第56話 雨ざらしの心
メグの身体が力を失い、天内ありかに抱きつくように重なる。
そのままお互い動かない。まるで石組を枕にして仲の良い姉妹が眠っているようだ。ちょっと倒錯的な体勢というか、警察の人が目撃したら逮捕されるくらい事案の匂いがする。
武市さんが眼と眉をひそめた。居たわ、警察。
「何が起こったんスか?」
「たぶんメグは……彼女を治しに精神へ潜ったんだ。俺も同じようなことをされたから分かる。あの状態だと戻ってくるまで結構な時間はかかるし、その間は何されても無防備になっちまう」
「治せるの? というより間に合うの?」
「なんだ、話してない事情もずいぶん詳しいみたいだな。間に合うかなんて知らん。だが俺のやることは最初から最後まで決まってる。あいつの判断を疑わない、そして……」
「折原恵を何があっても守る。いいなあ、羨ましいくらい素敵」
白砂と小石にまみれ倒れているライレンに眼と鼻を向ける。
あまりの痛みにうめき声をあげて、悶絶しているのが分かった。
「痛ぇ……ああ、くそっ」
「マジか。信じられないな」
俺の中じゃ世界一忍耐強い男が、無様に泣いていた。
痛みに堪えきれず声を出し、涙を流す感情の動きがにおいとして嗅ぎ取れる。たしかに全身がバラバラになっていてもおかしくないケガのうえ、追撃まで喰らったんだ。でも、あのおっさんが痛みで泣くようなタマか?
ライレンが薄緑の刀を地面に付き立て、それを支えに膝をつく。
どれだけ運動をこなしても乱れなかった呼吸音が、いつもと違う。犬の喉が鳴っているような、空気が漏れるような音がとぎれとぎれに聞こえてきた。
その涙混じりの目は武市さんをじっと見ている。
ほんの少しだけ香る怒りのにおいと、底知れぬ静かな悲しみ。どちらのにおいも殴り倒した武市さんへのものじゃなくて、もっと別の……もっと大きくて曖昧なものに対して感じているみたいだった。
「お前もそうか。この世とは思えぬ残酷さに巻き込まれ傷つき……それでも雨ざらしの心で、前に進もうとしている」
「……あたしの心がどうなってるって、ああだこうだ決めつけられたくないっスねぇ。不快だよ。バケモノなんかに理解されてたまるか!」
「ああ、そうだな。俺には分からない。なにせ生きている理由も、生き返った理由すら思いつかない男だ。生命の理を捻じ曲げて弾き出された魂に、何の価値もない。死に場所を求めているうちに、余計なものに囚われてこの有様だ」
ライレンは自らを軽蔑するような笑みを浮かべた。笑ってから苦し気に咳込むと、血が何度も吐き出される。今にも死にそうな身体を起こし、フラフラと幽鬼のように立ち上がった。そのまま寝ていた方が楽になるのに。
自分の痛みよりも、倒された相手の心配を優先してる……!
「……俺は地獄を見てきた女とばかり、縁があるな」
胸に手を当てて、祈るような姿勢を取った。翠色の光がライレンの瞳から全身を薄く包み込む。肺に穴でも開いているような息遣いが、みるみる元に戻っていく。
この感じ。法眼を使ったらしい。
天内ありかに温存していた力を自分の治療に回したということは、もう彼女を治すことはないと判断したから。それはつまり……
「ありかの願いを阻もうとするならば、切り伏せるだけのこと」
そうだ。このライレンって男は。
自分の痛みを横に置き、刀を交えた相手の心情を汲み取ってそれでもなお、俺たちに刃を振り下ろせる。一人の女のためだけに、何もかもを捨てて向かってくる奴だ!
