不戦敗⑥
エレベーターのボタンを押して、ぼんやりと階数表示が点灯するのを眺めていると、後ろから肩を叩かれて驚き跳び上がりそうになる。社内とは言え、こんな時間に突然背後を取られるのは少し怖い。
一体誰だと思いながらおそるおそる振り返ると、そこにいたのは三島課長だった。ホッとしたのと嬉しいのと切ないのが入り雑じって、私の頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。
「お疲れ様。今帰り?」
「はい……。お疲れ様です」
「資料室に行ってたんだけど……この時間だから、もしかしたら会えるんじゃないかと思ってた」
『会えるんじゃないかと思ってた』と言うことは、三島課長も私に会いたかったって言うこと?
……なんて、少しくらい自惚れてもいいかな?
「今日も忙しくて……残業してたらあっという間にこの時間です」
「そうか……。俺ももう少ししたら帰るけど……」
三島課長はそう言って腕時計を見る。時計の針は8時半を少し過ぎたところをさしていた。
「一緒に晩飯でもと思ったけど……こんな時間じゃ待っててもらうのも悪いか……」
三島課長は控えめに呟いて、チラッと私の方を見た。私は誘ってもらえたことが嬉しくて、首をブンブン横に振る。
「いえ、大丈夫です!ぜひ行きましょう!私、すごくお腹が空いてるんです!」
自分が思ったより勢いのある声で答えたあとで、自分の言った言葉が、まるで食いしん坊の子どもみたいだと恥ずかしくなった。三島課長はおかしそうに笑っている。
あ……まあいいか。
その笑顔を見ると私も嬉しくなって、一緒に笑った。
「じゃあ急がないとな。営業部に戻って帰る支度してくるから、ちょっと待っててくれるか?」
「はい!」
さっきまでは地を這うような重い足取りだったのに、三島課長から食事に誘われただけですっかり舞い上がり浮き足立ってしまっている私は、とことん単純だ。好きな人に誘われて嬉しくないわけがない。
こんな些細なことで、わずかな可能性に一縷の望みをかけてみようかと思うのは、自惚れ過ぎだろうか。
それから一緒にエレベーターに乗って営業部のある階で降りた。
「自販機コーナーでコーヒーでも飲みながら待ってて」
三島課長は私に百円玉を握らせて、営業部のオフィスに入っていく。私は三島課長に言われた通り、エレベーターホールの脇にある自販機コーナーでコーヒーを買って、ウキウキしながら待つ。
こんな嬉しい気分になるのは久しぶりだ。どこのお店に行こうかとか、どんな話をしようかと考えて、三島課長と二人で過ごす時間が楽しみでしょうがない。
三島課長と下坂課長補佐の関係はもちろん気になるけれど、私の三島課長を好きな気持ちもどうしようもないらしい。
コーヒーを飲みながら三島課長を待っていると、廊下の向こう側から靴音が響いてきた。
この廊下の先にあるのは総務部だ。きっと今回の人事異動で総務部もバタバタして残業が続いているのだろうと思っていると、自販機コーナーの前を通りかかったその人が足を止めた。
「あっ、佐野さん!お疲れ様です」
「……お疲れ様です……」
廊下の向こうから歩いてきたのは総務部の人ではなく、下坂課長補佐だった。
できれば今は会いたくなかった。私はどうしてこんなにタイミングが悪いんだろう?
「そうそう!昨日のプリン、とっても美味しかった!」
「それは良かったです……」
部署が違うとは言え相手は上司なんだから、そつなく会話を交わせば良いのだけれど、今朝瀧内くんから聞いた話を思い出すと胸がモヤッとして、おまけに特に話すことなんてないから、会話がうまく繋げられない。
「ところで……佐野さんは商品管理部だったわよね?こんなところで何してるの?」
下坂課長補佐はにこやかに笑っているように見えて、その大きな目は笑っていない。
三島課長を待っていると普通に答えればいいのに、私はその威圧感に負けて口ごもる。
「わかった、もしかして三島くんを待ってる?」
「……ええ、まぁ……」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、三島くんが来るまで少しお話ししない?」
本当は早く立ち去って欲しかったけれど、さすがに「いやです」とは言えないから、仕方なく黙ってうなずいた。
下坂課長補佐は私の向かいの席に座って、私のことを値踏みするようにじっと見る。
「佐野さんは三島くんと仲がいいのね」
「仲がいいと言うか……営業部にいた頃からよく気にかけていただいて、お世話になってます」
無難な受け答えをすると、下坂課長補佐は小首をかしげて口元に笑みを浮かべた。
「もしかして佐野さん、三島くんのこと好きだったりする?」
「えっ」
突然図星を突かれ、一瞬頭の中が真っ白になった。だけどここで取り乱したり妙な態度を取ると、あとで三島課長に何を言われるかわからない。
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