覚悟を決めろ!⑧
「大丈夫ですよ、三島課長。私がついてます。ゆっくり息をしてください」
私が小声でそう言うと、三島課長は私の手を握り返し、小さくうなずいてゆっくりと呼吸した。三島課長は青白い顔をして脂汗を浮かべている。
私は新しいおしぼりをおしぼりトレイからひとつ手に取り、三島課長に手渡した。
「これで汗拭いてください。スッキリして少しはラクになるかも知れませんから」
「ありがとう……」
三島課長は弱々しい声でそう言って、おしぼりで顔や首筋にまとわりついた汗を拭い、大きく息を吐いた。
早く決着をつけないと三島課長の体が心配だ。
私が顔を上げると、下坂課長補佐の隣でビールを飲んでいた葉月が、私に目配せをした。きっとこれから作戦を決行すると言う合図なのだと気付いた私は、葉月の目を見てうなずく。
葉月は下坂課長補佐の様子を窺いながら、茄子の漬け物に手を伸ばした。
「あー、ナスビの漬け物ってなんでこんなに美味しいんやろ。泉州の水茄子やったらもっと美味しいんやけどなぁ」
葉月がバリバリの関西弁で大きな独り言を言うと、下坂課長補佐は小さく首をかしげた。
「ナスビ……?」
「ナスビですよ。ホンマに美味しいですよね。多分ナスビ嫌いな人なんていてへんでしょ?」
「ナスビじゃなくて茄子でしょ?」
「えーっ、こっちではナスビって言わんのですか?知らんかったー!でもナスビはナスビやし、美味しいからまぁええか」
突然何を言い出すかと思ったけれど、葉月はまた茄子の漬け物に手を伸ばす。下坂課長補佐はそんな葉月のことを値踏みするような目で見ている。
「木村さんって美人なだけじゃなくて面白いのね」
「そうですか?私なんか大阪ではめっちゃ普通ですけどね」
「大阪の人ってみんなそんなに美人なの?」
「大阪では美人よりオモロイの方が誉め言葉なんですよ。美人って言うたら、下坂課長補佐の方が私よりずっと美人やないですか。昔も今もめちゃめちゃモテるでしょ?ここらで恋の武勇伝のひとつでも聞かせてくださいよ」
なんと、ナスビを恋の話の前振りに使ってくるとは!葉月のトークスキルのすごさにはいつも驚かされる。
美人の葉月に持ち上げられて、下坂課長補佐は得意気な顔をして笑っている。
「そりゃまぁ、それなりに恋愛はしてきたけど……言うほどモテないのよ」
「またまたご謙遜を!なんかあるでしょ?ええ男をおとす秘訣とか教えてくださいよ!」
葉月の言葉を合図に、伊藤くんが身を乗り出した。
「俺も下坂課長補佐の恋バナ聞きたいです!っていうか、経験豊富な下坂課長補佐に相談したいんですけど……。俺、女心ってわからないんですよね。俺の彼女、俺のこと好きって全然言ってくれないんですよ。俺は毎日でも聞きたいのに」
伊藤くんよ、それは本音なのか?
葉月は伊藤くんの隣で少し顔を赤らめて顔をひきつらせている。
「それは伊藤くんが言ってあげないからじゃないの?」
「そんなことありません、めちゃくちゃ言いますよ」
「そうなの?愛されてる彼女がうらやましいわ。私だったら大好きだって言葉も体も使って惜しみなく伝えるけど……。伊藤くんの彼女は相当の恥ずかしがりやさんなのね」
「そうなんです、そこがかわいいんですけどね。恥ずかしがりやで意地っ張りで素直じゃないから、なかなか好きだって言ってくれないんです」
「すごいノロケねぇ……」
思わぬところでノロケを聞かされてしまった。
しかしそうか、伊藤くんは素直に愛を語れるようになったんだな。二人がまた付き合うようになった経緯を知っているだけに、まるで親のような気持ちでしみじみしてしまう。
「そういえば志織もなんか大変なんやろ?彼氏がおんなじ職場の女に付きまとわれてるんやっけ?」
自分の話を早々に切り上げたかったのか、葉月が突然私の方に話を振って来たので、私は慌てて脳内を偽婚約者モードに切り替える。
「うん……。やたらとそばにくっついてきて職場のみんなの前でベタベタされるし、家にまで来られたこともあって彼は迷惑してるんだけど、全然気付いてくれないんだって」
「そんなん、婚約者がいてるからやめてくれってハッキリ言えばいいやん」
「そうなんだけど……職場での関係とか立場もあるから、あまり邪険にもできないんだって困ってる」
自分のことを言われているのだと気付いていないのか、下坂課長補佐は涼しい顔をしてビールを飲んでいる。
「なんだ、佐野主任には婚約者がいるのか。それじゃあ下坂課長補佐はどんな人が好き?」
有田課長に尋ねられ、下坂課長補佐は頬杖をついてなまめかしい笑みを浮かべながら三島課長の方を見る。
「素直で優しくて、料理が上手で、仕事のできる歳下の人と結婚したいな」
三島課長に向けて言っているのは一目瞭然だ。相当自信があると見える。
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