収穫祭⑦

「利用されずに済んで良かったですね。そういえば、さっき佐野主任と橋口先輩が席を外している時に、部長から電話がありましたよ。橋口先輩、すぐに会社に戻ってください」

「部長から?」

「はい、急ぎの用みたいなので、大至急戻ってください。ここの代金は僕が立て替えておきますので」


 護は怪訝な顔をして首をかしげながら、慌てた様子で店を後にした。


「おまえも帰れば?用は済んだだろ?」


 瀧内くんは奥田さんに対して、相変わらず冷たい態度を取る。

 奥田さんはそれに慣れているのかたいした反論もせず、大きくため息をつきながらテーブルの上に千円札を3枚置いて立ち上がった。


「言われなくてもそうします。佐野主任、ありがとうございました。お先に失礼します」


 私と葉月と伊藤くんにも頭を下げて、奥田さんはひっそりと帰っていった。

 まさかお礼を言われるとは思っていなかった。

 ……ちょっとかわいそうなことをしたかな。そう思わなくもないけれど、これも奥田さん自身の蒔いた種が起こしたことの結果だ。それを重く受け止めた上で、早く立ち直ってくれるといいなと思う。

 護と奥田さんがいなくなると、瀧内くんはたちまち上機嫌になった。


「邪魔者もいなくなったことだし、飲み直しましょう」


 瀧内くんはメニューを開き、サイコロステーキの写真に目を輝かせている。


「大至急って……そんな大きなトラブルがあったの?」


 どうしても気になって尋ねると、瀧内くんは楽しそうに笑った。


「あじさい堂の担当者の旦那さんが、泥酔して会社に乗り込んでるそうです」

「えっ?!」


 予想を上回るまさかの泥沼展開に、瀧内くん以外のみんなが思わず声をあげた。


「奥さんが失踪したんですって。橋口先輩と一緒にいるんだと思ってるみたいで、会社の受付で『橋口を出せ』ってわめき散らして、警備員をなぎ倒してるらしいですよ。来週は橋口先輩に会えるかなぁ……。立て替えたお金を返してもらえるといいんですけどね」


 何も知らない護は、今頃急いで会社に向かっていることだろう。

 女性を騙し、いいように利用した罪と不倫の代償は、護にとって予想以上の厳しいものになることは間違いない。



 それから4人で飲み直した。

 瀧内くんが奥田さんのことを生理的に受け付けないと言っていたのは、母親を苦しめた父親の愛人の娘だからなのだということがわかった。

 そして何人も愛人を侍らせて母親を苦しめていた父親を憎んでいた瀧内くんだけでなく、伊藤くんも三島課長も、散々不貞をくりかえした母親の姿がトラウマとなり、浮気とか不倫に対してかなりの嫌悪感を抱いているらしい。

 それを聞いて、3人が『浮気は絶対にしない』と言い切っていたことにも合点が行く。

 三島課長に至っては、付き合っていた彼女が二股交際の末に他の人と結婚したことで、一時はかなりの女性不信に陥っていたそうだ。


「だから潤さんは、一方的に自分を恋愛対象にしている女性に触れられるのが苦手なんです。ひどいときは過呼吸を起こしますよ」

「うーん……ちょっとよくわからない。それはどういうこと?」

「好きでもない相手に色目を使われて触られるのが苦手で、逆に好きな人と、絶対に恋愛の対象になり得ない相手なら、触れても触れられても平気ってことです」

「そうなんだね……」


 ということは、好きな人がいる三島課長にとって私は恋愛の対象になり得ないから、手を繋いだり抱きかかえたりしても平気ということだろうか。

 何気なく触れて過呼吸を起こされるのも困るけど、なんとも思われていないのは悲しい。

 なんとも思っていない私に触れても平気なのは営業部にいた頃のスキンシップで実証済みだから、婚約者の役を私に頼んだのかも知れない。



 しばらくお酒を飲んだあと店を出た。


「次の練習は日曜日か。何時からだっけ?」

「先週と同じ時間です」


 駅に向かいながらそんな会話を交わしていると、瀧内くんのスマホが鳴った。瀧内くんは電話を終えると、「おばあちゃんの家に泊まりに行くことになりました」と言って会社に戻った。

 葉月と伊藤くんはスーパーで明日の朝食を買って帰ると言ったので、駅前で別れた。

 一人になった私はなんとなくまっすぐ帰りたくなくて、電車に乗る前にコーヒーでも飲もうと、駅前のコーヒーショップに行くことにした。

 コーヒーショップの手前に差し掛かったとき、この間三島課長と一緒に食事をしたイタリアレストランから、三島課長とあの人が出てくるのが見えた。

 少し酔っているのか、店の前の段差につまずいた芽衣子という女性が、とっさに三島課長の腕にしがみつく。三島課長は心配そうに声をかけて、その体を支えた。

 私は立ち止まって二人の姿を呆然と見つめる。


「……やっぱり帰ろう」


 ひとりごとを呟いた瞬間、こちらを向いて三島課長が顔を上げた。私は自分がここにいることを三島課長に気付かれないように、すばやく踵を返して駅に向かう。

 三島課長は『また本社に戻ることになったから挨拶に来ただけだ』と言っていたけど、きっと本当はそうじゃない。私は二人がこんな時間まで食事を楽しみ、触れ合っても平気な関係なのだと悟った。

 最初から三島課長の心にはあの人がいて、私は恋愛の対象になり得ない、ただの偽婚約者だったんだ。



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