第63話 恵まれてなんかない




 魂の入れ物に、汚れたものが混じっていく。

 耐え難い抵抗と吐き気は、歯医者の麻酔のように一瞬だけ不快に感じるだけで、すぐに気にならなくなる。私が私でなくなっているのに……。

 自分という存在が薄れ、滲む……なんて虚しさと恐怖だ。こんな怖さに、彼女はずっと耐えていたのか。どう声を掛けてあげれば良かったんだろう。


「あ……りか……ちゃ……」

「やっぱり炯眼の抵抗がなければ、あっという間に濁る……痛みはさほどでは無いと思います。はよぎるかもしれませんが……じきに感情を失い、記憶も古いものから零れ落ちていきますよ」

「……」

「このまま私の精神が先に尽きれば、貴女に取って代わられる可能性がある。ハクの得意な、精神交換の要領でね。私の身体で門の消滅に行き付く……なんて土壇場の大逆転があっても困りますので、このまま粉々に砕き、潰れた私の人格と混ぜてしまいましょう」


 沈み続ける私の魂を、青みがかった暗黒の塊が受け止めた。さっき炯眼の糸を引き千切ったときみたいに、私の至る所をまさぐり……引っかかるちょうど良いところを探している。

 もしかしたら、私が真っ黒に染まるより速く、バラバラに壊される方が先になるかもしれない。今となってはどっちだっていいが、痛いのは嫌だな。 


「そうだ、死ぬ前に……私と友だちになってもらえませんか?」

「……」

「学校では他人と話せず、目も合わせられないので一人でいました。友だちがいないのです。欠席することが多かったというのもありますが」

「……」

「いいですよね? ね? ……なんとか言いなさい!」

「……」

「いま頷きましたね!? 良かった。友だちと一緒ならきっと大丈夫です。頼廉らいれんも言ってました。辛い時や寂しい時にいてくれるのが本当の友だちだって。最後の時が来るまでお喋りしましょう? 面白い話があるんです。白も頼廉もご飯をたくさん食べるのですが、あれは――」


 ありかちゃんが何か言っている。

 でもごめん。よく聞こえない……

 

 ごめんと言えば、誰かに謝りたかったんだけど、誰だっけ?

 みんな……そう、色んな人たちに謝りたいって思ったんだ。んん、おかしいな。みんなって何だ? 分からない。とても大切なことだって感覚しか残ってない。  

 そういや、なんでありかちゃんがまだ見えているんだ?

 私の中に炯眼の力が残ってるから? でも、もうとっくに尽きているはずだ。そして新たに供給される炯眼の繋がりはすべて断たれたはず。

 

 まあいいか。頭の中まで暗くなってきた。


 そんなにくっきりとした孤独感はない……ありかちゃんが私に向かって話を続けているからかな? でも遠くて聞き取れないよ……そんなに何度も叫ばなくたっていいのに。


『――メグ! おい、聞こえてるかメグ!』

『……え、誰?』

『誰、じゃないだろ! 寝ぼけてんのか!?』






  ҉     ҉






『……コウちゃん?』

『ああ、俺だ。まだ戻ってこれないか? こっちはライレンを喰い止めるのでやっとだ。あのおっさん強すぎるぜ』


 ちょっとだけ意識がはっきりした。

 そうだ。この声、私が良く知っている声だ。

 コウちゃんのことを、私が忘れるわけないのに。

 

 眼を凝らすと、か細い糸が見えた。

 コウちゃんと繋がった炯眼の糸だけは、

 暗闇の中で赤く赤く伸びて続いている。 


 でも、帰るなんてとても無理。

 ありかちゃんの無事を伝えたところで、現実のありかちゃんは元に戻らない。ライレンじゃ彼女を戻せない。精神を操り、元通りにするのは私の炯眼でないと。つまりライレンの説得も、私がここから抜け出ることが条件になる。

 ……何もかも終わりだ。やれるだけの手は尽くしてしまった。


『そっちには……行けない』

『分かった。おっさんは足止めしておく。メグのやりたいようにやれ』

『私はもう駄目……コウちゃん、だけでも逃げて……』

『おいおいおい、どうした? 動けないのか? そっちの事情は分からねえけど、何が何でも戻って来てくれないと困る。お前を残して帰ってみろ、俺がみんなに蹴っ飛ばされちまうぞ!』

 

 みんな? みんなって……ああ、そうだった。

 私には友だちがいた。私なんかには不釣り合いなくらいすごい友だちが。

 そのみんなが寄ってたかってコウちゃんを蹴る場面を想像すると、思ったよりコミカルでつい笑ってしまう。


『あはは……そうだね。戻らなくちゃね』

『おう、頼むぜ……』

『……』

『……』


 最後の最後でコウちゃんと繋がったのは奇跡としかいいようがない。

 こっちを心配する、元気付けようとする……いつものコウちゃんのにおいをはっきり思い出せた。怖さが泡つぶのように消えて、あたたかい気持ちが心に灯っている。

 