ライレンは仁王立ちの構えを取る。ほんの少しの迷いも見られない。
俺たちを斬るつもりだ……天内ありかに報いるために。
* *
「
「何か俺に出来ることは?」
「大丈夫です。というより貴方にケガでも負わせてしまったら恵さんを悲しませます。まあ安心しててください。向かってくるなら問答無用で殺しますから」
武市さんはにっこりと人懐っこい笑みを見せた。
言葉はずいぶんと物騒だが。
「この庭園の白い砂利や小石が影響して、お互い仕掛けるタイミングは音で分かります。今度は倒すだけじゃない……バケモノは責任を持ってあたしが処理するッスよ?」
「なら一つ忠告がある」
「んん? 聞きましょう」
「おっさんの踏み出す足は恐ろしく軽い。もしかしたら音も聞こえずに斬られる可能性がある」
「へぇ、あれと闘ったんスか!? よく生きてましたね!」
武市さんの興奮する声に、首を振った。
メグにあれこれ聞いて得た情報だ。自分からはとても言ってはくれない。肩に傷を受けたことだって最初は隠してたくらいだしな。
教えてくれたことや、有耶無耶にしておきたいことは、においで何となく伝わる。メグとは炯眼の赤い糸で繋がっていて、今も途切れてない。
「俺じゃねえよ。メグが前にやり合ったらしい。その時は二人とも無事じゃ済まなかったみたいだけど」
「なるほどなるほど……でも、やっぱりあたしの敵じゃないっスよ」
武市さんは鼻で笑ったが、目つきは真剣さを増して油断は消えている。
しっかりアドバイスとして聞いてもらえたみたいだ。
音が開始の合図になるってワケか。
剣道や柔道に代表される、どんな格闘技もやったことがないが、せめぎ合っているのが分かる。見えない牽制。肩のフェイント。他にももっとあるみたいだ。においでようやく推測できるくらい高度な領域で。
俺に出来ることは、仕掛ける時のにおいを事前に察知すること。
メグの言ったことを忠実に守る。それだけだ。
じゃり、と白砂を踏む音がした。
武市さんが半歩、いや爪の先ほど小さく軸足を後ろに引く音。その刹那、ライレンは足を抜くように音も立てず刀身を打ち放つ。
一瞬で距離が消え、警棒と刀が交差して止まり、やっと目が追い付いた感じだ。右手だけで釣り竿をしなやかに振るうような、剣の技術を前提とした動きだった。
「ぐうぅ!? こ、こいつ!」
武市さんが驚いた声を出す。
相手の踏み出しに合わせ、出掛かりを潰す完璧な後の先。意趣返しのつもりか、さっきの場面と真逆になった。
斜めに刃と合わせた警棒をねじり、薄緑の刀身を受け流す。
ライレンはまた同じように態勢を崩され、頭から胸にかけてがら空きの体勢になった。左の手のひらが武市さんの胸元へ向いている。
なんで片手だけで攻撃したのか? なんで後頭部に迫る警棒を空いた手で防御をしないのか。考える前に身体は動いていた。
「危ない!」
「えっ?」
手のひらから翠色の槍が突き出した。
槍を生やした左腕そのものを全力で蹴り上げる。大きく角度がずれて槍は武市さんの肩をかすめた。
薄緑の刀でふたたび切り上げようとするライレンの動きを察知し、武市さんは事前に身を後ろへ躱す。それと同時に腰に装着してある拳銃を片手で抜いて、躊躇いなく三回発砲した。
ライレンもまた距離をとる動作で一発目の軌道から身を外し、二発目を刀の柄で受け、三発目は脇腹に命中した。
「ぐっ……」
「死ねバケモノ!」
武市さんが追撃のため腕を伸ばし銃口を向ける。
後ろから身体を引き寄せる格好で、武市さんの上半身をのけ反らせた。
その影をなぞるように翠の大槍が横なぎに弧を描く。
拳銃を握っていた手の甲に赤いすじが走り、血が滲む。あのまま撃とうとしていたら、引き金をしぼる人さし指は確実に切り飛ばされていただろう。それを理解したのか、武市さんから戦慄したにおいが濃くなった。
鉛弾を喰らっても即反撃してくる。
いくら法眼で治しながら戦えるとは言っても、身をよじる槍の動きは相当な激痛を伴ったはずだ。痛みに慣れてるってレベルじゃない。
「……ありがとう。ずいぶん目がいいのね?」
「目よりも鼻が利くってだけ――」
「ど、どこ触ってるのよ!?」
「え? あ、悪い!」
武市さんの胸を後ろから思いっきり鷲掴みにしていたらしい。
ぱっと手を離す。咄嗟のこととはいえ許されざる行為だ。
ただ見た目以上に……でかくてすごい。
そういやメグはちらちら胸を見てたな。俺も人のことは言えないが。
ライレンは槍を体内に仕舞い込みながら、一連のやり取りを静観している。
油断なく、というかむしろ警戒を強めてたみたいだ。あまりの隙だったから、誘いだと判断したんだな。マジで武市さんは動揺してたのによ。
「銃創が治っていく……こんな異能、反則じゃないの!?」
「その意見には賛成だが、おっさんの力はそれだけじゃねえんだ」
緑の淡い光を帯びて、服についた血の染みが広がらなくなる。
ライレンの肌がざわめいた。パリパリと薄皮がひび割れて落ち、きめ細かいすじや斑模様が露出する。まるで鱗だ。トカゲみたいなつやつやした緑。よく知った顔の面影を残しながら、別の形へと変貌する。
黒目は縦に楕円形で、青みを帯びた鮮やかな薄緑色。
その瞳で俺たちを見ていた……そこから燃えるような輝きが溢れ出す。
「ふしゅるるるるぅ、くあぁぁぁ!」
くぐもった声が天井のある庭園に反響した。
慟哭、あるいは単なる呼吸音か。それだけで鉄の意志が伝わってくる。
俺たちを絶対に殺すっていう執念を!
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