第一章 帝都逃亡編

第4話 十年後

「ふーんふんふふーん♪」


 単調なリズムで鳴り響く鼻歌が、室内を彩っている。

 グラグラと煮詰められる音と共に、キッチンで小さな演奏会が開かれていた。

 コンロにべたせいせきはチリチリと火花を散らしながら赤く燃え、鍋に入れられたお玉が、時折鍋底を軽く擦る。

 多種多様な音階に囲まれながら、鼻歌混じりにシチューを作る少女は、とても意気揚々としていた。

 暫く混ぜながら煮込んでいくと、ほんの少しお玉で掬い、小皿にとって息を吹きかける。少しだけ冷ませば、ズズッ、と勢いよく吸い込んだ。

 首根まで伸ばされた艶やかな銀髪。トマトのように赤い瞳。慎ましやかに膨らみだした胸。特徴的な尖った耳。


「……よしっ。出来た!」


 レイナ・アンバースは、心底楽しげに、誰にも向けずに宣言した。

 コンロのマナを止め、火精石の加熱を止める。マナを送れば熱を放つ、不思議な白色の石である。

 新聞紙を折って重ねると、手袋をはめ、鍋ごとシチューを食卓に乗せる。食べる分だけ取り分けろという、適当——もとい楽で効率的な手段である。

 手袋を意味もなく叩いて払うと、脱いでキッチンに置き、リビングで寝ている男に向けて声を張る。


「お父さーん! ご飯出来たよー!!」

「ん……、あぁ、もう昼か」


 二人掛けのソファを一人で占拠し、胸元に厚い本を乗せて寝ていた男が、のそりと気怠げに起き上がった。

 黒の短髪はボサボサで、髭は小さく頭を覗かせた状態の杜撰な男。だが右目は黒の眼帯で覆われ、左腕は鋼鉄の義手である。


 アラン・アンバース。十年前に軍を退役し、レイナを育てている父親代わりの男だった。


 かつては軍の上層部において《威天》と呼ばれ、その数々の戦績で他を圧倒した超人は、今では本を読み耽る研究者のような存在となっていた。

 眠気を振り払うかのように伸びをすると、レイナのいる食卓へと向かう。レイナはオーブンで温めたパンを皿に取りながら、昼食の準備を進めていた。

 本日のメニューはシチュー。デミグラスソースが香り、牛のテールからも油が出ているのか、食欲を刺激するいい匂いが鍋から上がっている。


「早く早く! 冷めないうちに食べよ?」

「分かってる分かってる。俺にもバゲットくれるか?」


 差し出した平皿にバゲットが置かれると、アランは熱々のシチューを豪快に皿に取る。肉は程々に、レイナがたくさん食べられるよう、少し控えめにする。

 レイナもレイナで、そこまで多くは取らない。これは純粋な腹具合の問題である。

 寝起き早々にコレは、などと言った文句は出ない。元軍人として、寝て起きれば暖かい料理があることの幸せを知っているのが主な理由だ。だが、娘の作った料理にケチをつける親がそもそもいるか、と言う話でもあるが。


「「いただきまーす!」」


 二人同時にシチューに食らいつく。じっくり煮込まれ、柔らかくなった牛のテールはほろほろと繊維状に崩れ、中から豊かな脂を出してくる。

 思わずパンを千切り、一口。肉の脂とシチューのデミグラスソースが、パンに染み付いて味わい深い。デミグラスソースに溶けた数種類の野菜の甘味が、深い味わいを引き立て、肉の旨みをより感じさせる。数種類の旨味が混ざり合い、ベストマッチに噛み合って、非常に旨い。

 レイナは、相変わらずバゲットの硬さに少々手こずっているようだが、それでも美味しそうに頬張っていた。満足のいく出来の様子だ。


「ところで、俺は午後から少し用事があるんだが、レイナはどうする?」

「私? うーん、特に予定とかはないよ?」


 アランが話を振ると、レイナは首を横に振った。

 彼女はまだ11歳程度。本来ならば、アレを買ってコレを買ってと強請ねだる頃だろう。

 しかし、レイナは大人しく、欲望なんかを見せた事はほとんどない。まあ、自宅にたまに押しかけてくる面倒見の良い奴らから遊んでもらっているそうだが、それにしたって大人しいものだ。彼女たちの英才教育によるものなのか、本音を隠しているだけなのか、その真意を、アランは計りかねていた。

 そうして緩やかに、食事の時間は過ぎていく。


 あの日から約十年。

 サレンに届けてもらうなどの苦心の甲斐あってか、レイナは立派な少女へと成長した。

 半吸血鬼ハーフ・ヴァンパイアとはいえ、肉体の発達過程は人間と同様で、すくすくと成長していった。

 サレン辺りは、「ちょっ……この子、早いわね……」などと呟いていたが、別段気にもしない。

 しかし一方で、精神はかなり早熟だった。七歳を回ったあたりでは、もう既に落ち着き払っていた。吸血鬼ヴァンパイアの因子がどのように作用しているのかは不明だが、この点は間違いなくそれが理由だろう。

 軍を退役し、時間が多く取れるようになったアランは、レイナの子育てに時間をかけるようになった。慣れない作業に試行錯誤を重ねながら、今日に至る。

 サレンや他の友人の手も借りながら、なんとかここまで育て切った、と言った具合だ。

 彼女が十年前、あの災禍の街の中で拾われた、などと言われても信用する者は殆どいないだろう。


「なら市場に買い出しに行ってきてくれ。ついでに少し、保存食の類もな」

「うん、分かった!」


 それ程までに、よく笑う子に育ったからだ。


 昼食を終えると、アランは寝ていた時に持っていた本を棚に戻し、肌着の上にシャツを着、上着を羽織ってハットを被る。

 今日は春。暖かな陽気が街を覆う、散歩には最適な日取りだ。勿論、アランは仕事で外出するため、散歩ではないのだが。

 玄関で靴を履いていると、昼食の片付けを終えたままなのかエプロンをつけたままのレイナがやってきた。


「今日は遅くなる?」

「夕暮れ時までには帰れると思う。できるだけ早く帰れるように努めるよ」

「それでよし。いってらっしゃい!」


 ニコニコと笑いながら手を振るレイナ。

 アランもまた、それに応えるように手を振って、ドアノブに手をかける。


「行ってきます」

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