いつか見た月のように丸い穴

今日も仕事は最悪だった。

馬鹿な部下に無能な上司、そしてそこに挟まれる私は疲労困憊。

カンコンと苛立ちを載せたハイヒールを鳴らして駅から家に向かう途中で良い物を見つけた。

あぁ、この衝迫は煌水くんに晴らして貰わなければ……


ガチャリと扉が開く音が水槽に鈍く届く。

香澄が帰ってきた時に聞こえるこの音にはいくつか種類があるように思う。

今日は少し嫌な予感がする。

「コウ、ただいま。いい子にしていた?」

ん、そうでもないのか?

大体少し乱暴に扉を引く時は外で何があるのか俺には分からないが香澄にとってストレスになる何かがあってそれを俺にぶつけてくることがほとんどなのだけれど、今日はあまりその圧が少なく感じる。

「どうでもいいから飯くれよ。あとなんかネット番組契約して。地上波クソつまんねー。」

水槽の縁に腕を載せて頬杖をついて俺はテレビを指して言った。

外のことを流してくれるテレビは好きだけれど、人間のゴシップや事件なんかに興味は無いし平日の昼間に長々と同じような内容を垂れ流している番組は一体誰のためなのか疑問だ。

「ネット番組ねぇ……私からしたらテレビ自体何がそんなにって思うけれど……まぁいいわ。

いくつか契約しといてあげる。」

言いながら香澄は俺に皿を差し出してきた。海老のサラダだ。たまには肉も食いたいけれど、香澄はベジタリアンというわけではないが調理が面倒という理由で食べないから俺にもこうやってカット野菜にボイル海老を混ぜたものをよく出してくる。本人は更に適当で卵かけご飯や焼いただけのトーストだけで食事を終わらせている。

とことん食に興味が無いようでぱっさぱさの変なクッキー囓って「これはポテト味だから野菜だなー」と言っている日もある。

人魚ショップに居たときの方が俺は良い物を食べていた気がする。

「ねぇ、コウ。私お風呂に入ってくるからその間に食べちゃってね。」

そう言って香澄は部屋から出ていった。

やはり俺の考えは合っていたということだ。

わざわざ食べることを急かしてくるのは風呂から出たあと俺に何かろくでもないことをするつもりなのだろう。

このパターンももう何度目か分からない。

こういう時に逃げ出せない自分の体が疎ましく思う。

どんなに人間が嫌いでも俺はこの水槽から抜け出すことは出来ないし、人間の庇護がなければ生きられない生き物なんだ。

皿をガンッと置き水槽に潜る。このまま香澄が風呂から出てこなければいいのに。今日は何をされるのか想像するとブルリと体が震えた。なるべくなら痛くない事を望みたい……

「コウ、全部食べたのね。偉いね。」

香澄が読んでいいと渡してきた本の中に悪魔について書かれた物があったのを思い出す。この女は人間のふりをしているだけなのかもしれない。

タンタンと水槽の脇に香澄が登ってくる。そして縁を叩き上がってこいと指示してくる。

処刑台に向かう気持ちで俺は香澄の元へ泳ぐ。

「なぁ、俺今日はもう寝たいんだけど。」

「そうなの?じゃあすぐに済ますわね。」

こいつは話が分からないらしい。

と、その手に握っている物を見て嫌な記憶が蘇ってきた。

「や、やだ!嫌だ!」

反射的に水槽に潜ろうとしたが、手首を掴まれ香澄はいつものことのように涼しい顔で俺に手錠をかけその片側をパイプに繋げてしまった。

それでもせめてもの反抗としてバシャバシャと体を動かし抵抗したがそんな俺を見て香澄はにっこりと笑っていた。

「煌水くん、静かにしないと何回もやり直すことになるよ。別に私は何回やってもいいんだけどね?」

するりと俺の耳に香澄が指を当てる。

またピアスの穴を増やそうとしている……この行為が俺はとても嫌いだった。

ズキンとくる痛みもそうだし、耳のそばでバチンと音がするのも怖かった。そして何よりもそれが俺は人間の持ち物だという証明のようで嫌だった。

「嫌なんだって!なぁ、自分にやれよ!」

「私も嫌よ。痛そうじゃない。」

当たり前でしょう?と香澄は首を傾げている。

こいつはいつもそうだ。

「じっとしていればすぐ終わるよ、煌水くん。」

こんなに嫌な行為を自分から受け入れるように従わないといけないこの時間もたまらなく屈辱的でついにはぽろぽろと俺の意思に反するように涙が零れた。

「泣いちゃって、かわいいね。」

グッと香澄が手に力を入れた。

身を固くしてその圧力に耐えまた俺の体に香澄の所有物である証拠が増えた。

小さな金属を俺の耳に通すと香澄は満足げな顔で「定着したら可愛いの買ってきてあげるね」と言った。

俺はどうしようもなくこの女が恐ろしい。大嫌いだ。

「うるせぇよ。」

そう言うのが精一杯で外された手錠を睨んでグイと顔を拭うと俺は尾びれで水面を叩いて香澄に水を浴びせかけた。

どんなに抗おうと俺は結局人間の愛玩動物でしかない。

あの綺麗な顔をした女はこれからも自分のストレスを俺にぶつけてくるのだろう。

どちらかが死ぬまで繰り返される営みはいつ終わりを迎えるのか誰も知らない。

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