて大変だな。いいなぁなんて言ってごめん」

「いえ……それは別に……。でも毎日が地獄です……。部下の前で倒れるわけにもいかないので、仕事中はなんとか気合いで乗りきってるんですけど……あんな風にむやみに触られたら身が持たない……」


 三島課長は弱々しい声でそう言って、グラスに残っていたウーロン茶を飲み干した。


「二次会、最後まで持たなかったらすみません……」

「そんな無理しなくても、帰りたくなったら帰ればいいよ。付き合いより自分の体大事にしな」


 有田課長はビールを飲みながら宙を見上げて何かを考えているようだ。


「そうだ、今のうちに席替えしよう。三島課長と瀧内の席を入れ替えて……伊藤と木村さんも交替して」


 有田課長の提案通り急いで席替えをして、三島課長は私の隣に座った。


「大丈夫ですか?」

「なんとか……。でも志織の隣にいれば大丈夫」


 三島課長は小声でそう言って、テーブルの下で私の手を握る。その手は冷たく、少し震えていた。


「ごめん……ちょっとだけこうさせて」

「いいですよ。それで落ち着くならいくらでも」


 私が笑って手を握り返すと、三島課長も微かに笑みを浮かべた。


「志織がずっと俺のそばにいてくれたらな……」


 三島課長がうつむいて呟いた。


「……え?」


 えーっと……それは私が隣にいれば苦手な女性から守ってもらえそうとか、もし女性に触られて具合が悪くなってもすぐに回復するとか、そういう意味だろうか?


「三島課長、かわいそうに……相当参ってるんですね……」

「え?あー……いや、そうだけどそうじゃなくて……」


 三島課長が何かを言いかけたとき、下坂課長補佐が両手にウーロン茶を持って戻ってきた。


「あら?席替えしちゃったんですか?」


 下坂課長補佐は席の配置を見て、少し不服そうな顔をした。三島課長が私の隣に座っていることが面白くないのだろう。


「みんな下坂課長補佐ともっと話したいんですよ。三島課長とはいつも一緒なんだから、少しくらいいいでしょう?」


 瀧内くんが笑顔でそう言うと、下坂課長補佐はまんざらでもなさそうな笑みを浮かべて、三島課長に近付いてくる。三島課長は慌てて私の手を離した。


「はい、ウーロン茶」


 下坂課長は三島課長の横に立ってウーロン茶を手渡し、空いたその手で三島課長の肩に触れた。三島課長はまた息を止めて体をこわばらせている。

 ほんの少し触られただけでこんな風になってしまうのだから、会社では私の想像を超えるくらいに気を張って耐えていたのだと思う。

 下坂課長補佐がそばを離れると、私は三島課長の手を強く握った。


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