第57話 悪夢もまた夢なり
暗闇の中へ、深く深く吸い込まれるようにして沈んでいく。
今までに三度、精神世界に飛び込んだ。
はじめは
ありかちゃんの魂は暗くて変化に乏しい。
シロの精神世界に近い気がする。あれは何ひとつないから黒い、からっぽの暗黒だった。ここは好き嫌い、善悪、清濁。すべてが一緒になってしまっている。とりどりの絵の具をすべてぐちゃぐちゃに混ぜて出来た黒って感じ。
あの時。死に至る呪いをとっさに剥がして深層へ入り込んでしまったが、やっぱり治すのはとても無理だ。もう別の人格。ありかちゃんらしさの欠片さえ見つからない。
コウちゃん達も気になる。早く戻らないと。浅い入口の方では炯眼の赤い糸が上にするすると伸びている。そこを目指しバタ足のイメージを作り、心を震わせて浮き上がろうとした。
『ここまで来たんですね』
声のする方に意識を向けると、青みががった輝きが人の形になっていく。暗闇に混じるのを拒み、明確なふちが定まって変化が止まった。一目みた者の心を掴んで離さない、愛くるしい瞳が私を見つめている。
『ありかちゃん! ありかちゃんなの!?』
『はい。そうですよ。私の精神世界へようこそ……めぐみ様』
『良かった……でも、なんで? あなたの心はもう』
『混乱させてしまっていますね。すみません。どうして私という無傷の心や記憶が残っているか、不思議にお思いでしょう』
確かに、彼女の精神は混ざったままの色をしている。この風景が元に戻らない以上は、人らしい心すら持てないはずなのに。目の前にいる彼女からはいつものありかちゃんらしさが感じられる。
『めぐみ様がいま知覚している潰れた精神は、厳密に言えば私自身のものではありません。むかし、私が大やけどを負った時、
『シロが……いつそんなことを』
『二重人格、という表現は正確ではありませんが……幼い私では耐えきれない辛い記憶や精神的な傷を負いそうになると、スイッチが自動的に押されるように入れ替わる。おそらく白が意図的に残したものだと、私は理解しています』
『門を創造した時に受ける代償を、その精神が肩代わりした、ということ?』
『いいえ、それは少し違います。門の創造には術式の発動に足るだけの精神を集める形で、紫雲山の方々を利用しました。ヨグ=ソト―スに願いを聞き入れてもらうには、門の奥へ入る必要がある。ただ鍵は白とめぐみ様が所持していましたので、無理矢理に私の魂を押し込めて潜るしかなかった。その潰れた人格を捧げ、取引は成立したんです……』
一瞬ありかちゃんは深く思い詰めた顔をして、軽く首を振った。
犠牲にした人たち、あるいは取引のことを気にしている? 私の身体から離れている状態じゃ、炯眼の力を十分には使えないようだ。ありかちゃんの本心はよく分からない。
『まあ、白も
『そうだ。すぐにライレンに知らせないと』
『……それは出来ませんね』
浮かび上がろうとした私に、ありかちゃんが声を掛けた。
消え入りそうな、だけど明確な否定の言葉。
お、おかしいぞ? どうしてそんなこと言うの? ありかちゃんの無事さえ伝えられたなら、ライレンとも敵対する理由がなくなる。あとは呪文を唱えてもらって、門を消滅させるだけなのに。
なんで……私を傷付けようとするにおいがするんだ?
