第8話 流るる銀河赤道
「失礼。向こうから連絡が来たようです」
携帯から短い着信が鳴り、アリカちゃんが画面を見て言った。
たどたどしい指使いで返信の文章を打っている。
「
「よかった。追い付いたんだ」
「……はい。こちらに迎えが来るのは後にさせました。めぐみ様と過ごす、かふぇのひとときを邪魔しないで、と伝えておきます」
「ああ、そ……え?」
私に視線を持ち上げて、ふふっ、と笑顔を見せる。
笑い返そうとして思わず、コーヒーのカップを取り落しそうになった。
アリカちゃんの……いつまでも眺めていたいと思っていた、瞳がどこにもない。
輝きをなくした、とか暗く濁った、とかそういう表現じゃなくて……
眼が、なくなっている。
子どものころ、雪だるまの目を木の実で作り、いつの間にかはまっていた木の実が落っこちたみたいに。空洞のくぼみから、目の裏側の部分がうっすら見えている。
二つの眼球だけが透明になってしまったような……!
「どうかなさいましたか?」
「え? え? あっ、いや……」
上手く言葉が出ない。対人の恐怖じゃなくて、さっきの光景に心が乱れている。
ちゃんと、アリカちゃんの目は付いてる。そう。それが当然だ。
気のせい……見間違い? 幻覚……どれもピンとこない。
私の中で不安が急に膨らんでいく。
全身を叩くように、嫌なざわつきでいっぱいになる。
「あの! 用事があるから、そろそろ行くよ。お茶。いっしょ出来てよかった」
「めぐみ様!?」
椅子に足がひっかかり、もたついた動きで立つ。
カップの片付けもせず、呼び止めるアリカちゃんから逃げるようにカフェを出る。待ちゆく人の視線をかいくぐり、携帯を凝視しながらふらふらと歩く。
――なんだこの胸騒ぎは。
怖くなったから? それもある。
未来に続く今がぶつりと千切れてしまったような。
コウちゃん。シロ。アリカちゃん。そして私。
世界中で私たちだけに、どでかい不幸が降りかかる想像が……
私たちだけに、狙いすまして雷や隕石が落っこちてくるんだ。
そんな匂いがする。
シロみつかったんだよね?
どうしてコウちゃんは私に連絡の一つもくれないんだ?
のんきにシロの背中なでてる場合じゃないぞ
こっちから電話するか。
追いかけてった二人に引き渡したんならさ、両手空いてるだろうし。
「あ……いたっ。いっ痛い痛ッ!?」
眼がかすみ、携帯の文字が薄れたと同時に、
縫い針が内側から突き出たような痛みが走る!
シャッターの閉まっている店舗に背中をぶつけ、音が鳴る。
人の視線が次々に刺さり、思わず駅前の道から壁を這いずって路地へ入った。
痛い! 両目が開けられない!
背中をフェンスに寄りかからせて、両手で覆い……激痛に耐える。
灼けつくような熱さ。
砂漠に目だま落として転がしてるんじゃないかってくらい!
「うううぅ!? 熱い! ああッ!」
熱いぃぃ! あつあつあつあつぃ! 燃えてる! 融けてるッ!?
眼の奥のどこまでも!
視界がにじむ。涙が止まらない。
濁った血のフィルターがかかったみたく目に見えるものが赤い――
両手で押さえてるのに?
ふいに頭の中が冷えた。
痛みはまだ残っているけど熱さはそこまで感じなくなった。
私のどこかを通り過ぎ、忘れてしまえるくらいには。
遮っているはずの目が、見えている。
暗闇の中に奥行きがあり路地の風景も何となくわかる。
何よりも、匂いが。
水槽に溶かした絵の具のように、赤い色の匂いが向こうから這い寄ってくる。
『コウちゃんはこの赤の先だ』
そう思った。
コウちゃんの匂いがする。
顔から両手を外す。
ニチャっと音がして、ぬめった涙が手のひらを流れた。
ゆっくり目を開けてみる。
多少にじんでいるが、いつもの駅前。人通りの少ない路地裏だ。
そして赤い色が眼で追える。行こう。コウちゃんと……シロもそこにいる。
すれ違う人も、私を避けているみたいに道が出来ていく。
赤い匂いの道を、いまの私の精一杯で走った。
そばに立つ私が何かを叫んでいる。でも構わない。
付いてこれなきゃ、置いていくだけだ。
* *
「ガキか……どっかへいってな! あ? ケガしてんのか?」
「この通り立て込んでる。診てやりたいが他を当たれ」
路地裏の奥、さびれた駐車場にコウちゃんはいた。
シロも、すぐそばでじっとしている。
コウちゃんは手を後ろで縛られ、顔はぐるぐる巻きにされ口元しか見えない。
ぐったりしていて、唇には血の跡がある。
アリカちゃんの護衛二人は、コウちゃんを車と車の間へ隠そうとしていた。まるで物のような扱いで引きずって。
――どうしてこんなひどいことになる?
シロを一緒に追いかけてたんでしょ?
お礼を言われて車に乗せてもらい、カフェの私たちのところまで特別待遇で来るってのが、自然な流れじゃないか? なんで暴力をふるうの?
それとも……コウちゃんが何かしたか?
その仕打ちは受けなければならない、当然の報いだったのか?
……信じられないな。
疑問がぐるぐると巡り、声を掛けられた二人に対しての不信に変わる。
怒りや恨み、憎しみは湧きあがらない。
そういう育っていく感情たちはみんな……隣にいる私が独り占めしてる。
涙を流し、呪うように叫んでる最中だ。
ごめん。二度も辛い光景を見せちゃって。
でも、すぐ心配はなくなるよ。……私が消してやる。
息が漏れた。
涙も止まらないので腕で拭う。
ただ心拍数が上昇し、血液が煮え立つ感覚に身を任せそうになる。
「ああ……」
私も最近、それ体験したことあって分かるんだけど。
口端の傷は殴られた時に。
頬の傷は、アスファルトの地べたに這わされたから。
腹にも何発か入れられてる。そういうにおいの跡がある。
知ってるよ。痛いくらい知ってる。
よくもコウちゃんに私と同じ傷を……つけてくれたな。
ひとつひとつぷちぷちと私の何かが潰れていく。
「うぅ――あ、あ、あ、ア、アッ」
「おい。もしかして」
「赤く灼けただれた目……どおりで見つからないわけだ」
最悪ってのをにおいにしたら、こんな感じなのか。
人を傷付けようとする者のにおい。敵意。恐怖。命令を実行する、淡々とした冷たさ。魂が捻じ曲げられそうになる……いやなにおいだ。
「こいつが持ってやがった! この男じゃない……クソがッ! 逃げられねェ!」
「俺たちが繋ぐ! 覚悟を決めるぞ……白様と
知るか。お前たちは断たれろ。
コウちゃんの痛み、私の絶望を味わって……断たれるんだ。
涙がどくどくと流れている。
見るもの考えるもの、全部にじんで色付いていく。
私に繋がる何もかもが赤く染まる。
涙は、血に似ていた。
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