覚悟を決めろ!①

 始業時間が近付きほとんどの社員が出社してきた頃、パソコンの画面から目を離して顔を上げると、若い女子社員がオフィスの隅で声を潜めて話している姿を目にした。

 気のせいか私の方をチラチラ見ている。私と目が合うと、彼女らは慌てて目をそらした。

 一体なんだろうと思って尋ねようとした瞬間に始業のチャイムが鳴り、みんな蜘蛛の子を散らしたように自分の席に着く。

 仕事中に問いただすわけにもいかず、気にしないようにして仕事に取り掛かった。



 忙しく仕事をしているうちに時間は過ぎ、あっという間に昼休みになった。

 コンビニで買ってきたおにぎりを食べながら午後の仕事の段取りを考えていると、そういえば朝のヒソヒソ話はなんだったのかと思い出す。

 一体何を話していたんだろう?私には噂されるようなことをした覚えがないので、いくら考えても答えは見つからない。

 やっぱり気のせいかなと思いながら昼食を終えて、コーヒーを飲みながらひと息ついていると、オフィスの入り口で葉月が手招きして私を呼んだ。葉月がわざわざ私に会いに来るなんて珍しい。

 立ち上がってそばに行くと、葉月は私の手を引いて廊下の端まで連れていく。


「葉月、こんなところまで来てどうしたの?」


 私が尋ねると、葉月は耳を貸せと促す。


「志織、有田課長と付き合ってるん?」

「えっ、なんで?!」

「なんか若い女の子の間で噂になってるみたいやけど……ホンマに?」

「ないない、ありえないから!」


 もしかして朝のヒソヒソ話はこれだったのか!

 そう言えば昨日、奥田さんにも同じことを聞かれたけれど、噂の出所はどこなんだろう?


「それからな……志織が三島課長をフッたって噂もあるんやけど……」

「えぇっ?!何それ!そんなことあるわけないよ!」


 三島課長をふるどころか、直接的ではないにしても、むしろフラれたと言うか失恋したのは私の方だ。

 火のないところに煙は立たないはずなのに、私の知らないところでありもしないことを噂されていると言うのは腑に落ちない。


「なんでそんな噂が立ってるんだろう?」

「さぁ……。私もあの子らが話してんのがチラッと聞こえただけやから、詳しいことはわからんけど……。なんとかうまいこと言うて聞き出してみるわ」

「うん、何かわかったら教えて」


 それから葉月は腕時計を見て、急いで営業部に戻った。私も自分の部署に戻ると、気のせいではなくやっぱり視線を感じた。

 私と有田課長が本当に付き合っているのかが気になるなら、直接聞いてくれればいいのに。

 いっそのこと、こちらから行って否定してみようか。そう思ったけれど、間もなく昼休みが終わる時間なので、私はモヤモヤしながら席に着く。

 仕方がない。今日の歓迎会のときにでも、うまくタイミングを見計らって話しかけることにしよう。



 なんとか定時に間に合うように、キリのいいところまで仕事を片付けることができた。

 これから三島課長たちの所属する二課と同じ店で開かれる歓迎会に出席しなければならないのだと思うと気が重い。瀧内くんの企んでいることも、私に関する噂話の出所も気になる。

 私と付き合っているという噂がたっていることを知ってか知らずか、有田課長の様子は至っていつも通りだ。

 来週もまたヒソヒソと噂されるのは気分が悪いので、歓迎会が終わるまでになんとかタイミングを見計らって、みんなの前で全力で噂を否定しなければ。



 会社を出て予約していた居酒屋に向かっている途中で、瀧内くんと伊藤くんに会った。

 伊藤くんは私の方を見てニヤニヤしている。


「佐野、モテ期が来たんだってな」


 おそらくあの噂のことを言っているんだろう。

 噂はただの噂だとわかっているくせに、私を冷やかしたくて仕方がないらしい。


「そんなもの私のところには一度も来たことないよ。それなのになんであんなわけのわからん噂が……」

「みんな会社って言う狭い囲いの中の単調な毎日に退屈して、他人のくだらない噂を餌に楽しんでるんです。根拠があろうがなかろうが、面白けりゃなんでもいいんですよ、他人事ですからね」


 たしかに瀧内くんの言う通り、噂なんてのは無責任なものだ。遠くの芸能人の熱愛より、身近な同僚の噂の方が想像をかきたてられて話が膨らむから、暇潰しのネタにはちょうどいいのだろう。


「他人事でも気分悪いけど、今回私は当事者だからね。全然面白くないよ」

「だったらそれをうまく利用してやればいいんです。前も言ったでしょう?餌を撒けば勝手に美味しくいただいてくれるって。二次会辺りで新しい餌を撒いてみませんか?」


 そう言って瀧内くんは、またあの背筋が寒くなるような笑みを浮かべた。



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