第1話 色のない部屋
寒い。
雪が降ってるみたいに寒くて静かだ。
毛布から出した手が震える。そういえば爪がけっこう伸びたな。
こんな機会だしショートネイルでも試してみるか?
うぅん、保育士としては相応しくないしなあ。
ため息をつく。
まだベッドから起き上がれない。
いまは……16時過ぎ。夕方前。
外は静かなだけで、雪も雨も降っていない。
このさい槍でもいいから降っていてくれないかな?
傘を差せるなら、歩ける範囲を広げられるのに。
日傘ってガラじゃない。ご年配の方か……深窓の令嬢なら似合うだろうけどさ。
雨の日はいい。
傘が人の目を弾いてくれるし、堂々と下を向いて歩ける。
視線が合ってしまったら、今度は救急車のお世話になるかもしれない。
それは迷惑だしやだな。
……なんでこうなっちゃったんだろう。
高校生の時の友だちみんなで、旅行にいく前日。
買い物もだいたいの準備も終えて、自宅に向かう帰り道。
私は男の人に触られて、ぶたれて、殴られた。
何て声を掛けられたか、おぼえてない。
あの時は不幸にも、誰もいない路地裏に連れ込まれた。
いくら話をしても通じなくて、一目で分かる異常な人だった。
お酒とかじゃない……危ない薬とか、頭が曖昧な感じ。
身の危険を悟り、大きな声を出したらぶたれた。
訳の分からない言葉をぶつぶつと呟きながら今度はほほを叩く。
その時にはもう怖くはなかった。
私の身体から心は剥離して、遠くからその光景を見てるだけ。
ああ、これが終わったらはやく家に帰って荷造りをして、
遅刻癖のある友だちに明日遅れないでよって連絡しなきゃ。
――そんな風に思ってた。
誰かが通報してくれたのか、警察の人が何人も来た。
こんなにすぐ来るものなんだなぁってちょっと感心した。
それならもっと早く来てくれたら良かったのに。図々しいけどさ。
あっという間に男の人は捕まって、喚き散らしながら連れていかれた。
私も別の車に乗せられて、どこかに運ばれた。
警察署かな? 部屋の椅子に案内されて座った、と思う。
何かを警察の人に聞かれて、話していたような気がする。
すべてがただぼんやりと過ぎ去っていった。
いつのまにか私は家にいて、もう深夜に近い時間だから、友達に遅刻しないようにって連絡するのは止めた。それから――
起き上がれるくらい身体が目覚めてきたので、
ゆっくりとベッドから出る。
洗面で顔を洗う。……鏡は見ない。
試してはいないけど、人の目っていうカテゴリーの中に、私自身もカウントしてしまっている気がする。『なるべく自分の心に沿いなさい』と、病院でも言われたし。もう少し症状が落ち着いてからにしよう。そう心が決めた。といっても――すぐに有休も切れちゃいそうだから、まあ悠長には構えていられないが。
冷蔵庫を開ける。
なにも食べる気はしないが、ゼリー飲料だけでもお腹に入れておく。
はぁ。
思えば、運が良かったんだ私は。
もしかしたら、あの時頭が曖昧な人に殺されてしまったかもしれない。
あるいは取り返しのつかない大ケガ。
……通報してくれた人と警察に感謝しなくっちゃ。
このまま保育園に勤められなくなるのは嫌だな。ただでさえ、旅行の休みを取るのに結構な作業を詰めたり、先輩先生方にアレコレ頼んだりしたのに。
職場の人たちにはなんて言おうか。
園長先生には事情は話してあるけど。
旅行には熱が出て行けなかった、みたいな説明は必要だ。
迷惑かけてるからお菓子の詰め合わせでもどこかで用意しなきゃだし。
ゼリー、冷たいな。
もうストックの分は常温でいいか。
今は……ああもう。いつの間にか夜になってる。
食パンとか買い物行かなきゃ。そうだよね?
私の心が叫ぶ『外に出たくないいくつもの理由』を、
なだめ、ごまかし、ぷちぷちと潰していたらこんな時間だ。
――私の身体と心は、まだ剥離したままくっつかない。
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