ヤイロに包まれて

安室 作

第0話 青空が滲んだ日




  ҉     ҉




「ひどいな」

「はい……自分はこんな現場、初めてです」


 路地裏の奥、ちょっとしたスペースで二人が呟いた。

 見上げれば空は青い。ただ、この場の凄惨な臭いは残ったままだ。


「顔色悪いっスね。特対トクタイの片桐さんでも天を仰ぎたくなりますか?」

「そんなんじゃねェよ……ガイシャの身体に不審な点は? 特に傷についてだ」

「両手の傷は写真の通り。局部は……うわぁ痛そう」


 若者が思わず感情をさらけ出す。

 嫌悪感というより、この傷はたぶん痛いんだろうなあ、といった類の。

 上司は苦虫を噛み潰したような堅い声で言った。


「スジモノやマフィアとかの報復なら無くはない。だが写真を見る限り――」

「歯形がいくつか付いてます。噛み千切られたんスかね?」

「これ全部をか? 落ちてたホトケの一部は五十ほどあるんだぞ」

「自分はやりたくないですが、傷口の荒さや類似とかの説明はつきますからねえ。報復にしちゃちぐはぐです。そもそも刃物でやれば楽なのに」


 上司は写真を眺めてうなる。

 ちぐはぐ、と若者の言葉を反芻するように呟く。


「右手は手首近く損壊してるのに、左手は指の途中まで。どうみる?」

「クマや猿が逃げ出して、ここで被害者に飛び掛かった! 五十回ほどもぐもぐ噛み付いてこの場から逃走! ってシナリオは……ないですよね」

「欠損はなく、揃っていたって話だがな……そういや鑑識はまだか?」


 初動の鑑定はもうすぐですよたぶん、と若者が上の空で答えた。

 上司はその態度を咎めず、若者の言葉を待つように周囲を改めて見回す。


「……でも片桐さん? 抵抗のあとがありません。血痕が辺りに飛び散ってない」

「お、気付いてたか。俺も一番気になってるのはそこだ。掴まれた形跡や束縛痕はないのに、その場を動いてねェ。出血量からみて即死でもないのによ。ガイシャはずっと、何も出来なかったみたいに無抵抗だった」

「小指噛み千切られるだけで、自分なら激痛でのたうち回ると思います。麻酔とかで痛みを消し去れば……あるいは」


 路地の入口。封鎖されている箇所から、鑑識の荷物を持った人が現場に入ってきた。若者が挨拶をして渡された資料を眺める。


「鑑識の初動報告っス」

「傷と死亡時の状態は?」

「被害者にアルコールおよび薬物反応はなし。まるっきり素面の状態で――」

「……」

「すべての傷口、歯形が被害者のものと一致……? え? どういうことです?」


 若者が言い切ってすぐ愕然とした顔を上司に向ける。

 上司は一度何か言おうとして、ぐっと喉奥にのみ込んだ。

 ここまで一度も変化のなかった渋面に、言い知れぬ怒りと恐怖が混じっていた。


「どうもこうもねェよ。ってことだよ! 現場にもう用はねェ。武市たけち! 防犯カメラ周りでガイシャの足跡を辿れ。俺は巡回の増員を上に掛け合う……近隣で何かがあったとき、すぐに駆け付けられるように。どうにかして、ホシの尻尾を捕まえなくちゃならん」

「自殺のセンは? 死に方は特異ですがいくら強要されたってこんなこと……」

「ない」

「ですよねー。自分は被害者と接触した人物を洗うんスね? 常識を取っ払うと、自ら夢中で自傷し続けるような何かが、この路地にあって……不幸にもそれと遭遇した、って感じ……」

「お前、やっぱり特対課ウチに向いてるよ。俺が推薦してやる」

「絶対やです。映像にホシが映りこんでりゃあ網カケ楽なんですけど……」

「ああそうだ……人だといいがな」

「動物でもいいッスよ」




 若者が両手の指で犬を作り、わんわんと口を動かした。


 

 

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