第4話 紫に染まる視界
温かい。
窓の外はたくさんの音や活動に満ちている。
毛布から出した手をゆらゆら揺らす。
ぐっぐと力を込め、ベッドから起き上がる。
背中と腕を伸ばしたら、天井に届きそうなくらいのびのびした気分だ。
そんな私を冷めた目で見ている隣の私もばっちり起きている。
すごくいい感じだ。
「おはよう。シロ」
「わう!」
飼い主さんに引き渡すまでこの子の名前はシロ、と呼ぶことにした。
はじめて声をかけた言葉そのままの、シンプルなネーミング。
あのポスターに名前書いてなかったしお別れまでってことで。
そういえばシロは何歳なんだろう?
洗面で顔を洗い、手のひらで目を覆いながらゆっくりと視線を上げる。
鼻とかほほの部分……殴られた跡はそんなに残ってない。
メイクでぜんぜん胡麻化せちゃうくらいだ。
なんかちょっと見ない間に、痩せた!?
思わぬゼリーダイエットの副次的効果よ。
携帯がピコッピコッと揺れて、コウちゃんからのメールを知らせる。
昨日の夜、メールでやりとりしてシロのことを話した。
あと3時間後……昼前にはこっちに来てくれて、飼い主への連絡や送り届けをしてくれると言っていた。私には恵まれ過ぎた友だちの一人。
めぐみという私の名前は、私が思う以上に恵まれた運命を引き寄せているんじゃないかってときどき感じるんだ。
今日が祝日というのも幸運なんだよ絶対。
《持ち運びのケージ、これくらいの大きさで入りそう?》
《わぁー思ったより大きい。楽に入ると思う!》
《一回り大きいくらいで犬にはちょうどいいから、これにしようか。エサは昨日の夜食べたんだよね? 朝はどう?》
《これから一緒に食べる! 楽しみに待ってる!》
《他にもいろいろ持ってく。12時前くらいの予定。家近くなったらメールする》
メールの片手間に鍋をゆらす。――完成ね。
昨日作ったスープ煮を取り分けて、自分の朝食に流用した。
朝はシチューと食パン。肉を少なくしたから、今ならイケるはず。
「いただきます」
すでにシロには声をかけて、食べてもらっている。
といっても目を閉じて気持ちを落ち着かせてるうちに、皿はからっぽだったけど。シチューの匂いに、どうしても食べれなさそうなイメージが消えてくれない。
「わう」
空中で止まっているスプーンを咎めるように、シロが小さく吠えた。
そうだ。大丈夫。勇気出せ私。
スプーンを口に運びぐいっとのみ込む。
身体がびっくりして吐き気を誘発するが、反対の手で口をおさえた。
毒が入ってるんじゃないかってくらい拒絶感が強い。
そばに立つ私が「ああ言わんこっちゃない」みたいな顔をして見下しているが、
吐き気を噛み殺し嚥下しながら涙目で見上げ返す。
ほら、食べられた。
出来なくなったことをぷちぷちと潰せ。ひとつひとつ順番に。
それがぜんぶ無くなったら、いつもの私になれる。
なれるはずだ。元通りに。
「戻りたいよ……」
シチューに涙が落ちそうになる。
感情が戻ってきたのは悪くないけど、この涙がきっかけで何もかも崩れ落ちていくような不安を感じてしまう。
「どうして、なんで私だけ……!」
怖い。
もしこのまま自分を変えることが出来ないなら。
友だちにも、子どもたちにも会えない。
腕で顔を拭うと、シロが寄って来た。
ちょうどいい位置の頭を撫でる。鼻を鳴らして、涙のにおいを嗅いでいるみたいだった。昨日のお風呂で目の汚れや充血が落ちたのか、透き通った銀……灰色になった瞳で私を見つめている。心配してくれてるのかな?
もう一度頭を撫でた。
「わんっ!」
「うん。変わっていこう……これからも」
私の心に、少しずつだけど色が戻っている。
だから大丈夫。諦めない!
* *
コウちゃんからの連絡が入る。
もう家が見えるくらいらしい。時間的に迷わず来れたな。
メイクは……正面を見れないから、バッチリとはいかないが、傷は隠せてる。まるであの時のことなんて無かったみたいに目立たない。
もう一人の私も疑似的な鏡になってもらい、協力はしてくれた。
最後にキャラクターのヘアゴムを外し、リボンシュシュを付ける。
鏡に映った髪型をととのえ、かるく首を振る。
準備は万端。
友だちと会う。ただそれだけのことに、たくさんの時間と覚悟を持たなければいけない自分がもどかしくて嫌になる。
そう心が思っているだけで、逆らい難い運命のように感じてしまう。
流れるプールみたいなものだ。泳いでももがいても、必ずそこに辿りつく。
でも、そこに行きたい、目指したいと動かす手足は……無駄じゃない。
湧きあがる気持ちだって同じだ。
玄関のベルが鳴った。
それを聞いて私は大きく深呼吸。
――すぅ、はぁ。――すぅ、はぁ。
ここが崖っぷち。分水嶺。
頑張りどころだ。
気合い入れろよ……私たち。
「はーい!」
声も張れる。いける。
きっとうまくいく。……ここから。
止まっていた心も時間も、動かしていく。
「お邪魔します。……元気か?」
「……あっ」
コウちゃんと目が合う。
息が止まりそうになり、心臓の音に意識が向く。
全身が波打つようにぼうっとなり、汗もにじむ。
はやく次の言葉、声に出さなきゃ。
でもどう言えばいいのか頭から抜けちゃってる。
「なんだ? 何があった!?」
「え? え? ご、ごめっ……えへっ」
コウちゃんが心配してる。笑おう。
どうにかして笑おうとするけど、表情がうまくつくれない。
「ち、違っ……あ、えへへっ……ハハ、ハ……ヒッ」
「……」
死にたい。
今すぐ死んでしまいたい。
助けに来てくれた友だちに愛想笑いとひねくれた顔しかできない。
これ以上ないってくらいみじめじゃん死んだ方がいいな。
身体は石みたいになってるけど、動かせる。
すぐそこ、台所の包丁にふるえる手を伸ばす。
隣にいる私が、包丁の前に立ちふさがるようにこっちを睨んいる。
哀しそうな……自らの無力を呪うような表情を変えない。
とうとう私は、私自身からも目を反らすようになった。
何も……息もできない。
貧血みたいに目の前が青黒くなっていく。
ああ、ああ。
いますぐひざをついて縮こまって消えてしまいたい……!
「わう!」
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