偽婚約解消⑧

「ちょっと意味がわからないんですけど……」

「ずっと好きだった人とまた付き合うことになって、いろいろ落ち着いたら結婚するんだって」


 瀧内くんの手からサラダチキンがすり抜け、音を立ててかごの中に滑り落ちた。

 この反応はもしかして……。


「……聞いてないの?」

「なんですか、それ?僕、潤さんから何も聞いてませんよ」

「そうなんだ……。まだ一昨日のことだからね。忙しくて話す暇がなかっただけじゃない?」


 レジで会計をしてもらっている間、瀧内くんは眉間にシワを寄せたまま何度も首をかしげていた。三島課長が真っ先に自分に話してくれなかったことが納得いかないのだろうか。

 会計が済んで店の外に出ると、瀧内くんはまた歩きながらチョコレートの箱を開けて私に二粒手渡した。


「どう考えても納得がいかないんですけど……本当に潤さんがそう言ったんですか?」


 三島課長が話していないことを私の口から話してしまってもいいものかと思ったけれど、ここまで話してしまったのだから隠しておくこともできない。それにいずれ知ることになるのだから、今ここで私から話しても問題ないだろう。


「三島課長から直接聞いたんじゃなくて、その相手から聞いたの。後輩として三島課長と二人で食事するくらいは目をつぶるけど、それ以上の関係になられるのは困るって言われたから、誤解されると困るし、もう二人だけで会ったりするのはやめた方がいいかなって」


 瀧内くんはチョコレートをひとつ口に入れ、あごに手をあてて何か考えるそぶりを見せた。


「その相手というのは……」

「ん?下坂課長補佐。いろいろあって他の人と結婚したけど、本当は三島課長のことが好きだったって。三島課長も下坂課長補佐のことがずっと好きだったから、その件に関しては許したらしいよ」


 言ってしまってから、少ししゃべりすぎたかなと思ったけど、『覆水盆に帰らず』だ。

 瀧内くんは思いきり顔をしかめて嫌悪感を露にしている。


「またあの女か……」


 そうだった。瀧内くんは下坂課長補佐のことが嫌いなんだ。

 兄のように慕っている三島課長が、自分の嫌いな下坂課長補佐と結婚するなんて、瀧内くんにとっては許せないのかも知れない。


「そのこと潤さんには話したんですか?」

「言ってないよ。たしかに下坂課長補佐から三島課長と結婚するって聞いて、もうやめようって決心がついたんだけど……私には私なりの理由があったから、三島課長にはそれだけ伝えた」


 私の気持ちは私の胸だけにしまっておいた方がいいと思い、言葉を濁すような言い方をした。

 瀧内くんは私の顔をじっと見ている。


「志織さんはそれで良かったんですか?」


 瀧内くんがどうしてそう言うのかはわからないけれど、私のことを心配してくれているということだけはわかった。だけど私には三島課長と下坂課長補佐の間に割って入るようなことはできないから、どうしようもない。


「いいも何も……。最初から私は、三島課長にはずっと前から好きな人がいるって知ってたわけだし……三島課長がその人と幸せになろうとしてるんだから、私が言うことなんて何もないよ」


 私がそう答えると、瀧内くんは大きなため息をついた。


「ああもう……。相変わらずチョロいなぁ……」

「えぇっ……?!」


 またしても『チョロい』と言われ、『私のどこが?』とか、『どうしてそう言われるの?』と、いくつもの疑問符が私の頭の中を飛び交う。


「僕、志織さんのことが本気で心配になってきました。バカ高い印鑑とか霊能者の勧めた壺とか買わされてませんか?」

「それはないけど……なんで?」


 一体どうしてそんな心配をされているんだろう?私はこう見えて財布の紐は固いのに。


「それならいいんですけどね……。これを持てば幸せになれるとか、これさえあれば一生お金に困らないとか、そんなうまい話はないんですから、気を付けてくださいよ」

「そんな胡散臭い話は信じないから大丈夫だよ!」


 会社の前で霊感商法に気を付けろと部下に諭されるって、一体なんなの?私ってそんなに頼りなく見えるんだろうか?

 一緒にエレベーターに乗っても、さっきの説教はなんだったのかと考えていると、瀧内くんは降りる間際に私の耳元に顔を近付け、声を潜めてこう言った。


「志織さん、胡散臭い話は信じちゃダメですよ。二股かけて裏切った女をずっと好きで、よりを戻す男がいるとかね」

「……え?」


 その言葉に耳を疑い、思わずぐるんと瀧内くんの方を向くと、瀧内くんのきれいに整った顔がすぐ目の前にあることに驚き後ずさる。


「今日の歓迎会は生産管理課と同じ店でしたね。楽しみだなぁ……」


 瀧内くんは楽しそうにそう言って、思いきり右の口角を上げた冷たい笑みを浮かべながらエレベーターを降りた。

 一体何を企んでいるのかと思うと背筋に冷たいものが走る。私は『今日の歓迎会が何事もなく平穏に終わりますように』と心から祈った。



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