偽婚約解消⑦

「そういう佐野主任は?そろそろお年頃でしょうが」

「親は早く結婚しろってうるさいですけどね。私は結婚以前の問題で……」


 恋愛すらままならない今の私には、結婚なんて考えられるわけがない。

 有田課長の言うように、結婚するために出会いの場を設けるお見合いにもやっぱり抵抗がある。


「お相手がいないとか?」

「まぁ、そんなところです」


 好きな人ならいるんだけどな、と心の中で呟くと、また下坂課長補佐と一緒にいる三島課長を思い出して落ち込んでしまう。


「私、一生結婚できない気がする……」


 思わず声に出して呟くと、有田課長は声をあげて笑いながら私の背中をバシバシ叩いた。


「ちょっ……!痛いですよ、有田課長」

「まだそんな人生を悲観するような歳じゃないだろ!大丈夫だって!佐野主任はきっといい奥さんになれるよ、自信持ちな」


 なんの根拠があってそう言うのかはわからないけれど、これは有田課長なりの励まし方なのだろう。底抜けの楽観主義というか、前向きさが羨ましい。


「どうしたらそんなに前向きでいられるんですか?」


 私が真剣に尋ねると、それが意外だったのか有田課長は一瞬ポカンとした顔をしてから、また笑いだした。


「おかしなこと言うなぁ。佐野主任、目は前向きについてるんだよ?後ろを向いても目は前を向いてるんだから、前向きなのは当たり前なんだよ。それでも目を横に動かせば視野が広がる」

「……なんですか、それ」


 有田課長特有の持論に思わず笑いが込み上げた。どこを向いても前なのなら、私は私の道を行くしかない。


「有田課長の持論を聞いたら少し気が楽になりました」


 私が笑ってそう言うと、有田課長は私の頭をポンと叩いた。


「そう?なら良かった。最近の佐野主任は下ばっかり向いて、ちょっと元気なかったもんな。そうやって笑ってりゃそのうちいいことあるよ」


 ……この人、見てないようで見てるんだな。

 会社では一応役職についているのだから、立場上、部下の前ではできるだけ顔を上げて仕事に徹していようと思っていたのに、上司の有田課長には落ち込んでいることを見抜かれていたらしい。なるべくして人の上に立つ人になったのだろう。


「なかなか侮れませんね」

「ん?何が?」

「いえ、こちらの話です」


 私も仕事だけでなく、何事においてもこれくらいの余裕が持てたらなと思った。



 金曜日の朝は寝過ごすことなくいつも通りに起きて家を出た。

 電車を降りて昼食を買うためにコンビニに寄ると、お菓子売り場の前でチョコレートを凝視している瀧内くんに遭遇した。

 私はそっと瀧内くんに近寄り、陳列棚からひとつチョコレートを抜き取って瀧内くんの前に差し出す。


「今日はこれにしたら?」

「あっ……志織さん、おはようございます」


 瀧内くんは私の選んだチョコレートを受け取り、パッケージをじっと眺めた。


「おはよう。それ、この前食べたけど美味しかったよ」


 三島課長との偽婚約を解消しても、瀧内くんの中で私は『志織さん』のままなのだなと思うと苦笑いがもれる。三島課長はもう私を『志織』とは呼ばないだろうに。

 私がおにぎりのコーナーに向かうと、瀧内くんも私の選んだチョコレートを手に後ろをついてくる。


「また昼はコンビニ飯ですか?」

「うん。相変わらず忙しくて。それに今日は定時で仕事終わらせなきゃいけないからバタバタしそうだしね。営業部はどう?やっぱり忙しいの?」

「僕たちは通常運転ですね。でも潤さんとか役職就きの人たちは大変そうです」


 やっぱり三島課長は仕事が忙しくて疲れているのかも知れない。オーバーワークになって体を壊さないか心配だけど、その辺は下坂課長補佐がケアしてくれるのだろう。

 そう思うのだけど、三島課長の体調がどうしても気になってしまう。


「瀧内くん、三島課長は体調が悪いなんてことはないよね?」


 私がおにぎりをかごの中に入れながら尋ねると、瀧内くんは顔をしかめた。


「仮にも婚約者なんだから自分で確かめたらどうです?それにこの間も気になってたんですけど、名前で呼ぶのやめたんですか?」


 さすがいとこ同士。この間、三島課長も同じことを聞いたな。

 そういえば三島課長との偽婚約を解消したことを、瀧内くんにはまだ話していない。元はといえば私を三島課長の偽婚約者に仕立て上げたのは瀧内くんなのだから、やはり報告くらいはしておくべきだろうか。


「その件に関してはね……私の役目は終わったみたいだから、解消したの」


 瀧内くんは私のかごにサラダチキンを入れかけて手を止める。


「役目は終わったって……どういう意味です?」

「本物が現れたんだから、偽者はもう必要ないでしょ?」


 自分でそう言いながら、また胸の奥がしめつけられるような痛みを覚えた。

 瀧内くんは眉を寄せて首をかしげている。


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