* *
『紫雲山で貴女たちをを取り逃がした時、天眼で枝分かれした幾つかの運命を視たけれど……ここまで来れる可能性は低かった。どこかで大きな失敗をせず、なおかつ私を殺さないでいたってことだから』
『そんなことない。私は……ありかちゃんを殺す気だった』
『あら、そうなのですか? でもそうはなってない。貴女の心は思いとどまっている。本当はちょっと期待してました。治せる見込みもないのに、めぐみ様がここに来てくれるんじゃないかって。正直、この
ありかちゃんは嬉しそうに歯を見せて笑った。
まるで何もかも分かっているみたいに……実際そうだろう。天眼で覗く無限の未来を、彼女は知っている。ライレンがずっとあなたを助けようとしていたことも、いまや大願や私との個人的な約束を全部捨て去って、敵対していることさえも。
あの指の絆創膏に気付かなかったら、こうやって話すこともなかった。
まだ、シロに会って、三日しか立っていないのよね。いろんなことが巡り巡って、私はここにいる。まるで予測も立てていなかった気まぐれや会話、抜き差しならない状況で選ぶしかなかった行動、全部ひっくるめて私はここにいるんだ。
でも、シロの言った通り……門を閉じれば私たちの勝ち。
ありかちゃんも無事だったんだ。説得して助けなくちゃ。
『私を殺していれば、すぐにでも願いは叶ったのですよ? 私が死ねば、門は消滅する。ただ、白い精神の糸は千切れて残ります。その糸は地球や宇宙までは及ばなくても……人間全体をネットワークのように繋ぐことはできる。そして仕込んでおいた私の天眼の力が発動し、幾つかの命令を焼きつける……はずでした』
『私がありかちゃんの精神に入ったことで、知らないうちに回避したのね』
『その通りです。まあ、ヨグ=ソト―スに支配されても、取引は済ませてありますから、私の夢は少なからず死後に成就します。不本意ですがそっちで妥協しますよ』
……あまり残念って感じはしない。
むしろそっちの方が嬉しそうな気がするのは、なぜだろう?
ありかちゃんは私の心を見透かしたように困り眉をつくり苦笑する。
『それは……言えません。めぐみ様が笑わないと確信していますが。その、とても恥ずかしい類いのものでして……ええと、イメージだけを伝えると、世界征服みたいなものだと言っておきます。頼廉がトップに立ち、人間は絶対服従で生活する。白のいた外なる宇宙よりはマシだと思います。意志があり、方針に従うという点は国のシステムと然程かわらない。統一された意識で動くぶん、今の世界より暮らしやすくはあるんじゃないでしょうか』
本当はそこに私も居られたら良かったのですが、とありかちゃんは呟く。
ありかちゃんが死ぬという運命は変わっていない。彼女がどう頑張っても抗えなかったのか? いや、まだ方法はあるはずだ。私が居ることで、何か変えられるはず……!
私の魂に、闇が絡みついた。
思わず周囲を見回せば、暗いだけだった精神の海が青みがかり、明確な意思を持ってこっちに押し寄せて来る。炯眼の力を燃やして対抗するが、身体と魂が剥離しているこの状況では十分に伝わってこない。
『ここから出ることは叶いません。頼廉に、私が無事だって伝えることも。炯眼で操って門を消滅させる行動も取らせない』
『それは……っ』
『次に貴女は説得を試みようとします。私の気持ちを汲み取ることなんて誰にもできませんし、言われたくもないです。唯一、似た傷を負っていた貴女にだけは、その資格がある。ですが、それでも……もう聞き入れることはない!』
ありかちゃんの瞳が青い輝きを放ち、暗がりを支配していく。潰れた精神、その神経ひとつひとつを意のままに操る。もともと彼女の中に入っていたものだ、怖ろしく手慣れている。そして――
『逃がしません。いくら貴女が炯眼を持っていたとしても、ここは私の精神世界。何もかも思うがまま。紫雲山を脱出したときと違い、運命をねじ曲げるほどの不確定要素もない……やるだけ無駄ですよ? 残しておいた天眼の力を、時間いっぱいまで振り絞るだけ。大願より先に死のうが後に死のうが……私の夢は、絶対に叶える』
『このにおい……本気で、私を……っ!』
瞳はただ青く輝き、ひそやかに燃えていた。
鋭さのない表情からは想像もつかないほど、秘めた決意が込められている。
精神の底深い所で、暗い感情がドロドロと噴き出してさらに黒く滲み、私に絡みついて離れない。
『非常に心苦しいのですが……私と一緒に死んでくださいね?』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます