不戦敗⑤
「橋口先輩のこと、聞きました?」
「うん……。昨日の朝、有田課長から聞いた。護、どうしてる?」
私が尋ねると、瀧内くんは箱の中からチョコレートを2つ取り出して私に差し出した。
「昨日は出社してましたけどね、完全に孤立無援状態です。仲良くしてた人たちですら話しかけないし、本人の前では誰もあの話には触れませんよ。みんな業務上どうしても必要な、事務的な会話くらいしかしません。立場上、話し掛けるのは部長と潤さんくらいです。いつまで耐えられるか……」
「そうなんだ……」
護にとって昨日はとても長く苦しい一日だっただろう。これなら言葉の通じないような海外の工場にでも出向する方がよほどましだと思う。
「ああ……あと、新しく配属された下坂課長補佐もいますね」
瀧内くんの口からその名前が出ただけで、私はまた胸の奥がモヤモヤしてしまう。
瀧内くんも三島課長と同じ二課所属だから、仕事中の三島課長と下坂課長補佐の様子を、何か少しは聞き出せるだろうか。そんなことを聞いてどうなるわけでもないけど、やっぱり気になるものは気になる。
「ねぇ瀧内くん……。下坂課長補佐って、この間夜遅くに三島課長の家を訪ねてきた人だよね。どんな人なの?」
「どんなって……」
瀧内くんはうんざりした顔をしながら、包み紙をはがしたチョコレートを口に入れる。
「37歳のバツイチ独身らしいですよ」
「へぇ……実年齢よりずいぶん若く見えるね。三島課長と同じくらいだと思ってた」
「志織さんが入社する少し前まで、うちの課にいたそうですけど……率直に言うと、僕はあの人嫌いです」
瀧内くんの人の好き嫌いがはっきりしているのはなんとなくわかるけど、いくらなんでも昨日初めて会ったばかりの上司を理由もなく嫌ったりするとは思えない。
下坂課長補佐は、着任早々、何か瀧内くんの気に障るようなことでもしてしまったんだろうか。
「嫌いって……どうして?」
「僕、思い出したんですよ。潤さんの家で見かけたときは暗くてよくわからなかったけど、昨日の朝礼で顔を見て名前を聞いて、『あっ、あの女だ』って」
「あの女?」
「潤さんを捨てて上司と結婚した二股女です」
瀧内くんは9年ほど前に一度だけ、三島課長の家で下坂課長補佐と会ったことがあると言った。
その頃まだ高校生だった瀧内くんは、今と同じように三島課長のことを兄のように慕っていて、家に泊まりに行ったり勉強を教えてもらったりしていたそうだ。
ある休日、いつものように三島課長の家に遊びに行くと女の人が一緒にいて、三島課長から彼女だと紹介されたのだと言う。それが下坂課長補佐らしい。
その後、順調に交際を続けていたように見えたのに、ある日突然彼女が上司と結婚したと聞かされ、三島課長が落ち込み女性不信に陥る姿をすぐ近くで見ていて、何もできない自分が歯痒くてつらかったと瀧内くんは言った。
……ということは、前に瀧内くんの言っていた三島課長の忘れられない人って、下坂課長補佐のことなんだ。
「その人が下坂課長補佐だったの……?でもすごく仲良さそうだし、とてもそんなことがあったようには見えないけど……」
「潤さんも大人ですから、仕事中は割りきってるんじゃないんですか?」
瀧内くんはそう言うけれど、三島課長は下坂課長補佐に触れても触れられても大丈夫そうだった。
ひどいときは過呼吸を起こしてしまうほどに、好きじゃない女性に触られることが苦手なのであれば、自分を裏切って他の人と結婚した下坂課長補佐に対して、なんらかの拒絶反応があってもおかしくないはずだ。
そんな様子もなく平気で体に触らせているということは、三島課長がずっと想い続けている人は下坂課長補佐なのだと思った。
朝から衝撃的な話を聞いてしまったせいで、一日中思うように仕事がはかどらなかった。それでもなんとか若手の教育に加えて通常の業務をこなし、定時までにさばけなかった仕事は残業して片付けた。
昼休みにオフィスに残ったこともあって、三島課長とは一度も会わずに一日をやり過ごしたけれど、今週はバレーの練習もないから、この調子でいくと次に三島課長と会うのはいつになるだろう。会ってもきっとつらくなるだけなのに、やっぱり本当は三島課長に会いたいとか、せめて遠くから一目だけでもいいから顔が見たいと思ってしまう。
どうせフラれるなら思いきってぶつかってみようかと思ったり、想いは遂げられなくてもせめて同僚としてそばにいたいと思ったり、仕事を離れると私の頭の中はずっと三島課長のことでいっぱいだ。
仕事帰りに偶然会えたりしないかな。……もちろん下坂課長補佐は抜きで。
そんなことを思いながら、重い足取りでオフィスを出た。
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