 ああ、私の部屋で途中になってしまった、あの話がしたい。

 コウちゃんやみぃちゃん……みんながどんなに大好きで、大切に想っているか。私の声も、気持ちも、消えて無くなるまで――大好きな人に伝えていたい。


『みんなといて、コウちゃんといて……楽しかった。ありがとう』

『ああ! 俺もだ』

『私は運が良かったよ。本当に出来すぎな、奇跡みたいな幸運なんだ。私にはもったいないくらい、いい友だちに恵まれたことは』


 小さい時からずっと、悪い縁とは巡り会わなかった。

 不思議と友だちには困らず、関係が途切れたりしない。


 中学、高校の時もそう。クラスで一番入りたいグループにちょっとしたきっかけで上手く入れたり、クラスのいじめとかも無かった。それって結構すごいことだ。私は嫌なこととか面倒事をNOと言えない性格だから余計にそう感じる。何か運命が一つ掛け違っていたら、あの楽し過ぎた日々が無かったと思うと、本当に出来すぎた、偶然に助けられていたって思う。


 私のめぐみって名前は、幸運と恵まれた運命を引き寄せる。

 いまもそうだ。こうしてコウちゃんと言葉を交わすことが出来たし。

 

 私の中を、たくさんの思い出が零れ落ちて……消えていった。 

 形が、魂の入れ物みたいものがひび割れて、いくつも穴が開いた。

 ――ああ、もうギリギリだ。これ以上は私自身を繋ぎとめて、いられない。


『それ、間違ってるからな? ……お前は恵まれてなんかねえよ』

『……え?』





 *  *





『いいか。俺は、一緒だと楽しいからメグといたんだ。みんなだってそうだ。お前の優しさに、すぐ慌てるところに、一度決めたことは何言われても変えない強情っぱりな所や強さに、あたたかさに……笑顔に。みんな、大好きだから集まったんだぞ? 幸運や偶然なんかじゃない! お前がいい友だちに恵まれたって言うなら、逆だ。お前が俺たちを出会わせたんだ!』

『わたし……が、みんなを?』

『ああそうだ! メグがいたから、俺はみんなと巡り会えた! サッカーをもう一度やろうって気にさせて、また夢に……顔と目を向けさせた。失いかけたたくさんのものに気付かせてくれた。メグがいたから、ここまで来たんだよ!』


 ぱき、ぱきっ。

 コウちゃんの言葉が、どこにも引っかからない。 

 ……心の底に再び大きな穴があいて、ザーっと流れ落ちていく。


 心が通じ合っている。

 その感覚がある、のに……触れるたびに離れていってしまう。


『なあ、文化祭でお化け屋敷に入ったこと憶えているか? 子どものころから、一度も大きな声で叫んだことないって言ってたよな? その時も、メグは声を出してないんだ。合ってるか?』

『……』

『でも俺は、メグが初めて叫んだ場面と言葉を知ってる。俺は忘れてない……聞きたいだろ?』

『……』


 いつのことを言っているんだろう? 私、叫んだことってあったかな?

 あの夜。路地裏に連れ込まれて襲われた時……大声は一瞬出たけどすぐ口塞がれて殴られてたから……ええと……あれ? 最近のことしか思い出せない。さっき中学高校がどうのって言ってたはずなのに。いまはよく分からない。


 やめて! とか、だめ! とかかな?

 普段は大きな声を出さないから、そんなとっさの一言だたぶん。


 コウちゃんの声が、だんだん聞き取りにくくなってる。

 私の魂が壊れかかっているからか……コウちゃんの集中に限界が来ているのか……たぶん両方ともだ。


『忘れてるようなら俺がメグの代わりに言ってやる。あの時みたいに顔を真っ赤にしてよ、全身を震わせて叫ぶからよく聞いてくれ』

『……』

『聞けばメグはきっと《すごいな、私》って思うぞ』

『……』

『自己評価が低いお前でも、そう思っちゃうような言葉……何だと思う?』

『……なに?』


 かすかに感情が湧きあがった。

 コウちゃんの言葉を、声を、ずっと聴いていたい――

 

 


 いつだってそう願ってる。







『諦めるなッ! いけぇぇええええええええええええ!!!!!』






 その叫びが、赤い糸からはっきりと伝わって身体中に響いた。

 魂が焦げつきそうなほど激しく燃え上がり……記憶が一気に蘇る!





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